東井朝仁 随想録
「良い週末を」

早稲田通りを歩いて(2)
(前回の続きです)
超久しぶりに、早稲田通り沿いにある昔からの「あまから食堂」でタンメンとおはぎ1個を
食べ、1000円札でお釣り150円を受け取り、次に、店を出てすぐの古本屋で1冊50
円の文庫本(新品同様)を買い、残ったのは100円玉一つ。
これを握りながら、早稲田通りを更に馬場下に向かった先は「穴八幡宮」神社。
場所は、食堂から早稲田通りを下ってすぐの交差点の角。
この交差点を左に行くと早大正門前。右に曲がると文学部キャンパス。
今回、穴八幡に参詣したのは約40年ぶり。
私が結婚した年の昭和49年から数年間、毎年師走になるとお守りを頂き(買い)に訪れて
いた時以来。これも超久しぶり。
訪れて、まず驚きました。
失礼ながら「あの古くて小さくてぼろい神社が、それも風が吹くと砂ぼこりが舞う何もない
境内が、これほど豪壮な建物や鳥居に整備されていたとは!」とビックリ。
門前には鮮やかな朱色の鳥居が建ち、これをくぐって階段を登り、これも鮮やかな朱色に塗
られた楼門(?)をくぐって、また何段か登ると、ようやく高台の敷地に大きな社殿が鎮座。
昔は確か、小さな木造の古い本殿だけだったと記憶。
それが今は、本殿(神霊をまつる社殿)手前に拝殿(拝礼を行う社殿)、そしてその間の幣
殿(へいでん)が連なり、誠に豪壮な社殿となっていました。こちらは浦島太郎の心境に
(浦島太郎の話を知らない人が多いか?)
平成になってから逐次、社殿や境内や鳥居の大規模整備にかかって、ここまで出来上がって
来たようで、まさに穴八幡の商売繁盛運と関係者の努力の賜物のよう。



この穴八幡宮は、金運・商売繁盛のご利益があるということで評判。
ちょうど今の時期は「一陽来復のお守り」を販売しているので、遠方からも大勢の人が参詣
されていました。
駐車場の車ナンバーを見ると京都とか静岡もあります。
初詣も終わったのに、なぜこれほどの参詣客が押し寄せるかというと、昨年末の冬至から来
月の節分までの期間しか、「一陽来復のお守り」は販売されていないからです。そして、そ
のお守りは、冬至の日、大晦日、節分の日の3日のいずれかに、家の中の今年の恵方に向か
って、壁か柱の高い部分に貼らないとご利益がないと言われているから。
来月の3日の節分に恵方に貼るためには、今がラストチャンス。色々な人が色々な願いを抱
えて、お守りやお札を買い、参拝されていくのです。
ちなみに「一陽来復」とは、広辞苑では「冬が去り、春が来ること。悪いことばかりあった
のが、ようやく回復して、善い方に向いてくること」とのこと。

前述しましたが、最後に参詣に来たのは昭和53年頃。
当時、配偶者の母親(三重県津市在住、東京出身)が、毎年、ここのお守りを買って節分に
家に飾っていたので、私が役所(当時は霞が関の厚生省)の御用納めが終った帰りに穴八幡
に出向き、義母に一陽来復のお守りを送っていたのです。
しかし、穴八幡とのかかわりはそのずっと前から。私が早稲田大学第二文学部に通学し始め
た昭和41年(18歳)の頃からのこと。
当時は現在の様な近代的に整備・管理された境内ではなく、植え込みなどはない殺風景な地
面が広がる境内。その1段下がった狭い広場にはブランコがあり、私は時々この高台の公園
に級友と来ては、二つ並んだブランコをこぎながら、道路を隔てた先に広がる「文学部キャ
ンパス」の揺らめく風景を眺めながら、大学紛争や芥川賞や直木賞の本の話などを駄弁(だ
べ)ったりしていたのです。
卒業後の3年間は、入省当時の私の職場が厚生省統計調査部で、文学部キャンパスから徒歩
で15分ぐらいの市ヶ谷本村町にあったので、私がキャップテンをしていた職場のバレーボ
ール部の若い部員などと、たびたび早稲田界隈の飲み屋で痛飲したあと、ビールなどを買っ
てこの高台に来ては騒いでいました。
ある夏の夜には終電がなくなり、夜の3時頃、穴八幡の境内の真ん中にポツンと立っていた
木の櫓(やぐら)に上って、2畳ほどの床板に3人でごろ寝して夜明かししたこともありま
す。
祭り太鼓用のやぐらだったのでしょうか。その時はだいぶ老朽化して使われていなかったせ
いか、床板に寝転ぶと、砂や小石で背中が痛くて寝られません。
仕方なく私が下に降り、寝静まった商店街で古い大きなポスターを3枚剥がしてきて、それ
を敷いて寝たこともありました。
商店や神社の人に見つかって、大目玉。警察に通報され、窃盗及び不法侵入の罪で職場に連
絡が行き、訓告か厳重注意の行政処分。とはいきませんでした。これも穴八幡のご利益かと。

その懐かしの穴八幡宮の拝殿に参詣。
私は、お守りを買う長蛇の列を避け、まっすぐに本殿のさい銭箱の前に行き、3か所ある拝
殿ポイントの中で、誰も並んでいない右側に立ち、手に握っていた100円玉をさい銭箱に
入れ、何も願わずに無心で2礼2拍1礼。(長蛇の列の人は、お守りやお札を買ってから、
3列の中でも真ん中の列に入るのです。中央の鈴を鳴らして神前に拝礼するのが目的なので、
左右の列には殆どつきません。
私はどの位置から拝んでも神様の受け取り方は同じだと思っています)
これで、あまから食堂での昼食代、古本屋での文庫本代、そしておさい銭箱に沈んだ100
円で、丁度千円。
蛇足ですが、本来、私が期するところがあって神社や仏閣にお参りする際のお供え(おさい
銭)では、ジャラジャラと音をたてることはありません。お札(千円札・万円札)だからで
す。
(参拝客の中には硬貨を何枚か放りこむ人がいますが、そもそもお金は投げたり放ったりす
るものではないでしょう。硬貨をそっと滑らすように入れるべき、と私は思っていますが)
参拝のおさい銭は、お金の多寡が問題ではなく、その人の願いの強さ、神仏に対する畏怖と
感謝の強さ、心の在りようが重要なのは当然。
しかし、その本気度が強ければ強いほど、やはりある程度、自分の懐を痛めてもという気に
なるのでは。痛めることはその神社・仏閣の維持・運営ひいては人助けにもなるし・・・と
思っていますが。
今回の私のさい銭は100円玉一つ。
これでいいのです。
長年、いつでも、どこでも、どの神社・寺院でも、目について参詣することを習いにしてい
るので、挨拶程度で参詣することが多く、こうした場合は、まさに身の丈に合った額として
100〜200円程度と決めています。
昨年末にたまたま読んだ、源氏鶏太の文庫本「御身(おんみ)」(2019年8月発行・筑
摩書房)。これは1962年に刊行された同書の復刻版。
58年前の青春小説。同氏は青春・サラリーマン小説の名手として多くの著書を手掛け、当
時のサラリーマンやBG(ビジネスガール。女子事務員)など、広く国民に読まれていた。
その「御身」の本の中で、主人公の若きBGが神社で参拝をする場面が出てきます。
若きBGが、長谷川という他所の社長に恋ならぬ恋をし、「もう付き合いはやめよう」とす
るのだが、彼が会社の再建のための借金に奔走している姿に心を痛め、浅草の観音様にお参
りに行ったのです。
「私は、観音様の階段を上って行った。が、そのときには、もう長谷川のためを思う女にな
り切っていた。私は、おさい銭箱に百円を入れて、合掌した」

私は、この文章を思い出し、「あの当時(昭和37年頃か)の百円は、今なら幾らぐらいか?
私が中学3年の頃だ。高校2年の時、小学3年生の家庭教師をして、1回1時間半で400
円だった。
その金で、級友とお好み焼きを食べに行ったときのお好み焼き1人前(1枚分)が、確か
40〜50円だった。今の家庭教師の時給は知らない。お好み焼きは1000円ほどか。す
ると当時の20倍?
ならば、当時の100円のおさい銭は、今なら2000円換算か・・・なるほどいい線だ。
当時の給料が安い若いBGとしては、なかなか賢明で魅力的な女性だ」
そんなことを考えながら、穴八幡を後にし、ゴールの早大正門前に向けて、再び歩き出した
のです。
次は100円玉の5倍ぐらいを使うために。

話の続きは次回にでも。
それでは良い週末を。