東井朝仁 随想録
「良い週末を」

一 枚 の 写 真  
私のこのHPのトップ頁(表紙)には、いつも一枚の写真を載せている。
ご覧の方には「飽きもせずに、よくこんなに古い写真を載せられるものだ」と、苦笑され
る人がいるかもしれない。
しかし「近頃の私」にとっては、全てが甘く懐かしい想い出の一枚なのだ。
だからといってこの一枚一枚が厳選された特別の思い入れがある写真、というわけではな
い。
その辺はアバウトな性格で、たまたまデパートの大きな紙袋数個に詰まっている写真の束
から、アト・ランダムに取り出しただけのものが多い。
パッと見て「あっ、これは懐かしい」と感じ、その写真を眺めているうちに色々な想い出
が湧き出てくる。
そこで、「そうだ。この写真を次のHPで載せよう」と即断しただけのこと。動機的には、
記憶が年々薄らいでいく中、記録に残しておこうという単純な気持から。

ここ1、2年の私は、毎晩寝床につく前の1時間ほど(午後10時〜11時)は、古い日
記や本やアルバムを適当に選んでみたり読んだりし、時には追憶に耽ってから床につくの
が、最近の習慣。
このルーチンが気に入っているのです。大袈裟で月並みな表現だが「至福の時間」。
今まで何度か述べたことがあったが、「年老いて、想い出のない人生は不幸である」とい
う格言がある。
10年ほど前までは、「そんなものかな。思い出など、生きていれば誰にでもあるだろう」
ぐらいにしか考えられなかったが、今の今になってつくづくとその意味が実感できる。
まさに格言の通り。
思い出はみな、懐かしい喜びで心が温まるものなのだ。私にとって人生の今の今を幸福に
する、最たるものであることは間違いない。
幸福感、多幸感を生み出す最も大切なことの一つ。私はそう確信している。
何歳の時でも、思い返してみて懐かしい思い出が浮かんでこない人は、その時点で「不幸
な人」というべきかもしれない。
人それぞれの人生観、価値観が異なるので一概には決めつけられないが、私には「空しい
人」と感じられる。
楽しい思い出も悲しい思い出もあるだろうが、これもよく耳にする言葉だが「思い出は、
楽しい思い出だけが残るものだ。悲しい辛い思い出も、いつしか懐かしい思い出になるも
のだ」というのは真理の様な気がする。
嫌な辛い思い出を忘れ去ることも、人間の防御本能であり、生きる上での成長の証なのか
もしれない。
だから、「過去を振り返るな。前だけを向いて生きていけ」という言葉は、人生の上り坂
を一生懸命に登っている若い世代には適当と思うが、人生のピーク(最盛期)に到達して
いる世代や、ピークを過ぎて下り坂を降りている世代にとっては、不向きな言葉だと私は
思う。
それでは、人生が終わるまでひたすらに「パンを食うために生きている」だけの様な気が
してくる。
そうした人が、定年などでようやく自分の歩んできた道を振り返ってみた時、そこには乾
ききった、寂莫とした足跡だけが残っているのではないだろうか。
思い出そうと思っても、感慨深い思い出などは何も浮かんでこないのではなかろうか。
一方、若い世代も現状を受忍する毎日から脱却し、やりたいことを先延ばししたりしない
で、「一日生涯」の気持で今日一日にベストを尽くしていかないと、きっと後悔すると思
う。
人生は「今」しかない。今の積み重ねだからだ。
明日に望みを託すのは重要だが、託すだけでは何も変わらない。思い出も生まれないと思
う。

今週の私のHPの写真は、多くの写真の中でも苦い、辛い思い出につながる極めてまれな
一枚。
写真の人は、私が15歳(高校1年)の時の、ほんの一時期のペンパル(文通友達)。
高校に入学した月に、たまたま買った「高1コース」(学習研究社)という学習月刊誌。
その中の文通希望者を募るコーナーがあり、外国人が何人かいたので興味本位で出版社に
葉書で応募した結果、紹介された相手が写真のオーストラリアの女性。年令は私と同じ。
お互いに顔写真や全身写真や風景写真などを交換し、他愛のない(私の英語力がないので、
そうした文章になった)エア・メールを続けていた。
私の写真は、全て学生服に学帽を被ったもの(坊主頭だったから)。
それでも「素敵。チャーミング」などという手紙が返信されていた。
そんな文通を10回ほど繰り返した高校1年の1学期の終りごろ。私は以前に書いた
「早稲田通りを歩いて(3)」参照)ように、前年度に全国優勝したラグビー部に入部
してしまい、5月頃からは毎日が地獄の様な厳しい練習に突入し、暗黒の日々に陥ってい
た。
それでもこの文通は、唯一の救いとなっていた。
オーストラリアのことや彼女のことを想像するだけで、心が明るくなった。
しかし、中学時代に体育系の部活などしておらず、ましてやラグビーなど全くど素人だっ
た心身は、全国優勝の高レベルな激しい練習(練習後のしごきも激しかった。一年生はコ
ンクリートの床に正座し、2年生のリーダーから、しばしば顔や頭を引っぱたかれたり、
腕立て50回とかの命令を受けていた)の明け暮れで、日ごとに衰えていた。
そんな7月、ペンパルからのメールが届いた。「近々、両親と日本を訪れてみたい。その
時はトモヒトにぜひ会いたい」と。
あまりにも予期せぬ来日意向のメールに、私はどきもを抜かれ、委縮してしまった。
昭和38年の頃の東京の家の状態も、単身、奈良で寄宿舎生活をしている私の状態も、そ
れに私の稚拙な英会話力などの全てが、遠方から来る外国人のおもてなしなど、全く不可
能な情況だった。
それでどうしたのか・・・・。
今でも思い出すと、心が痛む。情けなくなる。恥ずかしくなる。
私はその後、彼女に返信が出来なかった。いや、返信をしなかったのだ。
うまい言い訳とかで先送りすることも、考えられなかった。
彼女からは「どうしたのですか?」「なんでメールを貰えないのですか?」という、悲し
そうなメールが3回届いた。砂を噛むような、いたたまれない時間が過ぎていった。
そして夏休みになり、私はそれまでのメールや写真を全て細かく破り、全てを吹っ切るよ
うに帰京した。
それで文通は終わった。

それが先日、古い写真を整理していたら、イロナ(ペンパルの名前)さんの写真が出てき
たのだ。
たった一枚の写真が(今週のHP写真を参照)。(2020年3月11日掲載)
当時、どうして全て捨てなかったのか、わからない。
彼女の写真と手紙は同一封筒に収めていたので、捨てるのを忘れたのでは絶対にないこと
は事実だ。
きっと、「いつかは懐かしく思い出せる日が来るかもしれない。この一枚だけは捨てない
でしまっておこう」 と考えたのだろう。
それが15歳という男子ながらの、せめてもの行為だったのだろう。淡い思慕が生まれて
いたのかもしれない。
「あと3年、高校を卒業するぐらいだったら、会えたのに・・・」と、今なら悔やまれる。
当時は、自分が卑怯で惨めな人間に思えて、本当に落ち込んだ。
でも今となって、それも「青春の光と影から形作られた貴重な思い出」に昇華されたよう
だ。

写真で微笑んでいる彼女の顔を見つめながら、いま、心の中で呟くのです。
「あの時は、勇気がなかった。男らしくなかった。本当にごめんなさい」
あれから55年。
振り返ると、あの東京オリンピック前後から今日までの全てのことが、優しく微笑み返し
てくれるようです。

それでは良い週末を。