東井朝仁 随想録
「良い週末を」

や ば く な い ?
最近、色々な人と電話で話したり、行きつけの喫茶店でカウンター越しにマスターと言葉
を交わしたり、タクシーの中で、運転手と猛暑や新型コロナへのボヤキを日常挨拶代わり
に口にすると、決まって「最近、世の中が変な雰囲気になってしまいましたね。何か異様
と思いませんか?」とか、「何か日本はヤバイ感じになってきたと思いませんか?」と、
尋ねられることが多くなった。
昨年までは、その異様さは「未曽有の災害多発」という異常気象が対象だった。だが今は
「社会が異様だ。何か今までにない不安を感じる」というように、対象は社会。漠然とし
た広く抽象的な言葉だが、気持はわかる。
具体的には政治や行政や司法や警察など、国や地方の組織に対してだろう。
特に責任ある立場にある指導者の能力への不信。
能力とは、責任感・正義感の度合い、洞察力・胆力・決断力・統率力の度合い。
そして、これらの基底をなす「指導者としての信念」が明確なこと。
これらを、果たして持ちあわせているのかどうか、ということ。
今回の新型コロナ感染拡大に関する、連日連夜のマスコミ報道により、国や地方の政治・
行政の対応ぶり、政治家や首長の能力の程度が、何となく可視化されてきた。
結果、現在の我が国の各分野において、ましてや政治の世界においては、全く指導者たる
に相応しい人物が、不在という事。
みな、我欲と口だけは長(た)けているが、無責任で場当たり的で、冷静な政策判断がな
いようだ。
熱烈支持とまではいかなくとも「いい政治家」と思える人は、与野党ともに全く見当たら
ない。
安倍総理に替わる政治家は、誰がいいのか?
私のつたない経験と直感と知識では、わからない。
各界におけるリーダー不在。これが現在の我が国の実情だろう。
残念ながら、日本の最高指導者・安倍総理からして、数か月前までのカラ元気さえもなく、
今は悄然として見える。

平時の時は、口先のパフォーマンスさえあれば、総理も関係閣僚も、官僚に指示してしま
えば悠然としていられる。関係組織はルーチンで仕事をこなすだけ。
しかし、有事に直面したら、閣僚も官僚も右往左往であろう。
例えば、突然今日にでも、尖閣列島が中国に軍事支配されたら、官邸から霞が関は蜂の巣
をつついたように慌てふたむき、冷静な情勢判断と素早い決断を断行する指導者が不在に
なる、と私は予測している。せいぜいできることは、米国大統領に指示を仰ぐぐらいだろ
う。でも。「まずは日本で即応せよ」との返答だったら、どうするのか?
首相は反撃を決断できるか。自衛隊の制服組の責任者が、果断に前面に出るのか。
これは、戦争のみならず、首都圏直下型の巨大地震が発生したケースでも然り。
役所は日頃から会議室で「災害対応マニュアル」を延々と時間をかけて作成しているが、
いざとなったら、こんなものを読み読み対応を進められるわけはない。現場のリーダーの
素早い指示で組織は動くもの。霞が関や永田町の会議室に集合して○○会議を開催、と言
っても、過半数が集合できるかどうかも不明。「情報収集」「情報収集」で一日二日が過
ぎても、肝心の国と地方の行政組織、警察や消防署は機能不全に陥ってしまい、政府の手
足は無きも同然に。その間に被害は激甚化の一途。

現在の新型コロナの感染拡大状況にあって、国会はまさに「我が国の緊急事態」にもかか
わらず、のんびりと閉会・夏休み。
新型コロナ対策は我が国の喫緊の最重要課題なのに。
こんな無責任で無気力な政治姿勢を見ていれば、「日本はやばくない?」とも言いたくな
ってくる。
全国の議員も公務員もそれに準じる人たちも、コロナ自粛の経済的影響を直接受けない人
人も、政府は「全国民に10万円」をばらまき、不評のアベノマスクを、さらに大量に配
付したり、感染拡大しているさ中に「Go to travel」を慌てて強行したり、、、。国は
予算を湯水のごとくにばら撒いている。
きっと「もう財政再建なんて関係ない。ここまで借金が増えたら、どうしようもない。と
りあえず在任中は、何とかやるしかない」と考える政治家や官僚が主流なのだろう。
問題はコロナの騒ぎで隠れてしまっていること。
相次ぐ激甚災害や自粛による経営悪化や医療崩壊に対し、莫大な国費支出が続き、国家財
政は極めて深刻な状況。さらに対韓、対中、対ロ、対北朝鮮などの外交・防衛も緊迫した
状況等々。
こうした未曽有の国難にあっても、国民の目には「政治家の不倫、政治家の口利き利権、
政治家の自粛中の献金パーテイ、政治家の暴言」などなど、情けなくなるほど政治家のダ
ラケぶりしか、映ってこない。
野党は相変わらず政党の離合集散騒動。政策も能力もわからない。
みな、根底には「自分が次の選挙に当選し、自分の利益になればそれでよし」としか、
考えていないのだろう。
(安倍総理は、内心は早く首相を辞めたいのでは。しかし「いま辞任されると、今度の選
挙で勝てない」と考える党内の連中から、強く慰留されているのでは。というのが私の憶
測)

私はだいぶ以前から、総選挙での投票率の低さ(棄権率の高さ)に驚き、国民・有権者の
政治的無関心に落胆し、社会の総体が国民をどんどん「内向き」「保守的」「利己的」な
方向に追いやってきている現実を憂慮してきた。
そして、国民はもっと自由闊達に議論すること。我が国の民主主義の根幹をなす政党政治
を健全なものにするため、棄権をせずに投票権をしっかり行使すること。「一人はみんな
のために、みんなは一人のために」の心を大切にすること。それを訴えてきた。
しかし、幼稚でセンチメンタリズムの私の願いが叶うほど、人生は単純にはいかないよう
だ。
数年前から「日本は、国民による内発的な改革は無理だろう。意欲ある国民はもうすぐ日
本から消え、国家に従順な国民が多数を占めるだろう。
もはや、首都圏直下型の大地震等の天変地異か、経済大恐慌か、戦争(テロ・内乱を含む)
が連鎖して勃発し、あらゆる旧弊が崩壊したうえでないと、新たな日本の発展は、出来得
ないのではなかろうか」と、推察してきた。
それが、100年に一度と言われる今回のパンデミックにより、戦後の民主平和国家・日
本において、いよいよ国家主義、独裁主義が急速に台頭してくるのではないか、という一
抹の懸念がムクムクと盛り上がってもきた。
「そんな、あり得ない悲観論を!」と、一笑に付すことは簡単。
しかし、歴史は「まさか」の連続で形成されてきたのだ。

話が重くなってきました。
今回のエッセイで触れたかったのは、いつもその辺にいる普通の庶民が、
「最近、なんか社会が異様になってきましたね。変ですよね。国も都も言う事が違うし、
政治は機能マヒだし」と話す言葉に、今までにない切実さを感じたからです。
要は新型コロナの感染拡大で仕事も生活も不自由になったという閉塞感だけではなく、こ
の災禍の過程で、人々は国や地方公共団体や企業や学校や医療やマスコミ等々、様々な責
任ある人々の言動に触れ、その現実の虚実に唖然として悄然となってきたのではないでし
ょうか。

先日読んだ曽野綾子氏の本に、こんなことが書いてありました。
100か国以上の国を「国際支援」で訪問した経験からの、示唆に富んだ言葉でした。
「一つの国が貧乏になることなど、簡単なことです。
人が利己的、刹那的になれば、すぐに国は破綻します」

「やばくない?」
「チョー、ヤバいよ!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「それをみんなで話し合おうぜ」
「密になっちゃ、駄目だよ」
「ほら、オンライン、オンライン!」
そんな声が、ソーシャル・デイスタンスの中からも聞こえてくれば、、、。
そんなことを夢想しているこの頃。

まだまだ暑い季節は続きます。
でも、大切な人とのホットラインだけは維持して、良き季節を迎えたいものです。
それでは良い週末を。