医 系 技 官(3)
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(前回の続きです) 1982年(昭和57年)の秋。 半ドン(午前だけの勤務日)の土曜日の午後。 医系技官(医師の技官)の土居・老人保健課課長補佐と私(保健指導係長)は、午後イチ に上野駅を発ち、信越線に乗り小諸駅へ。そこから車で長野県南佐久郡臼田町(平成の大 合併で、現在は佐久市)に建つ佐久総合病院に向かった。 出張の目的は、翌年(昭和58年)2月1日から全面的に施行となる「老人保健法」に基 づく保健事業の実施要綱案について、色々と現場の意見を伺うこと。 老人保健法の目的は「国民の老後における健康の保持と適切な医療の確保を図るため、疾 病の予防、治療、機能訓練等の保健事業を総合的に実施し、もって国民保健の向上と老人 福祉の増進を図ること」にあった。 (注・この文章は、各都道府県知事・各指定都市市長あての厚生事務次官通知から。蛇足 ながら、役所の公文書は、このように「○○を図るために○○を実施し、もって○○を図 るもの」と、図るが反復しているものが多い。小を図って大の実現を図るというのだが、 小大は同義である場合が多く、誤ると、くどくなる) 佐久病院は、農業地域の中にできた小さな集落の中心にあり、門前には小さな個人商店が 軒を並べていた。 病院の横には清冽な千曲川が流れ、遥かに見える浅間山が、なだらかな稜線を青空に描い ていた。 車を降りると、秋の柔らかな陽は西に傾き始め、佐久盆地の田園を渡ってきた風は、とて もすがすがしかった。 佐久病院は、当時の東京でもあまり見かけない大きな建物で、「偉容」を誇っていた。 しかし、来る人を睥睨するような「威容」ではなく、建物の古さとあいまって、何となく 親しみの持てる雰囲気があった。それでいて何か偉大な歴史を包含しているような佇(た たず)まいであった。 私達は職員の案内で、正面玄関から院長室への廊下を歩いていった。 すると、すれ違う白衣や事務服の病院職員の誰もが、さりげなく通りを開け、軽く会釈し て通り過ぎていく。壁には小学校の校舎の廊下のように、絵画や俳句や写真や病気予防の イラストなどが壁に貼られ、コーナーには生け花が置かれていた。これらはみな、職員や 患者の手作りのものだということを聞いて、驚いた。また、ある一角には畳敷きの広い休 憩スペースがとられ、そこで赤ちゃんのおむつを取り替えている母子の姿もあった。 まさにアットホームな雰囲気があった。 私は病院の現場などは小さい頃に交通事故で入院した、殺伐とした雰囲気の救急指定病院 しか知らず、病院に対する印象は、常に暗くて忌避すべきものでしかなかった。 これまでの役所の業務でも、直接、病院に関わる機会はなく、ましてや佐久病院に対する 知識などは、全く持ち合わせていなかった。 ただ、来る前に「医療法」に目を通し、厚生連は国や地方自治体が設置運営する病院や 「日赤・済生会」と共に、公的医療機関であることを知った。そして、厚生連は「厚生農 業協同組合連合会」の略称で、厚生連病院は全国に多数設置されているということを知っ た。 その中でも佐久病院は「農民とともに」を合言葉に、我が国の農村医療、地域医療のパイ オニアとして評判の病院であることを、土居補佐から教えられた。 特に「若月院長はすごい人だ」と。 だが私は「どうなんだろうか?」ぐらいの軽い気持で訪れた。 人や物事は第一印象でだいたいわかるもの。「百聞は一見に如かず」と。 これが当時も今も、私の流儀だった。 果たして。 院内に入って、廊下を歩きながらすぐに感じた。 「なんか、心がなごんでくる病院だな」と。 私が患者の立場ではなく、普通の健常者として訪問したためかもしれないが、院内に漂う 雰囲気は明るく、病院特有の空気の淀みは全く感じられなかった。 そして。 院長室には、若月病院長(後の総長)、佐々木診療部長(後の副総長)、松島健康管理部長 (後の院長)そして飯嶋事務長がおられた。 お互いに名刺を交換してソファに腰を下ろすと、改めてまた若月院長が立ち上がり、土居 補佐と私に握手しながら、「こんな田舎の病院まで、良く来ていただきました」と笑顔で おっしゃった。 細身でやや小柄な体躯に見えたが、背筋はシャキッと伸び、身体全体に独特のオーラが漂 っていた。 そして、頭髪は薄くなっていたが、お顔は柔和で艶(つや)があり、目は半眼で、笑って も瞳孔は鋭く光っていた。 私達は今回の老人保健制度に関することや、佐久病院が全国に先駆けていち早く実施して いた巡回集団検診や健康講話、訪問診療などの事業について話をし、話を聞き、ざっくば らんに意見を交わした。 話の最中、私は「みんな誠実な人だな。役所ではまず見かけないな」と思った。 新たな老人保健制度の主眼は、法律の目的にもあるように「疾病の予防」「疾病の早期発 見・早期治療」にあった。そのために40歳以上の地域住民に対して「健康手帳の交付、 健康教育、健康相談、健康診査、医療、機能訓練及び訪問指導」の各事業を、全国の市町 村が実施主体となって行うことにあった。 ざっくり分類すると、一次予防(生活習慣の改善等)は、健康手帳(健診・医療等の個人記 録)の交付、健康教育及び健康相談。 二次予防(病気の早期発見・早期治療)は、健康診査及び医療。 三次予防(病気や障害の進行防止)は、医療、機能訓練及び訪問指導。 老人保健制度発足当時は、医療を除いた他の6事業を総合して「保健事業」と呼び、それ ぞれの実施基準(意義・実施内容・実施方法・実施回数等)を定めた老人保健事業実施要 綱を策定・通知すること。併せて全国の市町村が事業を実施するために必要な経費(国・ 都道府県・市町村がそれぞれ1/3を負担)の基準を定め、これに必要な国庫補助金(負担 金)の予算要求書を策定することが、我が老人保健課保健指導係の緊急かつ最大の課題だ った。 だが、若月院長等と話を交わし、その後、院内の各部署・各棟や健康管理センター、農村 保健研修センターなどを視察し、夕方からは場所を変え、皆で和気あいあいと酒を酌み交 わしての雑談が終るころには、「先が見えてきた!」と私は直感した。 それは理屈ではなく、私自身の心が燃えてきたということだった。 あとはデスクワークでやればいいこと。その「やる気」の火種を貰った。 皆で遅くまで酒を酌み交わし、歓談した。 若月院長は「佐久病院ではなく、サケ(酒)病院なんですよ」「佐久病院は、昔はアカだ と言われたが、今はピンクですよ」と笑って話された。(注・若月院長が亡くなられた時、 JA及び厚生連関係の全国向け雑誌の編集部から依頼され、「追悼文」書いた。すると、 編集長から電話があり、1か所だけ訂正を指示されたのが、前述の「アカ云々」の文章だ った。 私は、どうぞと返答したが・・・。何を気にしているのか釈然としなかった) 1994年(平成6年)に佐久病院が編集・発行した「農民とともに50年」と題した 50年史を開けると。 ・佐久病院は昭和19年に病院開設。 ・翌20年に若月先生が外科医長として赴任。この年の12月から出張診療活動を開始。 ・翌21年2月に、病院に従業員組合が結成され、若月先生は初代の組合長に選出され、 同年10月に、従組大会の無記名投票で院長に推薦され、院長に就任されている。 ・そして翌22年には第一回病院まつりを開催したり、戦後国内では初めての病院患者給 食を開始。 ・昭和26年には伝染病棟を新築。 ・27年には定期的出張診療班を創設。また、第1回日本農村医学会総会で若月院長が初 代会長に就任。 ・そして34年からは「八千穂村全村健康管理」をスタート。 ・翌35年には、科学技術庁が八千穂村の「健康手帳」による住民健診の実状を、2回に わたって視察。 さらに同年に、若月院長が「文芸春秋」の「日本の医師10傑」に選ばれ、小諸分院の 開設、高等看護学院の開校が行われている。 ・そして38年に農村医学研究所が、39年には成人病センターが開設。 ・昭和40年代に入ると、佐久病院は全国的な話題となってきた。 厚生省などから農村医学研究に関する調査委託などを受けるようになってきた。 ・昭和48年には国や県や農協などから7000万円ほどの補助金を受け、健康管理セン ターが開設。 ・昭和49年では、集団健康スクリーニングの受診者数は5万2千人を超えるようになっ ていた。そして、全村健康管理を実施している八千穂村の村民一人当たりの医療費は、 昭和51年度で他町村と比較して18500円ほど低い額となった。 私が目を引かれたのは、老人保健法が成立・公布される前年の、昭和56年(1981年) の記述。 「村山厚生大臣・大谷公衆衛生局長・田中医務局長ら、佐久病院の健康管理活動を視察。 若月院長と会談」 さらに老人保健法が施行された昭和58年(1983年)の記述。 「老人保健法の施行に伴い、院内に『在宅ケア委員会』が発足。 内外のボランテイア活動もあわせ、『継続看護問題』に取り組む」とある。 なるほど。老人保健法が浮上してきた伏主流線はこれだな、と思った。 さらに、老人保健・介護保険制度の主軸になっている「地域包括ケアシステム」は、この 頃すでに佐久病院が志向していたのだと、感心した。 (引用したいカ所は多数あるが割愛) 結果。 出張から戻り、私は土居補佐がそれまでに苦労して構成した実施要綱草案を受け取り、全 文をしっかり確認し、最終の成文化をし、大臣決裁を起案した。 そして翌年2月に法律が施行された。以降、都道府県のブロック会議や団体の講演会など で奔走することとなった。それは新しい物事を構築していく面白さと満足度に満ちたもの だった。 あの時あの頃、土居補佐と組んで仕事ができたこと、彼の発案で佐久病院を視察し、若月 院長とお会いできたことは、まさに運命的なことだったとは、その時は少しも思わなかっ た。 この出張を終えてから、もう佐久病院を訪問することは無いだろうし、佐久病院の人と親 しくお会いすることも無いだろうと考えていた。 しかしこの出張が、その後の佐久病院との本格的なお付き合いの始まりになるのだった。 この話の続きは、次回にでも。 それでは良い週末を。 |