東京の歌を歌いたい、大阪の歌を聴きたい
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過日のエッセイで、「3密の自粛生活で、3Sを楽しむ」ということを書きました。 3Sとはスクリーン、小説、ソング(歌)。 その中でも、歌が一番生活に身近で、手軽に楽しめると。 そうです。「緊急事態宣言」が解除されてすぐ、東京はすぐに「東京アラート」という東 京独自の警報を出しましたが、そんな行政指導とは関係なく、マイペースで歌、音楽を楽 しんでいます。 パソコン・スマホから聴くお好みの歌は数百ありますが、そのレパートリーの中でも、外 出して移動中や喫茶店で聴くスマホ登録の歌には、意外と「東京」の名がつく題名の歌が 多いのに、最近気づきました。 ご存知で無い方が大半でしょうが、曲名を思いつくままに、順不同で列記してみますと。 「東京の人」(歌・三浦洸一)、「東京ブルース」(西田佐知子)、東京ナイトクラブ (フランク永井と松尾和子)、「東京だよおっ母さん」(島倉千代子)、「東京ラプソデ ィー」(藤山一郎。カバーで五木ひろし)、「東京は恋する」(舟木一夫)、「東京五輪 音頭」(三波春夫)、「東京の空の下で」(小柳ルミ子)、「東京のバスガール」(コロ ンビア・ローズ)、「「東京の花売り娘」(岡 晴夫)、「東京の灯よいつまでも」(新 川二郎)東京セレナーデ」(都はるみ)、、、、。 こうしてみると、フオーク・ジャズなどのポピュラーソングは皆無で、殆ど全曲が「昭和 歌謡」のようです。平成以降の曲はありません。 私は47都道府県すべてに観光や出張で行きましたが、夕食後に歓楽街に出てバーやスナ ックでカラオケを勧められたときは、「それでは1曲だけ」と遠慮しながら、「東京」の 歌を歌うのが定番でした。 定番は私が好きな「東京ブルース」「東京の灯よいつまでも」など。 知った仲の地元の人たちと歌う時は他の十八番(おはこ)を歌いますが、最後に「東京の 歌」を思い入れよろしく歌いだすと、何となく店内の雰囲気が締まる感じがしていました。 昭和53年に、出張で北海道の奥尻島に行った際(羽田→函館空港→奥尻空港)、町長と、 伝染病隔離病舎を国の補助金で整備した町立病院の院長、北海道の担当課長が、島に1軒 しかない寿司屋で歓待してくれ、その後、島に1軒しかないスナックというか大衆クラブ のような店へ車で移動。広い店でしたが、ホステスは何と寿司屋で接待してくれた若い女 性2人がそのまま店に戻っただけで、後はママさん一人。 普段から、客はもっぱら島の高台にある無線基地に勤める自衛隊員とのこと。 その日は3人ほどが飲んでいました。 そこで当時の古いカラオケで「東京の灯よいつまでも」を歌ったのですが、その若い自衛 隊員たちも女の子たちも、じっと耳を傾けてくれ、歌い終わると大きな拍手が湧いたので、 私は胸が熱くなって深々とお辞儀をしたのです。 きっと、それぞれがそれぞれの故郷を、思い出していたのかもしれません。 ちなみに宿泊したのは、島内に数軒しかない民宿の1軒。昭和天皇がご行幸された際に泊 まられた部屋が突き当りにあり、「神武の間」とありました。 夜具の前に御簾がたれ、その部屋には神霊が宿っているような畏怖を感じました。 私は一人でその隣の部屋に泊まりましたが、少し寝つきの悪い夜でした。 (ちなみに、数年後、奥尻島は大津波にのまれて大きな被害を受けました) 振り返ってみると、前述した歌以外に「東京」の名がついた歌は他に知らず。 だからレパートリーが広がらないのですが、その代わりに「大阪」の歌もちょくちょく歌 います。 大阪の歌も色々ありますが、特に私が昔から歌っていたのは「大阪で生まれた女」(歌・ ボロや萩原健一)。私にとってこの歌は思い入れがある、カラオケで歌いたい歌でした。 それと「大阪しぐれ」(都はるみ)。 「たそがれの御堂筋」(坂本スミ子)とか「宗右衛門町ブルース」(平沼勝次)は大阪市 内の地名で大阪は付きませんが、大好きな歌。 話せば色々と長くなりますが、私の東(東京)西(大阪)の歌をそれぞれ3つ挙げてみま す。 まず東は「東京ラプソデイー」(昭和11年。歌・藤山一郎。カバー・五木ひろし) そして西は「大阪ラプソデイー」(昭和51年。歌・海原千里(上沼恵美子)と万里) 東京ラプソデイはまさに昭和歌謡の創成期の歌。東京を代表する殿堂入りの歌ですが、片 や大阪ラプソデイーもテンポが良く、親しみやすい歌です。 どちらも自由で軽快。 両方とも大衆受けする、明快でロマンの香りがする歌です。 ちなみに「東京」の歌詞には、銀座、神田(ニコライ)、浅草、新宿が出てきますが、赤 坂、青山、六本木、渋谷などの地名は、昭和11年当時の作詞だからまだ出てきていませ ん。 この年は、「2・26事件」のクーデターが勃発し、日本が軍国主義に突入していく、世 相が暗い時期。 だからでしょうか、「♪楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京」と言葉は明るく メロデイも軽快ですが、どこかに影を感じるところがあります。 その丁度40年後の「大阪ラプソデイー」では、歌詞に出てくる地名は御堂筋、道頓堀、 法善寺だけ。 私は大阪市内の詳しい地名は知りませんが、堂島とか天満橋とか難波とか中之島などは出 てきません。 この歌のメインは、若い二人のデートだから、デートコースだけで十分なのでしょう。 「♪御堂筋は恋の道 映画を観ましょか それともこのまま 道頓堀まで歩きましょうか・・宵闇の大阪は二人連れの恋の街」の歌詞のように、 どうも大阪では、デートで「御堂筋などを歩く」のが粋なのかもしれません。 二番目の東西では。 東は「東京は恋する」(昭和40年。歌・舟木一夫)。 この歌も青春歌謡で、二人で歩くデートは東西も同じ。 「♪肩にやさしく手を置いて 見上げる夜のオリオン星 こんなに広い街なのに 歩いているのは二人だけ ああ 東京は恋する 恋する街よ」 この歌が発売されたとき、私は奈良県の天理高校3年生。恋に恋する年令で、この歌を深 夜のラジオ番組で聴きながら、帰京してから素敵なガールフレンドと日比谷界隈・お堀端 などを歩いているシーンを夢想していました。 西も舟木一夫の「青春の大阪」(昭和39年) 東京オリンピック開催の年に発売されています。 「♪小雨の朝は御堂筋 星降る夜は中之島 別に約束したんじゃないが 君も僕も緑の並木が好きなだけ ああ 大阪を青春の 緑で緑でつつもうよ」 大阪の歌には、結構、御堂筋が出てきます。 でも私は、黄昏の御堂筋も小雨の御堂筋も、勿論デートで歩く御堂筋も知りませんが。 この歌は、舟木一夫にはどちらかというと哀愁のある歌が多い中で、「東京は恋する」と 同様、青年らしい明るく夢のある、爽やかな歌で好感が持てます。 当時の舟木一夫は「何か、緑化運動の歌みたいですね」と笑っていましたが、こういう歌 がヒットしていたあの頃の時代は、何もかもが発展途上で、青年期の希望とセンチメンタ ルが社会に溢れていました。 そして三番目の東西。 西は「宗右衛門町ブルース」(昭和47年。平和勝次) この歌は、今でも十八番の一つとして歌っていますが、大阪というとこの歌を思い出すの です。 特に好きなのは3番。 「♪イチョウ並木に夜が来る 君にも来るよ しあわせが なぜか悲しい宗右衛門町よ さよならさよなら もう一度だけ 明るい笑顔を 見せとくれ・・・」 カラオケや宴会場で歌っている時は、周囲の一人一人の顔に順に指をさしながら、「君に も来るよ 幸せが・・・」と歌うのです。その時は男女を問わず誰の顔も目が輝いて真剣 で、こちらもつい歌に力が入ってしまいます。 東は「東京ブルース」(昭和39年1月。歌・西田佐知子) この歌も東京オリンピック開催年の1月に発売。 西田佐知子は昭和35年(日米安保条約改定の年。安保反対の学生・労働者たちが街頭に 出てデモを行い、国会に乱入する騒ぎなどがありました)に、「アカシアの雨がやむとき」 で大ヒットを出し、「東京ブルース」で美人女性シンガーという立ち位置を不動のものに したのです。 清楚な顔立ちの中に、都会の女性らしい芯の強さと憂いを感じさせます。 この歌は水木かおるの作詞で、七五調の対句的な詞が鮮烈です。 「♪泣いた女が馬鹿なのか だました男が悪いのか・・・」 「♪どうせ私をだますなら 死ぬまでだまして欲しかった・・・」 私は56歳から60歳まで三重県津市にあるJA厚生連に常務理事として勤めていました。 夜になると、部課長らと夕食を兼ねて飲みに行き(赴任時、「役員は職員にわざわざ付き 合う必要はないで。従来そういうスタンスできたんやから」と理事長に丁寧なアドバイス を受けましたが、勿論そんなことは代表権理事でもある私自身が決めること)最後は有志 と、近くのカウンターだけのスナックに行き、歌を歌って遅くまで歓談していたのです。 時には一人で訪れることもしばしば。 夜の9時頃に顔を出すと、店内には客は一人もおらず(地方都市はそんなもの)。 年配のママがポツンと座っているだけ。 私は「ママ、貸し切りにするぞ」というと「そうしましょう。もう東井さん以外、だれも きいへんわ」といって、店頭の明かりを落とします。 そこで私は万札を2枚握らせ、ウイスキーの水割りを飲みながら切れ目なく歌い続けるの です。 そして最後に歌うのが、東京ブルース。 カラオケの画面には、西田佐知子ばりの綺麗な女性が、東京港の埠頭をあてどもなく憂い を含んだ表情で歩いているシーンが。空に冴え冴えと光る満月。遠景のビルの明かりを映 して揺らめく黒い水面。 脳裏には、愛しい東京の風景や家族のことが浮かんでくることもありました。 私は前述のように、56歳の時に厚労省を早期退職し、役所からの関係団体への再就職依 頼を断り、津市という初めての地、JA三重厚生連(7つの病院の統括経営)という団体の 初めての業務、初めての人間関係の中に飛び込み、初めての単身生活という、全く新たな 人生をスタートさせました。 厚生労働省の既成の人事や口利きではなく、自らで選んだ新天地。 だが、当初は全てに筆舌に尽くしがたい辛さがありました(3か月で5キロ痩せました)。 しかし、私を強く推挙して期待をしてくれていたJA関係の重鎮たち。 「彼らの期待だけは裏切りたくない」。その思いだけは内に秘めていました。 そして「これは自らが選んだ得難い第二の人生なのだ。やりたいように生きるんだ!」 と言い聞かせていました。三重県厚生連の予算書・決算書・業務報告、各病院の組織や役 職員録や収支決算書、医療関係のあらゆる書籍や簿記・経理関係の専門書、そして厚生労 働省の後輩に依頼して送ってもらった、保健・医療・福祉部門の直近の業務資料。これら を赴任してから半年ほど、朝から晩まで必死に精読していました。 やがて仕事にも人間関係にも慣れ、段々と面白くなってきて、気が付けば4年近い歳月が 流れたのです。 その間には、言い知れぬ苦労もありましたが、こうして本部の管理職や、私が声をかけて 創部した野球部の若い連中や、時には病院長や事務長らと、酒を飲みながら肝胆相照らし、 歌を歌いながら明日への闘志を高めていたのが、大きな喜びと励みになっていたのだと、 いま痛感しているのです。 以上が、東京と大阪の歌についての述懐。 悲しみに耐えながら歩いていく画面の美しい人。 4年間の間で、何度この画面を眺めながら東京ブルースを歌ったことか。 だから今、人生の終盤で生じる様々な辛い出来事に出会ったら、私は歌を聴き、歌を口ず さむのです。 「人生は、一度。なるようになる!」 昭和39年の東京オリンピックの前後は、日本中が色々な歌で溢れていました。 老若男女を問わず、国民のだれもが一度は聞いたことのある歌が、お茶の間や街に流れて いました。 あれから55年。 去年も今年も、当時の東京オリンピックの頃の様な流行歌は、1曲も流れていません。 新型コロナ感染拡大防止のために、医療対策、弱者対策、中小企業支援対策等の補正予算 はわかりますが、それ以外の関連経費は、何に使われるのか、どのような方法で予算を補 助し、どのような効果が得られるのかよくわからない。コロナ関係予備費10兆円(一般 会計と違い、コロナ対策の名のもとに何でもありで、きっとバラマキで使い切ってしまう のだろう)を含んだ巨額の補正予算。 せめてそのうちのたった100億円でもいいから、音楽や演劇や映画の製作費補助金を計 上できないものだろうか。 閉塞した不安な毎日を送る多くの国民に、生きる希望と勇気を与えられるのは、モノやカ ネは勿論だが、今は人の心を明るくさせる芸術しかないのではなかろうか。 今週は東京の歌や大阪の歌などを聴きながら、そんな政府への不満を抱いた1週間でした。 来年の今頃。 心安らかに東京や大阪のラプソデイーを聴くことが出来る社会になっていることを、今週 も切に祈りながら終えたいと思います。 それでは良い週末を。 |