東井朝仁 随想録
「良い週末を」

医 系 技 官(1)
今日(11月2日)、行きつけの喫茶店でスパゲッティ・ナポリタンの昼食を食べながら、
店の本棚にあった週刊誌「週刊文春・11月5日号」を斜め読み。いきなり「宮崎美子
(奇跡の61歳)をビキニにさせたのは、厚労省NO2だった」の大きな見出しに当たり、
ビックリしてしまった。
実は昨日、これも発売中の「週刊現代」を見ていたら、「奇跡のナイスバデイ」と名打っ
た、写真家・篠山紀信による女優・宮崎美子の撮り下ろし写真を見たばかりだったのだ。
「何だ、また宮崎美子か。文春(文芸春秋)と現代(講談社)とのコラボレーションなのか?
最近、週刊詩は売れていないようだな。コンビニでは立ち読みする者ばかりで買うものが
いないし。殆どの店舗で週刊誌は置いていないな」と思いながら。
グラビアは、いわゆるヌード写真ではなく、彼女の芸能界デビュー40周年を記念した、来
年のカレンダー用で撮影された水着もの。
宮崎美子という名前にピンとくる人は、現在ではクイズ番組が好きな人か、1980年当
時に青少年だった年代(私は32歳だった)では?
そして殆どの人は、当時、彼女が出演したミノルタ・カメラのテレビCMを想い出すはず。
名コピーライター・糸井重里作詞の「♪いまの君は、ピカピカに光って」の歌が軽快に流
れる中、爽やかな青い海を背景に、人気(ひとけ)のない木陰で恥ずかし気な微笑を浮か
べながら、急いで長袖のシャツとジーンズを脱ぐと、(確か濃紺の)ういういしい水着姿
が現れる、というCM。
当時としては斬新な、化粧気のないふっくらとした顔の女の子の笑顔と、その下のピカピ
カの豊満な若い肢体のアンバランスが、とても新鮮な印象を与えるCMだった。
(しかし私には、その数年前にカネボウのキャンペーンガールとして、全裸に近い姿で楽
しそうに砂浜を走る肢体と、日焼けした美しい顔で笑う夏目雅子のCMに度肝を抜かれて
いたので、宮崎さんのCMは好感が持てたが、特にそれ以上の感動は無かった。
ちなみに、夏目雅子が早世する原因となった白血病。その根治療法として骨髄移植がある
が、私は当時、疾病対策課で、骨髄移植に必要なドナーの登録及び患者とのコーデイネイ
トに係る公的骨髄バンク推進事業の担当課長補佐をしていた。その時に、医系技官の岩尾
課長と共に、夏目さんの実兄・小達氏とゴルフをした。そのご縁で、その後、小達さんが
創設した「ひまわり基金」のゴルフコンペなどに参加したり、飲みに行ったりして親しく
していただいた。岩尾氏の車で小達氏の家に寄った際、奥様の田中好子さんが出迎えてく
れたが、その可愛い小さな身体のスーちゃんも、今はいない)

40年ほどの歳月を経ての、宮崎美子さんの笑顔と肢体。
確かに還暦を過ぎた女性タレントとしては、メタボ腹ではないし、ふくよかな笑顔は当時
の面影をそのまま残しているし、「イイ線」を行っているのだろうが、わざわざ袋とじす
るほどのことはないだろうに、とも思った。(「あの豊満ボデイふたたび」という週刊誌
のキャッチ・コピーは、蛇足)
それより、「NO2といえば、事務次官の次の、医務技監だが・・はて?」と、そのほう
に興味が湧き、しばしフォークの手を止めて文春の記事を読むと。
厚労省の人事・配置表の小冊子は、私が退官後も(株)厚生行政出版会のご厚意で毎回郵
送されてくるのだが、迂闊だった。
記事の医務技監とは、福島氏だったのだ。

福島氏は宮崎さんと県立熊本高校、さらに熊本大学時代から今日に至るまでの親友。
1979年10月に「週刊朝日」が募集した「篠山紀信が撮る!キャンパスの春」という
モデル募集に、写真が趣味だった福島氏が宮崎さんを撮影して応募したら、彼女が
1000名の応募者の中から見事に選ばれた。その写真が契機となり、宮崎さんはタレン
ト、女優として進化していったということだった。
一方の福島氏は、これは厚労省関係の多くの人が認識していることだろうが、氏が健康局
長の時にタバコ対策(受動喫煙防止策)で当時の厚労大臣に疎まれ、成田空港検疫所長に
外され、その後は付属機関の長を務めていた。
それが何と、この8月の人事異動で本省のNO2(?)にカムバック。
役所人事では、滅多にありえないこと。
政権交代、コロナ禍という時代の潮目が生んだ稀有な事だろう。
宮崎さんとのダブル「奇跡」の記事ネタだったのだが、そのストーリーは面白かった。
詳細は週刊誌をお読みになればわかることだが、私は「なるほど」と感心した。
そして「あの福島氏がねえ。人は見かけによらないものだな」と、これまた感心したが、
実は厚生の医系技官の多くは、こうしたことを以前から承知していたと知り、これまた驚
いた。

福島氏とは、私が厚生省在職中に一緒の職場で働いたことがあった。
私は50歳の時、「厚生省保健医療局地域保健・健康増進栄養課」に異動した。そこには
既に福島氏が在籍していた。私は課の名称が長いので、名刺を作るときに苦笑したが、こ
れは単に旧課の二つをホッチキスどめして組織再編したもの。まさに役所的な再編。この
数年後には厚生省と労働省をクリップして厚生労働省として一つに統合されたが、「国家
公務員の定員削減、業務の無駄を排した組織のスリム化を図るため、省庁を一つ廃止しま
した!」というのは名目だけ。組織は肥大化し、内実は旧厚生省と旧労働省の人事や業務
などの既得権益はそのままで、職場配置や決裁手続き等が煩雑化しただけ。建物の中に見
えない壁が設けられ、お互いに従来の厚生省と労働省がそれぞれの世界を形成しているが、
外から見たら一つに見えるだけ。
私にはそう思える。
だから、以前は厚生大臣と政務次官の2人だけが国会議員で、行政の事務方は、事務次官、
官房長、各局(部)長と数人の審議官だけの幹部で組織化されていたのが、現在は私の知
るところでは、旧厚生・旧労働の流れを温存して、とてつもなく組織は複雑・肥大化して
いるようだ。
例えば。
厚生労働大臣の下には、副大臣2人、大臣政務官2人と、計5人の国会議員がいて、事務
方には厚生労働事務次官、厚生労働審議官、医務技監、官房長、総括審議官3人、審議官
10数名、局長13名、何とか統括官などがいる。
これでは、所管やポスト争いもさることながら、決裁一つとるにも非合理的で、そもそも
「あのポストは何をするところなんだろう」と、外部の人から聞かれても、まず殆どの職
員が答えられないほど、訳の分からない部署・ポストがひしめき合っている。
勿論、省内が一体となって事に当たるなどということは、不可能。
菅総理が「スピード感」「前例打破」「ハンコ禁止」などと公約として主唱しているが、
かって自身が総務省の副大臣を経験していたから、旧態依然とした既得権益・前例主義の
権化である役所の実態をイメージしてのことと、推察される。
いまや私には全くどうでもいいことだが、一国民としては、すぐにでも革命的に行政改革
・政治改革を断行しないと、日本は本当に破滅する寸前にきていると、深い憂慮を抱かざ
るを得ない。
国の心臓部である霞が関・永田町から機能不全が進んでいる。

話がそれましたので、元に戻ります。
前述したように、福島氏とは地域保健行政・国民の健康の保持増進行政を所管する課で机
を並べていた。
私は総括課長補佐として、課全体の所掌にかかわり、福島氏は医系技官の課長補佐として
他の2人の医系補佐と1人の薬系補佐を指導し、医学的見地からの施策を担っていた。
特に当時は少子高齢社会の到来の中、医療対策や介護・福祉対策だけでは、いずれ医療体
制も医療・介護保険制度も破綻する恐れがあったので、国の方針はようやく「治療より予
防」さらに「健康増進」に舵を切り始めていた。
医療機関にかかる患者を減らす。介護を要する人を減らす。国民の健康寿命の延伸を図る。
そこで打ち出したのが「21世紀における国民の健康づくり運動」(健康日本21)とい
う、我が国の健康づくりのための10年計画、アクションプランの策定・施行。
その先頭に立っていたのが、前述した岩尾課長。
私にとっては疾病対策課に続く二度目の上司。そして福島氏などの技官や、優秀な事務官
たちや、課内の保健指導室の保健師たち。
今思い返すと、一言で表現して「国民に直結する当省の重要政策で、遣り甲斐がある、前
向きな楽しい業務」だった。
各専門部会の開催、要旨とりまとめ、草案の作成、関係部署・他省庁協議、関係予算の要
求・執行、各都道府県・政令市に対する指導通知、伝達会議や講演、関係団体等への説明
と協力要請、健康日本21に関する普及啓発、そして健康づくり運動推進のための体系づく
り。
私はこの健康日本21の要旨を広く日本中に普及啓発し、マスコミや企業や関係団体にも
協力してもらい、「国民運動」として展開する必要が喫緊の課題と考えた。そこで大幅な
予算要求を組むと共に、既存の予算を最大限活用して、すぐに計画要旨をわかりやすくし
た小冊子やパンフを、全国に大量に作成配付したりした。
またシンポジウムや講演会を主催したり、関係団体に開催して貰ったりしたが、県や市町
村を含め、みな協力的で元気に取り組んでくれた。
やはり、物事がうまく行くか否かは、構成員の良さ。良いメンバーシップ。そして組織を
けん引するリーダーシップ。
つくづくそう思った。
福島氏は、いつもニコニコしていて人当たりが柔らかかったが、会議では単刀直入に発言
していた。
その彼とは、だいぶ前に、私が自宅から駒沢公園に向かう道で、ばったり会った。「あれ、
福島さん。ここで何しているの?」と尋ねたら、「ここが私の家なんです。最近建てまし
た」と、後ろの素敵な建物を指さされた。
「そうか!私の家は隣の上馬なんだ。隣組なんだね」と言って別れたが、その後はお会い
していない。
ちなみに、当時の担当医系技官のその後。
岩尾課長は医政局長に。福島氏は、前述のとおり。
福島氏の後任の宇都宮氏は健康局長に。
河原氏は、一緒だった当時に早期退職し、東京医科歯科大学・医学部教授に。
たばこ対策行政の主軸・望月さん(女性)は、国立がんセンター部長に。

やりがいのある仕事で一緒だった人は、お互いに、心のどこかに相手に対するリスペクト
と親しみが、いつまでも残っているもの。
それは事務官・技官、役所・民間、中央・地方を問わずに。
特に私の役所時代を振り返ると、不思議とそこに何人もの医系技官の顔が浮かんでくるの
です。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。