早稲田通りを歩いて(4)
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(前回の続きです) 早稲田大学第二文学部の受験を決意したのは、昭和40年11月末だった。 それまで、大学受験など全く考えずにきたので、残された3か月でどのような勉強をすれば 良いのか迷いながらも、とりあえず二文の「過去問」と参考書を2冊買った。そして夕食後 に、寄宿舎の自室(従兄(天理大学外国語学部卒の社会人)との相部屋。8畳の和室をカー テンで半分に区分していた)で、机に向かっていた。 夕食までの放課後は、地歴部の部室に顔を出したり、仲間たちと連れ立って街を逍遥したり、 誰もいない冬のグランドで、級友とラグビーボールを使い、日没間際までゴールめがけてキ ック(プレース・キック。ボールを地面に立てた状態で蹴る)を繰り返して遊んだりしてい た。 年が明けた昭和41年。 私はこの冬休みは帰京せず、残留組の仲間たちとどこかの一室で、当時出回り始めた即席ラ ーメンを食べながら、正月を迎えた。 そして三学期の始業式の日「卒業まで残り2か月。高校時代の掉尾を飾るため、何かを成し 得てから帰京しよう」と考え、寄宿舎から歩いて10分ほどの所にある大きな本殿の回廊掃 除を、夜の零時から毎夜、卒業式の前日まで行うことを決心した。 その日の夜から、零時前に寄宿舎を出て、人通りのない凍てつく道を震えながら神殿に向か った。 今のように防寒着としてのブルゾンとかダウンジャケットなどはなく、親が秋に仕送りして くれたGパン(東京ではこの頃から若者の間にGパンが流行り始めていた)に普通のセータ ー姿だった。 天空に冴え冴えと輝く月の光が、夜の闇に覆われた広大な境内をほのかに照らしていた。境 内の玉砂利を踏みしめながら神殿に着くと、闇夜の中で遠方の炊事センターの電光時計がク ッキリと零時をさしていた。 境内も神殿も広くて長い回廊も、透き通るような深い静寂に包まれ、それが、身を突き刺す ような寒さを、ひときわ厳しく感じさせるようだった。毎夜、千畳敷どころか3157畳敷 という巨大な神殿から、仄かな明かりが周囲にもれて、優しく迎えてくれていた。私が夜警 当番の青年に挨拶すると、誰もが「ご苦労様です!」と、温かな声をかけてくれた。 この回廊は壮大な神殿と教祖殿と祖霊殿の、3つの大きな建物を結ぶ、古い木造廊下。 (HP写真集・ 2010年5月17日{高校卒業後45年目の天理の街}を参照ください) その廊下に立つだけで、すぐに足の裏が冷たくなった。それほど手足がかじかむほど冷たい 廊下を、四つん這いの姿勢になり、両手の乾いた雑巾で廊下をカラ拭きしながら、少しずつ 前進していく。 神殿は「いつでも誰でも自由に」昇殿出来た。そして多くの窓が開け放しになって、寒風が 吹きこんでいた。 だか一周を1時間かかって回廊を拭き終わった時は、全身汗びっしょりになり、身体から湯 気が立つほどだった。私はセーターを脱ぎ、汗が引くまでワイシャツ一枚の姿で、下駄の音 を響かせながら、静かな厳寒の夜の街を意気揚々と引き揚げていくのだった。 ほどなくして、仲間の何人かも「回廊掃除」に加わり、他愛のないお喋りを交わしながら、 時には青春歌謡を口ずさみながら回廊の拭き掃除を行った。それは卒業式の前夜まで続いた。 部屋に戻ると夜中の1時半。 私は携帯ラジオのイヤホンで「深夜放送の電話リクエスト」を聴きながら1時間ほど勉強を 再開するのが、常になった。 「高槻のAさんから寝屋川のBさんへ。期末試験頑張ってください。いつか二人で信州に行 きたいですね、とのメッセージです。それではAさんのリクエスト、舟木一夫さんの「北国 の街」をお聴きください」などと、DJの声と共に哀愁を帯びた歌が流れてくると、しばし 筆記の手を止め、交換日記の相手であるKさんのことを思い浮かべることもあった。 いつの頃からか、交換日記をする先輩と後輩の関係から、お互いに淡い恋心が芽生える関係 になっていたからだ。 そして日々はあっという間に過ぎ、2月28日の卒業式を迎えた。 式が始まると、みぞれが降り始めた。私は気が気じゃなかった。 つまらない式辞がだらだらと続き、そのあとは卒業生全員で神殿参拝に行き、ようやく解放 されたのは、予定を大幅に遅れた午後2時だった。 私はKと、昼の1時ジャストに天理プール(当時は東洋一の規模を誇っていた。東京オリン ピック終了後に、金メダルを4個獲得したドン・ショランダーなどのアメリカ水泳選手団が 来訪し、ここで模範競技をした)の屋上で待ち合わせの約束をしていた。最後の日記交換を することにしていたのだ。 私は神殿前で全てのスケジュールを終えて解散すると、激しくなってきたみぞれの降る道を、 駆け足で走り続け、3階建ての吹きさらしの屋外プールに到着すると、階段を一気に駆け上 がった。 広い無人の3階スタンドに出ると、雪の量が増して、一面が白く霞んでいた。 私は四方を見渡したが、どこにも姿が見えなかった。 「みぞれが降っているのに、こんなに遅れたのだから、帰ったのは当然だ・・・」と諦めて 階段を降りようとしたとき、一番奥のコーナーに、赤い傘が微かに揺れるのが見えた。 駆け寄ると、Kが白い頬を赤く染めて震えていた。 私は「まさか!」と驚き、駆け寄った。 「悪かったな・・・どのくらい待った?」 「1時間半です・・」 「そうか。卒業式が長引いてしまって。ごめんな・・・。大丈夫か?」 Kはほっとした表情になって頷いてから、びしょ濡れの私の頭を見て、ハンカチを取り出し て拭ってくれた。 数日前に、山辺の道(やまのべのみち。日本最古の道)沿いにある無人の小さな神社の木の 下で、どちらからともなく交わした口づけ。お互いに生まれて初めてのキスだった。その唇 が、今は血の気が引いて震えていた。 二人とも無言で階段を降り、それから人気のない裏道を選び、相合傘でいつまでも歩いた。 そして、門限の間際に女子寮の前で何度も見つめ合いながら、別れた。 振り返るとKは手を振っていた。 私も手を振りながら歩いた。不意に涙が頬を流れた。もう振り向くまいと思いながらも振り 向くと、まだ、遥かかなたで手を振っていた。そして視界から消えた。 いつしか雨も上がり、二人の交換日記も卒業を終えた。 翌3月1日。 私は帰京し、その週に行われた二文の試験を受けた。 受験したのは、ここだけだった。 落ちた場合の先のことは考えなかった。 ただ、二学期の全国学力テストの偏差値より、3ポイントぐらいは向上した自信はあった。 試験が終了した。良かったのかも悪かったのかも、見当が付かなかった。 ただ、受験生がやたらに多く、勉強もしていなかったので、さして自信は無かった。 合格発表日が来た。私は午後になってから文学部キャンパスに行った。 結果は、合格だった。 でも、不思議なほど「うれしさ」はなかった。 後で受験者数は2247名、合格者数は441名。競争率は5.1倍ということを知った。 我々団塊の世代は、一生、このように過当競争を余儀なくされるのだろう、と痛感した。 とにもかくにも二文に合格し、大学で勉強するチャンスは確保できた。 その時、ほっとした身体の中に、新たな希望の血潮が湧いてきた。 あとは4年間の勤め先の確保だったが、幸運にもすぐに勤め口が見つかった。 一時期、我が家に下宿していた先輩から、アルバイト先として東京駅前の中央郵便局(中郵) を紹介して貰ったのだ。 先輩は、中郵に勤務していた。 私は4月になると、そこでの仕事を始めた。「保留室」という、中郵の建物内にある税関で 通関手続きを終えた外国郵便小包を、幾つもの棚から探し出し、受け取り者にカウンターで 手渡すという、極めて単調な仕事だった。相手はキャノンやニコンやナショナルや東芝など の企業が多かった。 保留室員は6名。若い者は25歳ぐらいの人が一人。あとはみな中年か定年間近の人だった。 昼食は下の階にある広い職員食堂で、私は1日限定50食の特別定食(60円が40円)を 食べ、残りの時間は、隣の差立て係(国内郵便小包の地域分け)の大きな作業台のテーブル に寝転がり、文学界とか文芸とかの月刊雑誌を読んで過ごした。 そして午後4時半になると、退庁して早稲田に向かった。 そういう約束でアルバイトを始めたのだ。 中郵のビルの外に出ると、東京駅は夕陽に染まり、丸の内を行き交うサラーマンやOLは、誰 もが眩しいばかりに身ぎれいでスマートで、綺麗に映った。私は一日中、作業着を着て薄暗 い古い建物の中で、まさに現場労働者として働くブルーカラーだったから、尚更だった。 内心、「このまま4年間、こうして現場の労働者として働いていくのか。毎日毎日、ただ金 を稼ぐために、単調な肉体労働を繰り返しながら・・・」と考えつつ、「いや、何も考えな いで働いていこう。 大学で学ぶことが本命の目標なのだ!」と言い聞かせていた。そして5月が過ぎようとした 頃だった。 家に出入りする知人のおばさんから「トモちゃん。6月に国家公務員の採用試験があるのよ。 まだ間に合うから、それを受けたらどう?特別採用試験で、受かったらすぐに採用されるみ たいよ」 と言われた。 降ってわいた話だった。このことがその後の人生に大きく影響したのだが、その時は官庁の 仕事の内容も、職場状況も全く分からなかった。でも常勤の正規職員であり、安定的に収入 が確保されるので、私はすぐに申し込んだ。 6月に入ると初級職採用試験(高卒以上が対象)が行われた。 ほどなく、人事院から合格通知が届いた。そして、各省庁から連日、多くの採用面接の案内 通知が届いた(各本省や地方事務局などから20通ほど)。 私はすぐに、その中から一番早い面接日だった通産省に申請し、面接試験を受けに霞が関の 本省に出向いた。 集合室に入ると、何人もの受験者が皆静かに座っていた。 面接を行う会議室前の廊下の椅子に、名前を呼び出された者が待機し、中の職員に呼ばれた ら入ることになっていた。 「それでは只今から始めます。東井さん、会議室の前に行ってください」と、担当官が告げ た。 一番に呼ばれたので、私は少し緊張しながら廊下の椅子に座った。 先ほどの担当官が集合室から出てきて、書類を見ながら「東井さんですね・・・。東井さん は7番で合格しているから、自信を持っていいですよ」とささやき、軽く微笑んでくれた。 そして中から呼ばれ、礼をして入室した。先ほどの担当官のささやきで、緊張しないで応答 が出来た。 その日の夜に内定の電話連絡があった。採用通知は追って送付するとのことだった。 私は日本の通商・産業振興に関係する業務も面白そうだと考えていた。だが、折角だからも う1か所受けてみようと、これも通知到着が早かった厚生省の面接試験に赴いた。 3人の面接官はみな高齢の、落ち着いた感じの人だった。その中の一人が、やけに好意的に 話しかけてきた。 この面接試験が、後の私の人生に大きな影響を与えたことを、後年になってからしみじみと 痛感したのでした。 この続きは、次回にでも。 それでは良い週末を。 |