早稲田通りを歩いて(5)
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(前回の続きです) 厚生省本省の会議室で行われた面接は、全く緊張しなかった。 「落ちても受かってもどちらでもいい。どうせ通産省に行く予定だから」と割り切っていた からだ。 会議室に入り「東井です。よろしくお願いいたします」と礼をして着席した。すると3人の 面接官の一人が、間髪入れずに、「ほう、東井さんはあの奈良の天理高校卒業だね。あそこ はスポーツが強いよねえ。野球とかラグビーとか・・」 「ええ、それに柔道も水泳も全国大会で優勝しています。凄いのはブラスバンドです。全国 高校吹奏楽コンクールで何度も優勝しています。 「そうか、だから甲子園での応援演奏が良かったんだな」 面接官の覚えよろしい天理高校の吹奏楽部は、全日本吹奏楽コンクールで8回優勝し、その 後「金賞制度」になってから22回受賞しているほどのレベルだった。 そんな話が続き、特に質問は受けなかった。私は確認のために「私は早大の二文に通学して いるので、少し早く帰れるのでしょうか?」と尋ねると、「おお、大臣官房統計調査部とい う職場があるが、そこでは通学者は四時半に退庁できるよ。今も何人かが通っているよ」 「そうですか!それは良かった。是非お願いします」と私は頭を下げた。 そして決めた。「ここにしよう」と。 初出勤は7月10日。庁舎は山手線「巣鴨」駅から徒歩15〜20分と、少し遠かった。 だから駅から都電を利用する職員も多かったが、私は歩いた。 庁舎は古い木造モルタルで、戦前の製糸工場か役所の転用みたいな雰囲気で、中庭も狭かっ た。 勤務し始めた季節は真夏。平屋の2棟が並んで建っていたが、当時はクーラーや扇風機など は無く、窓を開け放して涼を取っていた。窓が開け放れて素通しの隣棟に、集計課のパンチ ャーの若い女性たちの姿が見えた。 私の配属先は「社会統計課社会医療班」。 診療報酬請求書(レセプト)の内容を、甲表(病院)乙表(診療所)別に、疾病分類表で疾 病を番号化し、診療行為(初診・再診、入院・外来、投薬(内服・外用)、注射(静脈・皮 下)、検査、レントゲン、処置等)別に精査し、これを数値化する作業。レントゲンといっ ても直接撮影・関節撮影、フイルムのサイズが四つ切・六つ切りとか、造影剤使用の有無と かで、これらの作業は非常に手間暇がかかった。 特に初心者では、点数表が載った分厚い本(甲・乙・歯科)を机に置き、ボール紙に貼られ た疾病分類等の早見表をお雛様の屏風みたく立て、一枚一枚のレセプト処理に四苦八苦して いた。 この製表結果は、中医協(中央社会保険医療協議会)や保険局が「診療報酬改定」の議論を 行う際の基礎資料として使われていた。 班は3係に分かれ、総勢30名ほど。半分以上は中堅の女性職員で、男は班長(課長補佐) と1係長以外は、若い係員だった。 部全体で400名を超える職員数。三分の二ほどは女性で、戦後、父などの働き手を失った 長女の人が、家族のために結婚もせず、身を挺して働いている人も少なくなかったようだ。 しかし、全体に若く、朗らかで、スポーツや文化活動、それにこれが最大の特色だったが、 労働組合活動が活発で、組織率も高かった。未加入者は各課の庶務や管理課にいる職員で、 私から見たら「つまらない料簡」に映った(確かに未組合員の多くは、その後、霞が関の本 省に異動。組合員、ましてや組合役員の霞が関への異動は、私だけではなかっただろうか) 勤務時間は9時から5時。途中、10時から10時半、12時から午後1時、2時半から3 時までの休憩・昼食時間があり、さらに私は4時半に通学のために退庁していた。 私は、休憩時間には本を読むか職場集会に参加するかし、昼休みにはバレーボール部に入っ て、狭い庭で練習をしていた。正面玄関のコンクリート造りの二階バルコニーでは、乙女(?) らのコーラス部が朗らかに歌を歌っていた。 一方、早大二文の講義は早い時間帯もあったが、私は午後5時20分からの履修科目で時間 割を組んだ。 特に、どうせ学ぶならと「社会福祉主事・児童福祉主事」や「教職」の任用資格が取れる科 目を選定し、それに心理学や社会学の科目を専攻した。 1年次は、90分の1科目を月曜日から土曜日まで、毎日2〜3科目の履修。 3科目が終了するのは夜の10時10分だった。 すると、また環境が一変することがあった。 統計庁舎の移転である。 11月に、5階建ての鉄筋コンクリートの新庁舎が完成し、市ヶ谷の本村町に引っ越した。 当時では冷暖房、エレベーター、広い給食・喫茶室を備えた最新のビルであった。さらに庁 舎前にテニスコート1面、バレボールとバスケ両用のコートを有するグランドがあった。 さらに私にとってラッキーなことに、渋谷から早大正門前間のバスの停留所が庁舎の前にあ り、アクセスが良くなったこと。そして早大文学部キャンパスまで、徒歩で15〜20分の 近距離になったことだった。 とにかく、現在振り返ってみても、これほど「自由で若々しく、労働条件に恵まれ、部活と 組合運動が盛んで、官庁や企業に存在する官僚的な上下関係が全くない」職場は、日本中探 しても絶対にないと断言できる。これでちゃんと給料も貰えるのだから、私にとっては夢の 様だった。 私は18歳から本省に異動した25歳までの7年間をここで過ごしたが、正直な話、土曜・ 日曜日より月曜日の来るのが楽しみなほどだった。 今、つくづくと「いい時に所属していて、本当に幸せだった」と感慨を深めているのである。 ちなみに、「統計の職場」はだいぶ前に霞が関の本省の建物に入り、グランドも仲間同士の 触れ合いもなくなり、労働組合は解散し、「統計情報部(旧・統計調査部)」の行政組織も、 今は解消されてしまっている。 早稲田大学第二文学部はユニークな学部だった。 そもそも「第二」などとつけている夜間部は、他の大学ではないと思う。 みな、「昼間学部の夜間部」という位置づけ。 しかし、二文は事務所も一文とは別で独立し、一文と兼務する教員は少なく、独自のカラー を発揮していた。特に出席カードを配布回収して「出席の確認」を厳格に行い、たとえ前期 ・後期の試験の成績が良くても出席率が悪い学生は、単位を貰えなかった(私はしばしば、 後ろの席の吉永小百合から出席カードを受け取って、ドキドキしていた) 昼は統計調査部で仕事や部活や組合活動をし、夕方からは二文に通った。 毎日、文学部キャンパスに行くのが楽しみだった。それは高校時代は勿論のこと、統計の職 場でも感じられない、私が未知だった魅力的な個性の持ち主が、男女を問わず多かったから だ。 時は1970年の安保改定を前にして「大学紛争」が激化していた時期だった。 極左過激(武力)集団といわれた、革マルとか中核とか社青同とかのセクトが、早大の各学 部の主導権争いで過激な内ゲバを繰り返し、また、街頭で騒乱を起こしていた。 そんな状況の中、我が1年A組(40名弱・男女半々ほど)でも、自治会のクラス委員の選 挙が行われた。 すると、革マルの活動家のA君が立候補。しかし選挙は2名以上で行う。そこで推薦候補と して私の名前が挙がり、投票の結果、私がダントツで選ばれてしまった。 私は自治会活動など全くやる気がなかったので、「クラス討議やクラスコンパなどのとりま とめはやるが、自治会活動はやらない。それで駄目だったら辞退する」と宣言。結局それが 通り、私は矢沢(後に、プロ野球中日の4番に)とクラスコンパの幹事などをやっていた。 Aは「自治会は俺が出るから、東井はいいよ」と言って笑った。 その3年後、彼は大隈講堂に立て籠り、屋上で機動隊の放水を受けながら逮捕された。 彼とは、思想も行動も違っていたが、妙に気が合った。喫茶店や彼の下宿で駄弁ると、彼は 私のことを「東井は民チック(日本共産党系の青年組織・民青的ということ)だな。お前は 政治的な人間ではない。ロマンチストだ。しかしリアリストの一面もある。俺もそうありた いよ・・・」と、よく呟いていた。 私が22歳の時、統計の職場で「20歳を祝う会」の実行委員長をした。 その時に、不意に神部君を思い出し、彼が歌ってヒットした「リムジンガン」を歌って貰お うと彼に頼んだら、快諾して貰った。透き通るような声で歌唱指導をし、全員合唱を終えて 帰る時、私が薄謝を渡そうとしたら「いらないよ。クラスメイトからは貰えないよ」と言っ て、笑顔を見せて帰って行った。 彼はその後、「なごり雪」のイルカと結婚し、先年、鬼籍に入ってしまった。 統計ではバレー部の主将として、昼休みや土曜日に猛練習し、休憩時間は組合の青年対策部 長やマスコミ研究会という新聞部活動を行い、二文ではクラスメイトと、喫茶店や教室や飲 み屋で活発な議論をして楽しんだ。2年の時は水曜日の夜に小学生の、3年の時は土曜日の 午後に2年生の女子高生の、日曜日の夜には3年の女子高生の家庭教師をやっていた。 そして4年になってから、「当分、統計で働こう。ただし、今年の国家公務員中級職採用試 験を受験しよう。少しでも待遇改善を図らなくては」と考え、夏休みを挟んで2か月間、行 政法や民法などの勉強に集中した。 筆記試験は何とかパスしたが、6人の受験生によるグループ討議を終えて 「100%駄目だ!」と諦めた。 討議課題は「これからの給与制度は、年功序列給がいいか、それともその人の業務成果に応 じた能力給がいいかを論ぜよ」だった。 まず、一人一人が卒業学部と名前の自己紹介があった。 私はやや緊張して聞いていたが、みな、六大学の私学や首都圏の国立大学の法学部卒業だっ た。 最後になった私は「早稲田大学第二文学部の・・・」と、自分は場違いではないかという感 じを抱きながら自己紹介を終えた。 議論は、全く予想通りだった。みな「その人の努力や貢献度を評価する能力給のほうが、や る気が出る。 公務員も年功序列に評価する時代ではない」と。 私はずっと黙っていたら、二人の試験官の一人が「東井さんはどう考えますか?」と鋭い視 線を向けたので、考えがまとまらない中「能力給もいいが、公務員の場合は、その評価する 基準が難しいと思う。 民間のセールスマンのように、売り上げという数値化したもので評価できればいいが、公務 員の仕事は定量的ではなく定性的(自分では量ではなく、質的なものと言いたかった)な業 務だと思うので、民間のようにはいかないと思う。その点、年功序列給は、働く者の生活の 安定が見通せ、安心して仕事の正確性、迅速性、公平性を確保できると思うから良いと思う。 出来るなら7割の年功序列給に上乗せする、3割の能力給がベターと思う」と述べた。 すると案の定、他の5人が次々と反論。 私は余計なことを言わずに、冷静を保ったまま終了した。 結果は合格だった。 人事院に張り出された合格者の番号では、確か私のグループでは、私一人だった。 起死回生の少数意見が通ったのか! 私は暫く呆然として、人事院の廊下に立っていた。 18歳から22歳までの、厚生統計と二文での4年間。 統計に勤務したから二文に通えた。二文に通学したからこそ、統計という良い職場につけた。 これらはみな、ちょとした縁が生んだもの。運命だろう。 まさにハッピーな、人生でまたとない青春の4年間だった。 作詞家の永六輔、ジャーナリストの田原総一郎、作家の澤地久枝、映画評論家の白井佳夫、 芥川賞作家の辺見庸、俳優の北大路欣也や市原悦子や風間杜夫や吉永小百合等々・・・ 私はこれらの名を成した二文の諸先輩が歩いた戸山キャンパスのスロープを、ゆっくりと下 って行った。 もうこのスロープを上り下りすることは、きっと無いだろう。 全てが変わっていく。 そして忘れ去られる。 それが人生だろう。 でも私の脳裏には、若き日の良き想い出が、いつまでも変わらずに残っているのだ。 それでは良い週末を。 |