医 系 技 官(2)
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(前回の続きです) 私が厚生省に勤めてから、初めて厚生医系技官の上司に仕え、技官に身近に接触するよう になったのは、創設なった環境衛生局指導課組合振興係長の業務について、一応の成果を 上げたと思っていた、1982年(昭和57年)春に、公衆衛生局結核成人病課へ人事異動 した時だった。 そこに、医系技官の土居課長補佐がいた。 この業務とこの人との出会いが、後々の私の人生に少なからず、良い影響を与えてくれた と、あとで痛感した。 土居氏は、私と同じぐらいの年令だった。大柄で顔の丸い、いつも笑顔で対応してくれる、 落ち着いたクレバーな補佐だった。 氏は上司にでも部下にでも、どの様な人と話をしても、大声を出すことはなく、ニコニコ しながら小さな声で穏やかに話していた(顔は、歌手の菅原洋一を彷彿とさせた) 氏と私と私の係員は、課の中で成人病予防事業の担当だった。 要するに、この課の主要所掌業務は、結核と成人病の予防対策。 課員は課長以下十数名。 私の係は、成人病(現在は生活習慣病と呼ぶ)予防事業、具体的には循環器健診とがん検 診(胃がん・子宮がん)事業の実施に係る、地方自治体への予算補助と指導、成人病予防 に関する普及啓発、日本船舶振興会・自転車振興会などが行う民間(法人団体)補助事業 に係る所管法人の交付申請審査(A・採択、B・予算に余裕があれば採択、C・不採択)、 所管法人の指導監督、保健婦等に対する研修事業が主だった(注・HPのトップ頁「表紙 の写真集」から、あの時(23)全国保健婦研修会をご覧ください。研修参加者は各県・ 指定都市の選抜で総勢50名ほど)。 しかし、この人事異動の主旨は、当時、厚生省として最重要課題であった「老人保健法案」 が国会審議中であり、法律が成立した暁には、速やかに公布・施行する方針で、そのため の行政組織として直ちに「老人保健部」を創設し、全市町村を実施主体にした老人保健事 業、老人保健医療を日本中で実施していくための制度づくりに、あった。 だから私共の成人病予防係は、そのまま老人保健部老人保健課に移行し、私の係は「保健 指導係」となる予定で、既存の事業執行と共に、新たに始まる老人保健事業実施のための、 来年度の予算要求・実施要綱草案の策定等を並行して行なっていた。 連日連夜国会待機があり、補佐も私も係員も、机に向かって、答弁書に必要な資料を手書 きで作成したりした。 そして、真夏のある日、国会で法律が可決成立し、同年8月17日に法律が公布。9月 10日公衆衛生局老人保健部が創設された。 老人保健部は計画課と老人保健課の二課でスタート。 部員の構成員は法令事務官の部長と計画課長、医系技官の老人保健課長。課長補佐は法令 事務官が3名、医系技官が1名、一般事務官が5名。係長・係員は法令・一般事務官で十 数名だったか。その中に、大蔵省から出向してきた主査の田中氏(後の財務次官)もいた。 そして法令、医系技官以外の事務方の構成は、社会局、社会保険庁、公衆衛生局からの寄 り合い世帯だった。 みな新組織、重大な新業務に巻き込まれて、緊張していた。 だが、一点、大きな違いがあることを程なくして知った。 それは、社会局からの職員は「社会局の中から選抜されて来ている」という自負が感じら れ、現に社会局の人たちは部内での結束はもとより、親元の社会局の職場からも、陰に陽 に激励や飲み会の誘いなどで、部の同僚を励ましていた。 私は社会局に先輩がいたから、その辺を聞いてみた。 案の定「彼らは局を代表して参加して、大変な業務に向かっている。だから、私達が彼ら を応援するのは、局の人間として当然のことだよ」 一方、組織的には公衆衛生局の傘の下にある老人保健部だったが、親元の公衆衛生局のお 偉方からの励ましや誘いなどは全くなく、廊下ですれ違っても、「忙しいか?」と尋ねる ぐらい。 老人保健課にいる公衆・環境衛生からの総括補佐と事務官補佐の二人は、社会局や社会保 険庁からの職員には当たらず触らずで、業務も一体何をしているか私達もわからない中、 もっぱら私と係員の決裁を、ひねもす(終日)鵜の目鷹の目でチェックしては、些細なこ とで呼びつけてああだこうだと言うだけであった。 特に補助金や調査物の数値などは、膨大な細かい集計表の縦罫・横罫を算盤で計算したり し、一度は私の係員の決裁を机に叩きつけながら、大声で係員を呼びつけ、課内の全員に 響き渡る声で「ここの1000円の四捨五入が違うぞ。何をしているんだ!」と怒鳴りつ ける有様。課内は課長以下静まり返って成り行きを見ている。私は何事かと席を立って補 佐のところに行くと、「東井君、君も係長なんだからちゃんとチエックしろよ!」という ので、書類を見ながら係員に聞くと、四捨五入で1万円切り下げていなかったということ。 私が「いや、私も全部見ていますよ。確かにこれは四捨五入が間違っています。でも補佐、 これは実支出額で補助基準額ではないので、交付決定額に影響はないですよ」 すると「俺たち事務屋の命は、数字だろ?!それを間違えてどうするんだ!」と、ただで さえ青黒い顔を、ますます青黒くして興奮しまくっているので、私は、「わかりました。 訂正しておきます」とさらっと言って、係員を促して席に戻った。 「社会や社会保険庁の連中が見ている中で、全くみっともない・・・ 事務屋の命は数字?予算?本当にそれだけか?まあ、自分の存在価値をああいう形で示し たかったんだろうな」と思わず腹の中で苦笑していた。 その1件以降、社会局や社保庁の連中と飲みに行くと、ことあるごとに 「東井さん、公衆衛生局はあんな補佐ばかりなの?東井さん、社会に来ない?社会の方が 事務官には絶対いいよ!私から上に言えばすぐに可能だよ」と誘われた。 私は以前から「社会局は『社会福祉法』を中心に、事務官には格好の適職局と思っていた し、現に労働組合には公衆衛生局や環境衛生局のノンキャリアは殆ど入っていなかった一 方、社会局は技官が少なく事務官の牙城で、みなプライドを持っているようで、組合加入 率も非常に高い状況にある。うらやましい」と感じていた。 その差の要因は、私は「公衆・環境衛生局は、技官やキャリアが多く、事務官が少ない。 仕事の内容も法律解釈や技術的なことが多く、いきおい、事務官の仕事は庶務、雑務、経 理・計算用務に追いやられているからだろう。その点。社会局はノンキャリの課長ポスト もあるし、社会福祉は、医療や化学や衛生工学や薬学などより、まさに事務官向きの業務 だ」 そのように業務内容、人員構成の差が大きいと考えていた。 「だが、もういい。社会局には社会局なりの組織の掟があって、難しい点も多いだろう。 まあ、うちの二人の課長補佐も辛い毎日だろう。仕方ないさ・・・」。 そんな息も詰まるような職場環境の中、連日の国会待機、新規の予算要求の予算書案と説 明資料の作成、それに来年2月1日から全国の市町村が実施主体となって施行される、 「老人保健事業」の実施要綱の策定が「保健指導係」の喫緊の課題として眼前に突き付け られていた。 私は、心身共に疲労困憊していた。 そんな時、土居補佐から声がかけられた。 「東井さん、来週にでも保健事業のことで長野県に行かない? 佐久病院が保健事業の先 駆的な活動をしているから、現地に行って色々と聞いてこようよ」 それは確か、1982年の秋が訪れていた頃だったと思う。 私と医系技官の土居さんは、気晴らしもかねて佐久に出かけた。 それは、私のささやかな人生における大きな出来事だったのだと、あとになってしみじみ と痛感した。 長くなったので、続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |