いま社会は変わる(2)
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政府は、今週月曜日の25日に「緊急事態宣言」の解除を決定した。 「宣言」が出された4月7日から、1か月と3週間を経ての解除宣言である。 実質的には、2月27日に突然、安倍首相が「学校の一斉休校」を指示した頃からの3か 月間に及ぶ期間とも言える。 この間、国民の(不要不急の)外出自粛及び都道府県間の往来の自粛、テレワーク(在宅 勤務等)の奨励、「3密」の徹底、対人サービス業を主とした営業の自粛及び営業時間の 短縮等が要請され、NHKからは連日、各都道府県別の感染者数・死亡者数や、主要都市 の目抜き通りや駅改札口の通行者数の変動率が報道されてきた。 その甲斐があってのことか(注・海外からの入国制限も大きい)、新型コロナウイルス感染 者の発生数が漸減し続け(注・4月1日が1日当たりの新規感染者数のピークだったから、 その後の4月7日の緊急事態宣言による「自粛実施」は百害あって余計だった、という根 強い意見が専門家の間にはある)、ここに至って都道府県別の「直近1週間の新規感染者 数の累計が、人口10万人当たり0.5人程度以下」という解除基準の目安をクリアしたの だ。 だが、我が国の新型コロナウイルス感染症の第一波は、一応抑え込むことが出来たと言え るが、国民、各階層がこぞって喜んでいるわけではないことは、ここ数日のマスコミの報 道からも窺える。国民の一人一人の気持には「安堵と不安」が同居しており、国民全体の 宣言解除に対する評価も賛否が拮抗しているはず。 「ほっとした。一応これで営業を再開できる。6月も続いたら、廃業する予定だった。こ れ以上赤字を増やしたら、これから先、生活していけない。だが、以前のような客足が戻 るとも考えられない・・・」 「解除は少し早すぎる。気のゆるみが出て人があちこちに溢れてきたら、また感染拡大が 起こるのではないか‥もう少し辛抱してもいいのではないか。また緊急事態宣言が出たら、 完全にお手上げになる」 こうした安堵と不安を抱えている人が、全国に溢れている現状だろう。 現に、私の住む地域の三軒茶屋の飲食店は、多くの店先に休業の張り紙がしてあり、一部 開業している店も店内はガラガラ。少しマシな店もソーシャルディスタンスとやらで、席 数は半分以下に間引きされ、料理出しや会計などはマスクをした店員が恐る恐るの接客な ので、味も雰囲気もあったものではない。 「命を守ることが先決。命があってこそ経済もある。徹底した自粛が必要」「経済も守ら ないと、新型コロナによる死亡者数より圧倒的多数の自殺者が出る。自粛での封じ込め、 ステイ・ホームが、果たして効果があるのか。政府も専門家会議もちゃんと国民に説明し てほしい」相反する二者択一の議論が、少し前までTVのワイドショーでかまびすしく行 われていた。だが現時点では「とりあえず」新規感染者数の発生が沈静化している状態と なった。 そこで政府は、国民の我慢が沸点に近づいていると判断したのか、日本の新型コロナ対策 の成果を国内外にアピールする意味も込めて、北海道や神奈川県の数値が基準値に達して いないにもかかわらず、解除宣言を発した。「全国一斉に」という政治的判断だろう。海 外の警察官の取り締まりや罰則がある都市封鎖と異なり、日本の「国民自らの意思に基づ く自粛」で、第一波の感染拡大を封じ込めた「日本方式」は、何とか面目を保てたと言え よう。 そして政府は、新型コロナ対策経費と共に、急速に悪化した経済の立て直しのために、総 額200兆円超の大型補正予算を計上した。 同時に、国や都道府県やマスコミは、連日のコロナ関連番組において、しばしば「国民の 皆さんは、これからの時代は今までの生活に戻れないということを認識し、新しい生活様 式を作りだしていきましょう」ということを、さかんに言い始めた。 前回も少し述べたが、私はこの提言・広報は政府からなのか都道府県知事からなのか判然 としないが、TVから流れてくる「新しい生活様式」という言葉に、何とも言い難い違和 感を感じてならない。 これからも新型コロナウイルス感染症の第二波をはじめ、様々な新型感染症がパンデミッ クを起こす可能性は否定できない。 だから警鐘を鳴らし続けることは必要。だが突然に3密回避を基本にした「新しい生活様 式を」と簡単に国民に訴えるのが、果たして適切・妥当なことだろうか。感染症対策は今 までのインフルエンザ等、様々に行われてきたし、「100年に1回の出来事」と声高に 騒ぎながらも、当初から「感染力はあるが弱毒性のインフルエンザ。要は重篤患者に対す る素早い治療と、死亡者数の抑え込みが重要」と、医療関係者の間では指摘されてきた。 クルーズ船の入港による新型コロナ感染症の拡大に対する、国や地方公共団体の初動、そ の後の拡大防止策や治療体制の問題点などを検証することなく即、「お上」は国民のこれ からの生活様式の在り方に言及し、国民の啓蒙・洗脳にターゲットを変えていく姿勢は、 余りにも国家主義・権力主義的ではなかろうか。 国民一人一人の価値観・生き方、ひいては日本社会のしきたりや文化というものに手を突 っ込み、国が箸の上げ下げまで監視・指導・規制をすることにもつながるのではなかろう か。 「3密」は現在の新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止対策として、コロナ禍が完全 に終息するまでの当分の期間は、重要であろう。しかし、この先の国民の生活スタイル、 未来の日本の社会の在り方まで、コロナ対策にかこつけて「お上」が軽々しく決めてしま っていいのだろうか。 「今までのように、安易に人々が密集し、飲んだり食べたりお喋りをしたり、歌を歌った りゲームをしたり、観戦・観賞したり、スポーツや習い事をしたりして密接にならず、仕 事も家庭も含めて日常の過ごし方から「3密」を排除していきましょう。そのために、パ ソコンやタブレットやスマホを使い、家庭でのテレワークや学校の授業、学習やストレッ チ体操などを行い、宅配サービスや通販で食事や買い物をし、無駄な外出・買い物・通勤 ・通学・1か所に多人数が集まる手法などは徐々にやめていきましょう。支払いは現金で はなくカードやスマホ決済に切り替えていきましょう。個人の位置情報などもいざという 時のために登録しておきましょう。こうして、新しい日常生活習慣を作っていきましょう。 それがこれからの日本社会の持続可能につながるのです」という事だろうが。 当局は「いやいや、第二・第三波のコロナ襲来を完全に抑え込むまでの期間」と言うだろ うが、政治家、国家権力はどこの国でも最後は自分たちの都合の良いようにしか言わない のは、国民が一番知っているはずだが。「熱しやすく醒めやすい」国民性だから、結局、 最後に泣きを見るのは一般国民。 26日(火)の朝日新聞の朝刊には、「視点・ウイルスと新たな日常へ」と題したコラム が掲載されていた。その冒頭に記されていた言葉。 「全国で緊急事態宣言が解除された。私たちは安堵感と不安を抱えながら、この日を迎え た。しかし、感染が起こる前の暮らしに戻れるわけではない。ウイルスとともに 生きる 「新たな日常」が始まる。(以下略)」 何で前の暮らしに戻れないのか。ウイルスとは今回のウイルスのことか。 すると、国民の間に「集団免疫」が出来たり、ワクチンや治療薬が開発・普及されるまで の期間は、戻れないというのか。それはわかる。 そうではなく、今後発生するすべての未知のウイルスなのか。だから3か月ほど前の暮ら しには、もう二度と永久に戻れないというのか。 そもそも「新たな日常」とは何なのか。その具体的な内容が全くわからないのだ。 「新たな生活様式」とか「新たな日常」とか、良くわからないまま「これからの社会は今 までの通りにはいかないのだ。だから国民は発想と行動を変えていかないと生きてはいけ ない。今までの生活様式や価値観を変えないと、国際競争にも負けて日本はどんどん衰退 していく。文句を言う前に国民一人一人が国や地域社会に何が出来るかを考える時。日本 全体で、この国難を乗り越えていかなくてはいけない。国民一人一人が責任感を持って新 しい生活様式を築いていかなくてはならないのだ」という将来の生き方に対する国民の義 務を植え付けられるようだ。 こういうイメージで世論が醸成されるのが、私は一番危ない状況と思っている。 狙いは、全体主義(個人に対する国家の絶対的優位の主張の下に、諸集団を一元的に組み 替え、諸個人を全体の目標に総動員する体制)国家への変貌だろう。 クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、テレワーク、ステイホーム、東京アラー トなど、やたらにカタカナを使いたがる都知事。 築地市場の豊洲移転問題でも、長く反対を訴えていたが結局これを翻し、新型コロナウイ ルスが日本上陸した時には、コロナどころか最後まで「東京五輪」開催にこだわり続け、 IOCの延期決定を受けるや、すぐに手のひらを返したように「都民の一人一人の自粛が なければ、オーバーシュートを起こす」と連日のように東京都の広報番組で叱咤を続けた り。 貴方は、今まで「都民ファースト」と言っていたが、都民に何の希望や喜びを与えてくれ たのか。 一方、このコロナ禍で大変な状況の中、安倍政権は「検察庁法改正案」を突然国会に上程 した。 法案の内容は60歳定年を65歳に延長し、役職定年制を導入するが「検察庁の検事総長 をはじめとする幹部級の人事は、内閣が必要と認めれば定年延長できる」とする改正案。 これが通ると今まで「検察側が決めた人事案を内閣が尊重して認めていた人事」が、「時 の権力に都合の良い人事(検察庁幹部たちが官邸に忖度するようになりかねない)になる」 恐れがある、と多くの文化人・元検事総長等の検察OBや、一般国民から反対意見が上が った。 野党は「定年延長は賛成だが、何で戦後一貫してどの内閣も検察庁の政治的中立を尊重し てきたのに、いまこのコロナで大変な時に、丁寧な議論もせずに強硬に国会成立をしなく てはならないのか。お友達の東京高検の黒川検事長を、閣議決定で定年延長し、さらに後 付けでこれを正当化するために法改正をするのではないのか」とただしていたが。 結局、黒川氏がコロナ自粛の最中に夜遅くまで新聞記者たちと賭けマージャンを行ってい たことが露呈し、辞職を余儀なくされた。そして検察庁改正法案は審議継続で終わった。 後日談で、その賭け麻雀の黒川検事長に対し、法務省は「戒告」処分にすることとし、首 相官邸と調整したが、結果、処分は一ランク軽い「訓告」になったとのこと。 官邸に対する省庁幹部の「忖度」なのだろう。 最近ではこれも唐突に「学校の入学式を9月に」という声が政府内から上がっている。コ ロナ禍で国民全体が大変な思いで余裕もない自粛生活をしているという時に、なぜ、こう した国民生活に大きな影響を及ぼす重要な問題を唐突に軽々しく出してくるのか。先の法 案や、全国民に深く関係する年金制度改革法案も、今の国会でひそやかに審議されている。 確か5月中旬に衆議院を通過している(共産党を除く全党の賛成で)。 厚生労働委員会では、株式投資に重点を置いた年金の積立金運用により、昨年度8兆円の 損失を出すなど、今後の運用方針などを議論するところが、与野党ともコロナ問題ばかり だったとのこと。まさにコロナの陰で「火事場泥棒」のようなことが進んでいるのだろう か。 私には、余りにも現在の政治が劣化しているとしか、思えない。 新型コロナインフルエンザ感染症対策の過程において、政治や行政や企業などの「無駄や ムラや無理」の部分が浮き彫りにされてきた。テレワークの普及で、今までの働き方の無 駄や非効率性が明らかになった。一方、物に溢れたモノづくりを自慢してきた日本で、い ざとなるとマスクがない、消毒液がない、防護服がないと言う有様に驚いた。近くのマン ション建設業者が「中国から備品が入ってこないので、キッチン工事が止まってしまった」 とぼやいていた。自動車も繊維も食品も観光も何もかも、中国に依存する業界はショック を受けている。病院の医師・看護師などのスタッフ、病床が足りないというように、我が 国の医療体制の脆弱さや感染症対策の大きな遅れが露呈した。「日本は凄い!」と自慢す るテレビ番組が多いが、実情は脆弱だった。 でも、自粛で「自由」の素晴らしさが、改めて実感できた。 他方、自粛のストレスからか、自粛警察とかコロナ狩りといった、差別と偏見、嫌がらせ をする輩が続出してきた。 それらが同調圧力となって、営業している零細飲食店の店頭に「殺すぞ!」「出ていけ!」 などの張り紙をしたり、感染者を診察した診療所には、「コロナをばらまくな!」「ここ はコロナがうつります」などの嫌がらせ、風評被害を広めたり。 あるいは「検察庁法改正案」に反対意見をSNSに載せたタレントの小泉今日子さんらの 芸能人が、激しいバッシングを受け、家族や親類にも嫌がらせや脅迫が行われたりしてい るとのこと。 何て卑劣なことをやるのだろうか。許せない。全く情けなくなります。 「欲しがりません、勝つまでは」といったスローガンのもと、国民総動員で国家の命令に 従った生活を強いられた、第二次世界大戦における日本社会。 余計なことを言ったら「国賊!」と官憲にしょっ引かれてリンチを受けたり、地域の防火 訓練に欠席でもしようなら村八分になったり。 戦後27年たった昭和47年。私が厚生省本省に人事異動して、なり手のない労働組合の 役員をやり、ビラ配りをしたりしたら、すぐに「東井はアカだ」と噂されたり。そんなこ とは気にしないでいたある日、ある技官に。 「東井さんは共産党員?と前の職場(統計調査部)で組合をやってばかりで、職場の鼻つ まみになったから本省に異動になったんだと、Aさんが言っていたが。俺にはそんな風に は見えないけども」と言われた。 その技官がAさんと麻雀をしていた時の話とのこと。 Aさんは統計で一緒だった事務官だが、ほとんど付き合いは無かった。 他にも私と同期のB君も、「東井君はアカですよ」と上司と飲んでいる時に話をしていた ことを、その上司から聞かされた。 勿論、その技官も上司も私とは親しく付き合ってきたが、その時、「人間の本性とは、表 面だけではわからないものだな。いざとなったら自分を守るために友人・知人でも裏切る のが職場社会かも知れない」と痛感した。 コロナが全体主義・国家主義の社会を到来させるのでしょうか。 100年に一度のパンデミックとか(私は100年前のスペイン風邪を前提とするのはお かしいと思っていますが)。 だが、いま社会は変わろうとしています。 「新しい生活様式」「新しい日常」のネーミングもいいですが、そこに貫くプリンシプル (原理・原則)は、いったい何なのでしょうか。目的が判然とせずに手段・各論ばかりで 国民が泳がされていたら、この国の将来は絶望でしょう。 日本の精神文化の心髄は「思いやり、おもてなし、おかげ様」の3つの「お」だと、私は 考えています。 「新しい生活様式・日常」から、これらが失われて分断社会になったら、個人個人が自分 本位になり社会から連帯感が失われたら、日本という国の長い歴史で培われた文化は、す べて消滅してしまうでしょう。 今が、今こそが一人一人の問題意識が問われている、第二次大戦敗戦以降、最大の節目で はないでしょうか。 そう思っている、今日この頃なのです。 それでは良い週末を。 |