7月1日(2)
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(前回の続きです) 時は、昨年の5月15日の午前。 場所は、私が個人で借りている青山の事務所(数年前まで「株式会社とおい倶楽部」の事 務所でしたが、現在は「一般社団法人・東井悠友林」の事務所として登記)。 私が書類の整理をしていると、不意にインターホンの音が鳴りました。 入口のドアを開けると、そこに寺岡義満さんが立っていました。 ここで寺岡さんについて。 私より8歳年上の寺岡義満さんに初めてお会いしたのは、昭和61年(1986年)。 私が38歳の時。 当時、私は厚生省保健医療局企画課の指導係長。 業務は、保健所や市町村保健センターなどの保健衛生施設・設備整備費の地方公共団体へ の交付業務、民間補助金(日本船舶振興会・日本自転車振興会、オートレース振興会等) の各種団体への交付業務、そして所管公益法人(約45法人)の許認可・指導監督業務等。 在任2年間で3法人の設立許可をしたのですが(注・厚生省内で、在任2年間で3法人の 設立許可の遂行は、当時も今も無いはずですが)そのうちの一つ「財団法人・日本股関節 研究財団」の設立許可申請で訪れたのが、寺岡さん。 彼は慈恵医科大学の整形の主任教授が中心となった設立準備会から、法人設立申請に係る 事務手続きの一切を受託し、こまごまとした資料作成や厚生省(私)への説明等で奔走さ れたのです。 彼の名刺では、民間企業の代表取締役とのこと。 会社の具体的な事業内容は知りませんでした。 でも、こうした面倒な役所への細かい申請事務などを、たいした金額でもない契約で請け 負っているはずだから、司法書士事務所や会計事務所みたいな個人企業だろう、と想像し ていました。 そして、申請書を受理してからの毎日、私は頻繁に寺岡さんと連絡を交わし、指示・助言 を与え、こちらで文章を修正・作成したりした結果、早くに厚生大臣の決裁がおりたので す。 設立許可証が交付された数日後の夜、新理事長となった慈恵医科大学の整形外科主任教授 (自宅の不動産の大半を売却し、売却益を全額、法人の基本財産として寄付した)と寺岡 さんに招待され、世田谷区等々力の住宅街の一角にある、民家を改造した開業間もない 「ふぐ割烹」で夕食を共にしました。 その時、寺岡さんが数々の医学会や医療団体に関係した業務を行っていることを、初めて 知りました(ちなみに、新法人が設立されてから4年後、私は目黒の自宅から世田谷区上 馬に引っ越したのですが、散歩中、何とその設立許可した財団法人の建物が近くにあった ので驚きました)。 後日、南青山にある寺岡さんの会社を伺った時、多くの男女社員がテキパキと仕事をして いる活発な職場の雰囲気に触れ、「財団の設立申請の仕事は、整形外科学会の教授に個人 的に頼まれ、寺岡さん自らが動いていたのだ」と気づきました。 案の定、寺岡さんは日本の医療界のみならず、アメリカやドイツなどの外国の医療関係者 とも人脈を有していたようで、国内外の主として医療関係団体の国際会議の開催・運営業 務を手広く行っていたのです。 彼は1964年の東京オリンピック開催前に早稲田大学を卒業し、英語関係の出版社に勤 務。英語雑誌の編集や翻訳・通訳の業務にかかわり、その後の日本の国際化、高度経済成 長の波に乗り「コンベンション・サービス」の会社を設立。まさに国際会議などの分野で の、我が国におけるパイオニアだったのです。 これが寺岡さんとのご縁の始まり。 その後、35年間ほどのお付き合いが続き、そしていま、その終焉が近づいていたのです。 場面は戻り。 私は寺岡さんの突然の来訪に驚き「こんな朝早く、どうしたのですか?まあ、お入りくだ さい」と迎え入れました。 年頭に開催した、我が法人の新年会(高久史麿顧問の米寿を祝う会)でお会いしていたの で、久し振りというほどではないのですが、彼はソファにゆっくり腰を下ろすと、開口一 番「いや、お会い出来て良かった」とほっとした顔をされるのです。 私は一瞬「いつもお会いしているのに、少し変だな?」と怪訝な気持のまま、改めて「1 月の会はご苦労様でした。楽しい集いになりましたよね。高久先生も喜んで帰られました よ」と挨拶をし、少し間を置いて「ところで、今日はどうされましたか?」と尋ねました。 すると。 「今日は、東井さんにお別れに来たんですよ。 もうこの機会を逃すとお会いできないと思いまして。 いや、本当にお会いできて良かった・・・。ほっとしました」と、ようやくくつろいだ表 情になってから。 「実は先月、国立がんセンターで年一回の大腸がん検診などを受けたのですが、その時、 毎年診ていただいていた担当医に「寺岡さん、大腸がんは大丈夫だったが、末期の膀胱が んが見つかったよ。まさか膀胱とは驚いた・・。 そこで今後の治療ですがね、がんが全身に転移しているので膀胱摘出手術は出来ない。抗 がん剤治療を考えていますが、今の血液の数値が悪いので、正常値に戻ってから行いまし ょう」と、言われたんですよ。 毎年、全身のがん検診をずっと受けてきたのに、そんな馬鹿な話があるかと腹が立ちまし た。でも先生は「膀胱とはねえ。私も全く気が付かなかったなあ」の一点張りですよ。 そこで先生に、末期がんでしたら余命はどのくらいなんですか?と尋ねたら「明日かも知 れないし、1か月後か1年後かも知れない。それは誰にもわからない」と笑いながら言う んですよ。頭にきて余程怒鳴ってやろうと思ったんですが、その先生には長い間診察して 貰ってきたので・・。仕方ありませんね。 そんなわけで帰宅してから今日まで色々と考えているうちに、そうだ、もう二度と会えな くなるから、東井さんにお別れの挨拶に行ってこようと、今朝出かけてきました。 いや、お会いできて良かった」 彼は、そうしたことを淡々と話されたのです。 私は呆然として何も言えず、腕を組みながら目を閉じ、頭の中で何か良い方法がないかと 考えを巡らしていました。 そして、ようやく「がんセンターをやめて、他の評判の良い病院でセカンドオピニオンを 受けるとか、良い方法を考えませんか」と言うと。 「いや、もういいんです。色々と考えましたが、結果は変わらないでしょう。 私はもともと腎臓が悪くて、若い頃に一つとっているので、あまり長生きは出来ないと思 って生きてきたんです。まさかこの年まで長生きできるとは思ってもいませんでしたから、 もうそろそろ潮時かなと。まあ仕方がないかなと思っています」と、悟った感じで話され るのです。 私は「何をおっしゃる。まだまだ先はありますよ・・・。大変失礼なことを聞きますが、 これが東井流の会話なんですが・・・。がんがこわくはないですか?」と本音をお聞きす ると。 「それが、他人事のような感じなのかな・・・。がんにかかっている自分を客観的に眺め ているもう一人の自分がいるんですよ。怖いという感じはないですね」 私はその言葉に、思わず「寺岡さんはお強い。たいしたものだなあ・・」と唸るような声 を出し、彼の冷静な顔を静かに見つめました。 すると「いや、ノー天気なだけです。女房にいつも『「あなたは極楽トンボなんだから』 と言われていますよ」とお笑いになり、そして独り言のように、こう呟かれました。 「でも、せめて80になるまで生きられたらなあ・・・」 「80?傘寿の誕生日ですね。いつですか?」 「7月1日なんです」 「えっ、今日は5月15日だから、あと1か月半じゃないですか。何だ、もうすぐですよ!」 「そうでしょうか?そうなれば嬉しいんですが」 「そんなの楽勝ですよ。私の直感では、寺岡さんは少なくても1年、2年はゆうに生きら れると思いますね。私の予見は結構当たりますよ。 そうだ。来週でもまたお会いしませんか。その時に、私が親から貰っていた御守護の薬が あるから、それを差し上げますよ。ダメ元で飲んでみてください。絶対に効くと思います」 「そうですか。それは嬉しいな。よろしければ是非お願いします」と目を輝かせ、「それ では長くなりますのでこれで失礼します。急にお伺いして、すいませんでした。いや、今 日は東井さんにお会いできて良かった」 寺岡さんはそう言って立ち上がり、笑顔で私の両手を握られ、部屋を出ていかれたのです。 その後の話は次回にでも。 |