東井朝仁 随想録
「良い週末を」

医 系 技 官(4)
(前回の続きです)

1982年(昭和57年)9月22日(水)。
この日、厚生省の体育大会の一環として各局対抗(付属機関を含む)軟式野球大会が、目
白の国家公務員専用グラウンド(今は無き田中角栄の大邸宅の隣地)で行われた。
職員の福利厚生の一環としての行事で、平日の朝から夕方までグラウンドの2面を使用し
てのトーナメントだったが、どこの局もメンバーを揃えるのに一苦労だった。
私はこの2週間ほど前の9月10日に、同日付で創設された老人保健部老人保健課へ人事
異動していた。そこは前回述べたように、社会局や保険局・社会保険庁などからの異動者
で組織編成されていた。
従って、野球大会に参加を希望するなど、部内の誰一人として露(つゆ)ほども考えてい
なかったはずだ。他のバレーボール、バスケット、卓球なども、どこの局もメンバーが足
らず、主に統計調査部や援護局、社会保険庁や付属機関が主であった。
だが、私は野球の部には出場する気持で算段していた。年に一度のこうしたスポーツ大会
に参加しにくい職場など「何が国民の健康と福祉を守る厚生省だ!」と思いながら。
そこで、老人保健部の創設に伴い私は異動するが、所属局は今までの公衆衛生局(注・局
長は、数年後に佐久市長になった医系技官の三浦大助氏)であったので、私は異動前に局
内を走り回り、馴染みの若い連中をかき集め、何とか公衆衛生局チームとして参加申込を
済ませておいたのだ。

当日。
集合時間は、午後からの試合の30分前と決めていたが、参集したのは8人。試合開始予
定の10分前ほどになっても、一人欠けていた。メンバー表は審判に提出したが、このま
まだと不戦敗になる。
私達はベンチ前でキャッチボールをしていても気が気ではなく、レストハウスの出入り口
に何度も視線を送っていた。すると、最後の一人が息せき切ってこちらに走ってくる姿を
見つけ、みな安堵の喝采を上げた。
しかし。
試合は負けた。援護局に惜敗だった。
如何(いかん)せん、我がチームは数名以外は野球に程遠い若者ばかりで、これは私の慢
心・うぬぼれからくる愚痴だが、投手の私が「打ち取った!」と思った内野ゴロでも平凡
なフライでも、ポロが続出して点を取られるケースが多かった。
私は高校時代から、時間があると友人とキャッチボールをして遊んでいた。自分でも速球
には自信があった。ラグビーと野球の好きな友人から「外山(野球部のエースで、甲子園
に出場した)より、東井の方が早いんとちゃうか?」とも言われ、「やはりラグビー部に
入部して、途中退部するよりか、野球部に入っていたかった・・」とチラッと思ったりし
たこともあった。知人に誘われて他の寄宿舎のチームと練習試合もたびたびしたが、、ス
トレート投球のみで、いつも完封勝利していた。厚生省統計調査部に入省後はバレーボー
ルの主将として練習漬けの毎日だったが、時々、私の所属する社会統計課と、電算業務を
する若い男子が多い集計課との練習試合を行ったが、ダブル・ヘッダーの2試合を投げ抜
いて完封したりしてもいた。この頃はまさにパワーとスタミナが溢れるほど身体中にみな
ぎっていた。
そうした経験から、34歳のその時でも「過信」というか「負けん気」が強く残っていた。

結局、試合は初戦で負けた。
でも仕方がない。みんな業務が多忙な中、そして上司などの周囲の目が光る中、何とか参
加してきただけでも、みんな「敢闘賞もの」だと思っていた。「よく参加して、よく頑張
った」と。

試合が終わったのは午後3時頃。
ロッカーに引き上げるメンバーのどの顔も、久し振りに汗を流したので爽やかだった。
私は、シャワーを浴びたあと全員がそろったところで、「今日は霞が関に戻るのはやめよ
う。折角のレク休暇だ」と言い、「歩いて目白駅まで出て、一杯やって帰ろう。4時にな
ったら俺が書記室に電話する。今終わったが、これから着替えて皆で遅い昼食をとるので、
そのまま帰宅すると。
各課の主任にそう伝えておいてくれと頼んでおく。戻らなくてはいけない人は、戻ってく
れ。行く人は俺と一緒に行こう」
すると、全員がついてきた。
34歳の私だけが係長で、後の全員は、私よりはるかに若い係員だった。

目白駅周辺にはこの時間に営業している飲食店は無かったので、隣の高田馬場に出ると、
駅前に格好の大衆酒場があった。
私達は大ジョッキで何度も乾杯した。
そして陽が沈んだ頃、帰り支度を始めた。
その時、誰かが「このメンバーで、また野球がやりたいですね!」と気持がこもった声で
叫んだ。
私も瞬時に「同感!このメンバーで野球部をつくろう」と叫んでいた。
全員が賛同し、異様に盛り上がる中、「ブルー・バッカス」というチーム名が決められた。

その後。
10月16日に、チーム初の練習試合を北区総合グラウンドで行い、民間のチームに3-2
で辛勝した。
一方、仕事は「老人保健事業」の全面施行を来春に控え、連日連夜に渡って業務が押し詰
まり、会議も多く、神経が張り詰める毎日だった。
当時の手帳を見ると、同月18日に「日本成人病予防会、農村パンフレット作成」、20
日「全国主管課長会議・於国民年金中央会館」、22日「三井生命厚生事業団贈呈式」、
26日「大和ヘルス財団贈呈式」、28日「全国厚生連部課長会議・講演」、29日「農
民の健康会議、於農協ホール」等々。
そして翌11月12日には、「静岡厚生連立・中伊豆温泉病院視察」などと記してある。
中伊豆温泉病院は、9日間の合宿研修である全国保健婦研修会(脳卒中予防)における、
実習会場であった。そして全国から参加した50余名の受講生(保健婦)たちが連泊する
のは、伊豆長岡にある農協(JA)の宿泊センターだった。
私は担当係長として、係員と共に彼女らを引率し、夕食後は私が「老人保健制度における
保健婦の役割について」などといったテーマを示し、6班にわけて班別討議・模造紙に討
議結果の要旨作成・班長による発表を、ほぼ毎晩行わせた。そのあとは自由時間で、事務
局である私達の部屋が彼女らのたまり場になり、ビールを飲みながら雑談に花を咲かせて
いた。

この頃から、厚生連(日本成人病予防会は厚生連の直轄法人)との関係(縁)が生まれて
きた。そのことは、我が保健指導係の所掌業務である「ギャンブル補助金、健診の精度管
理事業費補助金及び農村保健対策事業費補助金(注・巡回健康指導車や農村保健センター
の整備費補助)等の交付決定作業と、来年度予算の概算要求案を作成する中で、さらに強
く実感されてきた。

そして。
忘れもしない12月4日(土)。
各都道府県の厚生連の中央組織である「全国厚生連」の事務局長と親しくなり、「今度、
うちのチームと野球の試合をやりましょう」という彼の言葉を受けて、この日の午後、武
蔵小金井にある農林中央金庫のグラウンドで、練習試合を行った。
初冬のすがすがしい好天で、整備された枯芝が広がるグラウンドが綺麗だった。
私は内心、「まあ、全国厚生連だったら、この試合は楽勝だな」と楽観視していた。なぜ
なら、大手町の農協ビルにある全国厚生連の事務所に何度か行き、大体の職員の顔ぶれを
承知していたからだった。
しかし。
なぜか一塁ベンチに、あの佐久病院の飯嶋事務長がおられた。
三塁ベンチの私と目線が合うと、お互いにホームベースの近くに行き、挨拶を交わした。
「先日はありがとうございました。ところで、どうされたんですか?」
「いやどうも。全国厚生連から始球式を頼まれましてね」と嬉しそうに言われたので、ビ
ックリ。
すると、全国厚生連の事務局長もやってきて「うちだけではメンバーが足りないので、佐
久病院に助っ人を頼んで来てもらったんですよ」と。
私はその時、「どうぞどうぞ」と笑ったが、すぐにそれは消えた。
「佐久病院のチームは、今年の国体で優勝したんですよ。その優勝投手の佐塚さんが、今
日は投げるようですよ」
「へえ・・凄いな。あとは?」
「あと、野球部の者が数名来ています」
「ん?・・・・。いいんじゃない」と笑って見せた。
過日、佐久病院を視察し、若月院長をはじめ多くの人と歓談した際、「野球部のやの字も
でなかったし、ましてや国体優勝の話など全くなかったが。その国体優勝の時の投手が投
げるのか」と驚いた。
でも、不思議と動揺は無かった。逆に「一泡吹かせてやるぞ!」という、無謀に近い闘志
が湧いてきたのだ。
後で確認すると、この2か月前の10月に行われた「くにびき国体(注・島根県)」で、
長野県代表の佐久病院野球部が初優勝し、マスコミで報道されて話題沸騰だったとのこと。
さらに翌年の「あかぎ国体」で二連覇という偉業を達成し、昭和59年、60年には天皇
賜杯全国軟式野球大会でも優勝を飾り、2連覇の偉業を達成。
日本全国には軟式野球チームがあまたある。その中の頂点に君臨している最強チームの投
手と選手が数人いたのだ。
だが、グラウンド上のプレーヤーは9人。野球部以外の人も半分はいる。だからチーム競
技はそこが穴になるので、100%ボロ負けは無い。穴をねらえば、勝つ可能性だって
10%はある。そう考えた。
しかし、まずは打たなくては駄目。ゴロでも凡フライでもボールがグラウンドに弾かれれ
ば、エラーが出る可能性が生じる。

試合は、国体優勝投手・佐塚正巳氏と私の先発で始まった。
お互いに4回ほど投げ合った。「勝負と人間関係は別。真剣勝負でないと相手に失礼。同
情や手加減の試合ほど見苦しくて、つまらないものはない」(子供相手のゲームは別)そ
れが私の信念。
そんな杞憂を吹き飛ばすほど、佐塚氏は容赦ない鋭い投球を展開してくれ、また我がチー
ムも奮闘してくれた(ヒットも何本か出た)。
結果は、全国厚生連が7-4で勝った。
そして、翌年の1083年(昭和58年)7月2日(土)。
記念すべき日だ。
私達は、佐久のグラウンドにいた。
初めての佐久遠征だった。
午後一番に職場を出て、上野から信越線で小諸に。そこから病院の迎えのバスに乗り、グ
ラウンドに着く前に車中でユニホームに着替え、短時間で病院見学を行い、近くの臼田小
学校のグラウンドで試合を開始した。
この日は、事務・管理部門チームが相手。野球部のOB職員などで編成されていた。
結果は1−0で、我がチームが勝った。
今振り返っても、双方エラーが無い堅守だった。
最終回、2死後、四球で走者が出た後、打者は佐久病院の監督、選手だった武井氏。1球
目を直球でど真ん中に投げたら、鋭いスイングでレフトに飛んで行った。「逆転サヨナラ
ホームランか?」と思ったが、ボールはスライスして切れていった。
2球目は外角にカーブ。
やはり鋭いスイングで、大きな打球音上がり、内野に鋭いライナー気味のゴロが。「抜け
たか」と思ったが、幸いショートの真正面。
ボールが1塁に送られ、これで勝った。
その後、農村保健研修センターの大広間(畳部屋)での大懇親会。
若月院長以下、病院の幹部クラス、医師や事務員や看護婦さんなど、双方で総勢100名
近い人々が、遅くまで飲んで語って懇親を深めた。
翌日の午前中には、医局チームとの試合。みな二日酔いだったが生気が戻ってきた。そし
て、試合後はセンターに移動し、そこでまた、病院の人たちと酒盛りをし、午後2時ごろ
に病院のバスで帰京した。
新宿到着は午後10時ごろだった。
バスでセンターを発つとき、若月院長をはじめとした皆さんが、一人一人に握手され、遠
ざかるバスに向かっていつまでも手を振ってくれた。
私達も窓から顔を出し、皆の姿が霞むまで手を振り続けた。
まさに「さらば佐久よ、愛しの人たちよ。また会う日まで!」と叫びたい心境だった。

この佐久遠征は、今日まで毎年続いている。
今年こそコロナ禍で取り止めたが、来年は我がブルーバッカスの結成40周年。そして再
来年は「佐久病院との交流試合40周年」を迎える。
この間、佐久病院長は、若月氏、松島氏、清水氏、夏川氏、伊澤氏、そして現在の渡辺氏
と、6人の俊英に引き継がれてきた。
そして驚嘆することは、いつのとき誰の時にでも、「共に」という気持ちで私達を迎えて
くれたこと。佐久に行く、野球の試合をする、上下の関係もなく皆で酒を飲みながら歓談
する、そして別れる。これを毎年毎年繰り返してきた。だが、一度も「つまらなかった」
「もうやめよう」という気にならずに、今日まで来た。
私はこれを「偉大なるマンネリズム!」といって喜びを分かち合ってきた。

最近、人の一生の幸不幸は「良きご縁に恵まれるか、否かにかかっている」と、私は感じ
ています。73年間の人生で会得した信念です。

老人保健事業の担当係長になったこと。そこで土居補佐という懐の広い良き医系技官に恵
まれたこと。そこから生まれた佐久病院等とのご縁。
そのご縁が、また新たな良きご縁を生んでいく・・・。
佐久病院に限って振り返ると、40年間近いお付き合いの中で、私にとって野球の交流を
縦糸としたら、仕事が横糸となって価値ある生地を作りだしてきた気がしてならないので
す。
老人保健事業創成期に佐久病院の先駆的な健康管理事業に雛形を貰い、また、佐久病院の
モデル的な老人保健施設事業や、先見的な在宅ケアサービス事業(私は、介護保険制度の
検討が省内で始まった46歳の時、再度老人保健課の総括課長補佐として関わった)から、
これからの保健・医療・福祉のあり方に関する貴重な示唆を与えて貰ったと、痛感してい
るのです。

私は自分の性格を「センチメンタリスト」と思っています。
それが、なんと若月先生も同じことをおっしゃっていた。
「私は、歌なら美空ひばりの『悲しき口笛』なんか好きですね。
医療や医学に対する考え方にしても、私の場合は芝居をしたり詩をつくったりと(注・健
康講話を劇化、詩化したり)ロマンチックというか、センチメンタルなところが多い。
この年齢になってまだセンチメンタルというのは、ちょっと頭が変なのかな?(笑)」
こうしたことも共感できて、佐久に引き寄せられたのかもしれません。

さて、今回は長くなりました。
最後にもう一人、厚生労働省の医系技官について書きたいのですが、次回の最終回にでも。

それでは良い週末を。