7月1日(3)
|
時は、2019年5月30日、午前11時半。 場所は、築地の国立がんセンター最上階のレストラン。 前回(5月15日)お会いした際に約束した、亡父母から譲り受けた「御守護の薬」を渡 すため、検査入院中の寺岡さんの病室を訪問。 数日前に電話連絡してあったので、彼は広い個室の窓辺の椅子に座り、きちっとした身な りでパソコンに向かい、何やら作業をしていました。 私は軽く片手を上げて挨拶をし、パソコンを覗き込むと「例のライプツイヒの業務を後任 に引き継ぐので、その資料を作成しているんですよ。先日は突然に失礼しました」と言わ れ、それからお互いに挨拶を。 寺岡さんはこの時、ドイツのライプツイヒ市と日本を往復し、市の関係者と打ち合わせを 行うなど、「Japan・Coordinator」」として活動中でした。 仕事は端的に述べると、我が国の医療関係における有望な学術・研究者、医薬品開発メー カー、医療事業の起業家など、ライプツイヒから資金や土地の提供など種々の便宜供与を 受けながら、将来的にライプツイヒ市に関係して活動したいという人材・会社を見つけ、 市との橋渡しをする業務。 私も寺岡さんに依頼され、何人かの有望なマンパワーをご紹介しました。 しかし病気治療のため、止む無く退任を決意。市に後継者を推薦し、引継ぎのための残務 整理に追われていたのです。 私はその律義さに感心しました。 寺岡さんは「ここでは何ですから、レストランに行って昼食でもしましょう」と言われ、 そこでレストランへ出向いた次第。 高層階のレストランの窓辺の席に座ると、眼下に築地市場、その先に隅田川、そして東京 港が一望できます。 そこで定食を食べながら(私はランチビールも)、気軽な色々な話に花を咲かせました。 食後の珈琲を飲み始めると、食欲旺盛な寺岡さんは「ケーキも頼みましょう」と言われ、 腹が一杯の私もつられてケーキを食べながら、ようやく寺岡さんの現在の病状に話が移り ました。 ずばり、状態はよろしくない。毎晩、頻繁に起き、その度に痛みを我慢しながら排尿をす る状態が続いているとのこと。膀胱がんは全身に転移しているので、抗がん剤が使える体 調に戻すこと。 今は血液検査の結果が良くない。基準値に戻すための療養をすることが第一、と医師に指 示をうけた。 そのように淡々と話してくれました。 私は、顔色はやや血の気が引いている印象でしたが、この食欲旺盛さと快活な会話に触れ る限り、レストラン内の誰が見ても、まさかがんに罹っている人とは想像もできないだろ う、と思いました。 しかし寺岡さんの、会話の途切れ目に、時折浮かぶ表情の陰りから「相当不調なのだろう が、彼の性格から弱音を吐かず、うろたえず、常に相手に不快や心配を与えないように気 を使われておられる」と推察されました。 時計を見たら、いつの間にか2時間も経っていました。 私は、これ以上長居したら体調に良くないと判断し、急いで話の要点を告げたのです。 「今日は、前に約束した亡父から貰った「御守護の薬」を持参しましたよ。 薬と言っても、中身は神様にお供えした、小さじ一杯分ほどの小麦粉を炒めた粉らしいで す。私の両親が「いざという時に飲みなさい。子供が大変な時は子供に飲ましなさい」と 言って渡してくれたものです。 非科学的だとか、単なる偽薬効果を期待するものしかないと思われるのがまず一般の常識 ですが、その人間の常識をはるかに超越した、いわゆる大宇宙の不思議な力、サムシング ・グレートの働きといったものを、私は最後の最後に信じているのです。 親から貰った良いもの。その一点を信じているだけです。 宗教とかそういうことは、全く関係ないです。 がんセンターの専門医師に診ていただいているのですから、手術や放射線や抗がん剤治療 など、最高水準の医療を駆使して治療されると思いますが、もしその気になったらお飲み ください。1回分しかありませんが、試してみてください。 それと、これは私個人の思いなのですが、寺岡さんの御病気に対して、今の私にできるこ とは何もありません。医者でもないし、人徳もないし、非力です。 しかし私は、今夜から毎晩、寝る前に手を合わせて、宇宙の神様とご先祖様に恢復を祈り ます。もしよろしかったら寺岡さんも、就寝する時に心の中で祈ってみてください。 『神様、ご先祖様、御守護をありがとうございます』と。」 寺岡さんはにこやかに「早速そうします」ときっぱりと言われ、私をエレベーターの前ま で見送ってくれたのです。 そしてお互いに笑顔で握手し、「それではまた。また、うまい店でランチでもしましょう!」 と言葉を交わして別れたのでした。 その翌日。 寺岡さんから電話がありました。 「昨晩、すぐに頂いた粉を飲んで寝ました。夜中に目が覚めたので、また1時間足らずで 目が覚めたのかと思って起きたら、何と朝の7時なんですよ! 夜中に1回も目が覚めず、ぐっずり朝まで寝られました。 こんなこと本当に久しぶりです。お蔭で今朝は爽快な気分でした」 そう明るい声が伝わってきて、私も驚き、そして心の底から嬉しさがこみ上げてきました。 その後。 6月上旬に、寺岡さんの古き友人の平本さんのお誘いで、3人で表参道にあるレストラン でランチをして歓談。 平本照麿氏は、寺岡さんより3歳(?)年上。大学卒業後、外資系の出版社に勤務してい る頃、寺岡さんと知り合い、その後、お互いに独立してそれぞれの会社を設立。平本さん は英語学習教材や「イングリッシュ・ジャーナル」などの出版で有名な「アルク」を創設 され、現在はその最高顧問として指導に当たっておられる方。 まさに英語を中心とした語学の普及を図りながら、「地球人ネットワーク」の形成を目指 しておられる、明るい個性的な方で、3人の話は弾みました。 そして、7月1日。 寺岡さんは無事、80歳の傘寿の誕生日を迎えられました。 7月、8月、9月。 私は毎月1回、祐天寺の閑静な住宅街にある寺岡さんのご自宅を訪問。 私の自宅がある上馬のバス停から、目黒駅行きのバスに乗って五本木のバス停で降りれば すぐ。 35年間のお付き合いでしたが、ご自宅を伺うのはこれが初めてのこと。 奥様は茶道の先生。多くのお弟子さんのお稽古をつけておられるので、落ち着いた洒落た 佇まいの御自宅。 8畳の畳の和室には炉が二つ切ってあり、床の間の花入れには季節の茶花が、後ろの壁に は閑寂な風趣の掛軸が。そして、淡い薄茶色の襖で仕切られた4畳半の次の間。その隣の 部屋は水屋(点前や茶事の準備をする小部屋)。 何とも心が洗われる空間です。 そこで、奥様のお点前でたてられた薄茶を、簡略な作法に則って、頂きました。 師範の免状をお持ちの寺岡さんも、藍色の着物を着て、茶道具などを運んだり片づけたり の所作をされています。どうもこうした作法も「運び点前」の一つとして重要な茶事の様 です。 私は正座で背筋を伸ばし、薄茶をゆっくりと頂き(何口で飲んでも良い)、茶碗をめでて、 お返しをしてお礼を。 作法など何も知らないが、寺岡夫妻の作法は一つ一つが「本番」なみで、素人の私を主客 として対応してくれたのには、感動しました。 そして、その後は隣のリビングに移り、煎茶で和菓子やケーキを頂きながらの歓談。 いつも寺岡さんは元気満々で話をリードされます。色々な過去の楽しい経験を語り、時に は政治批評を熱く語られたり。奥様は「日頃、話し相手がいなくてストレスが溜まってい るので、東井さんと話をするのが楽しみなんですよ」と笑っておられました。 いつも2時間ほどがあっという間に過ぎ、失礼する時は日が陰っています。 夫妻は、門の前でいつまでも見送りをして下さり、曲がり角でお互いに最後のお辞儀をし て別れるのでした。 その後。 9月末には、再び平本氏と3人で、銀座の和食屋でランチしながらの歓談。 10月中旬に、再び寺岡家を訪問。その日の夜に行われる「ラグビーW杯」の対スコット ランド戦の話で持ち切り(日本が快勝してベスト8に)。 そして12月16日。寺岡さんと恵比寿駅近くのイタリア料理店でランチ。バイキング方 式なので、寺岡さんは結構食べましたが、その後、珈琲を飲みに喫茶店に入った際もケー キを頼まれたのでびっくり。私よりはるかに健啖家でした。 話も尽きず、「来年また、ランチにでも行きましょう。今年お会いできるのは、今日が最 後でしょう。それでは来年また・・・良いお年を」そう言って別れたのですが。結局これ がお会いした最後になってしまったのです。 年が変わり、平本さんからのメールで、2月に3人でランチする予定でした。 しかし日程が合わず、3月に延期。だが3月になると新型コロナ拡大が顕著になり、自粛 に。 収束してからゆっくりお会いしましょう、ということでしたが。 寺岡さんからは、奥様と一緒に行った、世田谷区の等々力のイタリア料理店や、奥沢の焼 鳥屋が美味しかったとか、伊豆にご夫婦で旅行されて泊まったホテルのフレンチが旨かっ たとかの近況を伝えるメールが送信されてきました。 私は、お元気な寺岡さんを想像しながらも、直接ご自宅に伺うのもはばかられ、そうこう しているうち、気が付けば6月下旬に。 昨年末、「昔からの仲間に誘われて、来春にヨーロッパ旅行に行こうと思っているんです よ」と聞かされ、「それはいいですね」という話をしていたので、もしかしたらコロナに 関係なく行かれているのかな、とも思っていました。 でも、長い間、新型コロナ騒動などで電話の長話も遠ざかっていたので、「そうだ、7月 1日の誕生日に電話しよう」と考えていた矢先の、6月25日。 午前9時頃に自宅の固定電話が鳴りました。 固定電話は、セールスか間違い電話が多かったので、知らぬふりをしていると家内が出て、 何やら聴いています。前日の夕方、連続して固定電話が4回鳴り、取るとツーツーと不通 音が鳴るので「いたずらか、間違い電話だな」ということがあったので、それかと思って いたら、「寺岡さんから・・」と私を呼ぶのです。 家内の表情や声色から、「もしや?!」と思いながら受話器を取ると、か弱いながらもし っかり伝えようとする奥様の、途切れ途切れの声が。 昨日、寺岡さんが自宅でお亡くなりになったこと、28日に「お別れ式」を開くので、一 言お別れの言葉を頂きたいとのことでした。 私は「ご連絡ありがとうございました。了解いたしました」と伝え、受話器を置いたので すが、身体全体の力が抜け、何か真空地帯に放り込まれたような気持になり、家内から 「どうしたの?」と聞かれても、しばし放心状態で立っていました。そしてかろうじて 「寺岡さんが亡くなられた・・・」と一言呟き、リビングのソファに座って無言でいると。 急に嗚咽が漏れ、涙がとめどもなくこぼれ落ち、そっとポケットからハンカチを取り出し、 じっと目頭を押さえて口をつぐんでいたのです。 私は、両親の死去や親しい人のご逝去など、今までに数えきれないほどの死別の場面や訃 報に触れてきましたが、泣くなどという事は1回もなかったのです。 父の場合も母の場合も、極端に言えば「ああ、良かった。これで安らかに出直しが出来た な」と兄弟等に話していたぐらい、泣くなどとは程遠く、逆に安堵感が漂ったほどでした。 父も母も、意識がなくなって昏睡状態の期間が長かったので、早く安らかになることを祈 っていたほどでしたから。 6月28日。 前々回で述べたように、五反田の桐ケ谷斎場で「お別れ会」が開かれました。 長い読経や偉い人の挨拶、お涙頂戴の大袈裟なナレーションなどの形式的なセレモニーは 無く、会社関係の利害得失が絡んだお義理出席者も無く、親族の方約40名と10名ほど の親友だけの参列者。 式は、冒頭に奥様のご挨拶があり、すぐに代表二人のお別れの挨拶に。 私は初めに呼ばれ、祭壇の前に立ちました。 前夜からスピーチの内容を考え始めましたが、やめました。 そんな恰好をつけて喋る内容は、本意ではないと。 そして、祭壇の前に立った時に、直感的に浮かんできた事柄を話そうと決めていました。 私は遺影に一礼した後、祭壇を飾る花々に囲まれた、寺岡さんの大きく引き伸ばされた幾 つもの写真パネルに視線を流しました。 登山、海外旅行、オートバイ、そしてお茶のお点前の姿。 瞬時に、これらの一枚一枚に彼の人生が凝縮していると感じました。 これに加えて、ショパンの音楽。式の間、会場に静かに流れていたショパンのピアノ協奏 曲第一番と第二番。これが彼の人生に一貫して流れていたような気がしました。 私は淡々と、よどみなく挨拶を続けました。 そして最後に、こう締めました。 「寺岡さんは、カネだ名誉だ権力だと慌ただしく生きる人が多い中で、珍しく我欲のない、 粋な生き方を貫き通した人でした。仕事も趣味も家庭生活も、悔いのない充実したものだ ったと思います。ご立派でした。 この会はお別れ式ですが、私はお別れの言葉は言いません。 肉体は消えても魂は今頃、天国という明るく美しいところに行かれていることでしょう。 私は、嬉しい時や辛い時、つまらない時に、寝しなに心で話しかけるでしょう。お互いの 心は生き続けるのです。 私共も、早かれ遅かれそちらに行きます。 どうか天国で、私たちの日々を笑顔で見守っていてください。 本当にありがとうございました・・・・」 最寄り駅までの帰路。 来るときは激しい雨の中で俯きながら上った住宅街の坂を、今は雨も上がり、自分でも不 思議なほど明るい気持で、脳裏に浮かびあがった歌を口ずさみながら下って行きました。 その歌は、日本でも流行ったフオークソング「花はどこへ行った」(作詞・作曲、ピート ・シガー)。 詞の要旨は。 「花はどこへ行った 少女がつんだ。少女はどこへ行った 男のもとへ嫁に行った。男は どこへ行った 兵隊として戦場へ。兵隊はどこへ行った 死んで墓に行った。墓はどこへ 行った 花で覆われた」そして再び「花はどこへ行った」に続くのです。 寺岡さんの仕事も趣味も生活も、常に奥様が優しく支えてくれたはず。 悔いのない幸せな、80年いや81年の人生だったと思います。 そう信じて、私も心を勇ませ、日々を喜んで進んでいきたいと願う、今日この頃なのです。 それでは少し早いですが、今週も良い週末を。 |