医 系 技 官(5)
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1992年(平成4年)4月1日。44歳で迎えた春。 私はこの日、「公衆衛生局疾病対策課課長補佐」に人事異動した。 この課長補佐の任を2年間務めたのだが、新たな制度を行政主導で構築・推進していく業 務であり、いま振り返ってみても、大変だったが遣り甲斐と躍動感に満ちた毎日だった。 人事異動を繰り返すと、良い業務(職場)や嫌な業務(職場)というのが、いやおうなくわか ってくる。私が良かったと思える業務(職場)の基準は「国民のためになる仕事と思えるこ と。自分の考えを政策に反映できること。そしてそのために重要なのが、理解ある直属の 上司・幹部がいて、職場の雰囲気が良いこと」と私は考えている。 政策を企画し、それを提案し、予算要求や各種行政通知等で具現化していく。そうしたこ とを「任せたぞ。何かあったら言ってくれ」と広い度量で見守り助言してくれる上司、省 の幹部の存在。 役所でも民間でも、なかなかそうした上司や幹部はいないもの。 だが、当時の疾病対策課にはいた。 それが今回の話の主要になる、当時の課長だった医系技官の澤 宏紀氏と、その後任の岩 尾總一郎氏(以前にも述べました)。 私の担当業務は「骨髄移植(骨髄バンク)推進に関すること。がん対策に関すること」だ った。 骨髄移植とは、白血病や重症再生不良貧血症などの難治性血液疾患に対する有効な治療法 のこと(当時の記録では、急性白血病患者の6年生存率は、化学療法群が約10%に対し、 骨髄移植は約70%だった。現在は双方ともさらに向上しているはず)骨髄液(造血幹細胞) をドナー(骨髄液提供者)から採取し、患者に移植する治療法で、当時、日本でも血縁者 間の移植が行われるようになっていた。 (注・アメリカでは1979年に初の非血縁者間骨髄移植が行われ、1987年には全米 骨髄バンクが発足) しかし、骨髄移植において移植した骨髄がうまく機能するためには、患者の白血球の型 (HLA型・ヒト白血球型抗原。赤血球と違い、数万通りの組み合わせがある)と、ドナ ーの白血球の型を一致させる必要がある。 これが両者間で一致するのは、血縁者間(兄弟姉妹間)で4人に1人、非血縁者間では数 百人から数万人に1人の確率と言われていた。 少子社会化で兄弟の人数が少なくなっている現状では、血縁者間の一致は難しく、非血縁 者間の骨髄移植を推進することが重要な課題になっていた。 このためドナー希望者を国中から広く募り、HLA型を登録してもらい、必要時にそのデ ータに基づき患者へ骨髄を提供するシステム、いわゆる「骨髄バンク事業」の創設が、多 くの患者・家族、医療関係者、地方公共団体、ボランテイア団体などから要望されていた のだ。 そして、私が4月1日に着任する4か月前、平成3年12月下旬に「(財)骨髄移植推進 財団」が設立された。 この財団が「日本骨髄バンク」の中核となり、公的で公平で広域的な骨髄バンク事業を実 務的に推進していくこととなった。 この財団の理事長は、ドナー登録希望者の血液検査・データ管理などを行う日本赤十字社 (血液センター)の社長。そして副理事長(実務面の最高責任者)は、高久史麿氏(国立 国際医療センター総長。後に日本医学会会長等を歴任)だった。 この財団を指導・助成し、省内の関係部局、関係省庁、各関係民間団体や地方公共団体と の連携を図り、骨髄バンクの制度基盤を確立するのが、私の喫緊の任務だった。 そうした状況に入ったのだが、すぐに「これはうまくいく!」と確信が持てた。それは前 述したように、私の上司である澤課長と、財団副理事長の高久先生の存在だった。 医系技官は、省の内外に医療・研究・教育関係を含め、たくさんいる。 しかしこの3人のように、医学の専門性は当然のこととして、聡明で、前例にとらわれな い前向きな思考で、懐が広い性格の医系技官は、私は知らなかったし、今だかって知らな い。 私は異動してすぐに、あらゆるマスコミ・広報媒体を駆使しての広報活動に着手し、財団 の各委員会の設置・強化を図った。 骨髄バンク事業の総括的議論をする企画管理委員会、国民に骨髄バンクの意義を広め、ド ナー登録を呼びかける普及広報委員会、そして患者とドナーの公平・適正なコーデイネー ト、マッチング業務など、骨髄採取・移植に関する調整を行う中央調整委員会。 それぞれが頻繁に開催された。 財団職員が事務局となり、各委員は全員がボランテイアとして参画し、殆どが臨床医やボ ランテイア団体の代表などだった。 私は企画管理委員会と普及広報委員会には必ず出席した。 前者の委員長は高久先生。後者は血液内科の第一人者である森真由美氏。 お二人の物事の飲み込みと決断は早く、私も快調だった。 こうして国の主導のもとに、財団を拠点とし、日本赤十字社、全国の骨髄採取・移植病院、 骨髄移植医、地方公共団体、そして骨髄バンク推進のための活動を行うボランテイア団体 (全国骨髄バンク推進連絡協議会)等の協力を得ながら、我が国初の「公的骨髄バンク」 (民間では名古屋などで先駆的に実施されていた)が、いよいよ本格的に始まった。 主な懸案事項は。 @ ドナー登録の促進(当面5年間で10万人を目標) 例えば財団では。ポスター、パンフ レット、ビデオテープ、ニュースレターの作成・配付。全国大会・シンポジウムの開 催。フリーダイヤルの相談窓口の設置。ボランテイア団体との連携によるイべントの 実施等。 国では、全国主管課長会議の開催。文部省・都道府県・政令市・経団連・業界団体に 対する協力依頼通知。政府広報・公共広告機構の活用。RKB毎日放送を中心とした 全国ネットワークによるキャンペーンの展開を依頼。公益補助金の活用(財団を推薦)。 骨髄バンク推進月間の制定等を実施した。 A ドナーに係る負担軽減の実施 例えば、全国67の骨髄データセンター(血液センター)の登録受付業務の整備及びこ れへの検査費等の国庫補助。 そして、ドナーの登録・検査・採取入院にかかるドナー休暇制度の創設。 B 骨髄移植に関する調査研究の実施 「厚生科学研究費使用」 C コーディネート活動の円滑な推進 「コーデイネーターの増員及び負担軽減」 D データバンク事業の円滑な推進 「中央及び地方骨髄データセンターの業務体制の整備。検査費用・人件費の国庫補助」 E 骨髄移植・採取医療機関への援助 「診療報酬改定。無菌室加算1日1000点→2500点へ」 F 骨髄移植(採取)センターの設置 「骨髄移植対策専門委員会で具体的案を検討」 G 国際協力事業の推進 「財団において作成した国際協力事業実施要領を、諸外国の骨髄バンクに公表し、患 者登録等の国際協力を推進」 (以上は、思い出せた当時の事項だが、誤謬もあると思うのでご容赦を) 私はすぐにマスコミの取材を連日のように受けた。 それは在任中のほぼ2年間続いた。 テレビはNHKをはじめ、日本テレビ・TBS・フジ・テレビ朝日のほか、よみうりテレ ビ、RKB毎日放送など。 全国紙は全紙。中には中日新聞の1面を割いての座談会などもあった。 各地で開催される講演会やシンポジウムには数十回ほど出席した。 王貞治氏や柔道の山下氏の無償のご協力で、両氏にモデルになっていただいたポスターを 大量に作成・配付したりもした。 これで一番問題なのは掲示場所だった。 本省は、すぐに都道府県・政令市・所管団体にポスターやパンフレットを直送するが、現 場では本庁や保健所の玄関に掲示をするぐらいで、あとは「積んどく」が現状。 そこで、私は郵政省の人事課に行き、係長研修で一緒だった総括補佐に全国の郵便局で掲 示してくれるよう依頼。すると、当時は業務以外の一切のポスターは掲示しないのが前例 であったが、この「命の贈り物」「かっ飛ばせ、愛のホームラン」のポスターは、特例と して引きうけてくれた。 これは大きかった。そして評判になった。 また、電通関西支社長・常務取締役となった内海氏の尽力で、関西系のテレビが骨髄バン クの公共キャンペーンを展開したのが大きかった。その後、公共広告機構(現在のACジ ャパン)でしばしば取り上げられ、テレビやラジオやポスターなどで広報されるようにな った。 先月も、私の地元の三軒茶屋駅で、「あなたたちのサポートがあったからこそ、僕は再び この場所に戻ってこれた」という、Jリーグの選手が映った骨髄バンクのポスターが貼ら れていた。ACジャパンだった。 これから骨髄バンクの話に深入りすると、長文に及んでしまうので、最後の章に入ります。 骨髄バンク推進業務にかかわっている間の出来事で、忘れられないことが幾つかあるが、 その中の2点。 一つは、4月の課長補佐就任間もない8月のこと。 まだ、公的骨髄バンクによる移植が始まっていない時だったが、双子の兄弟間の骨髄移植 による死亡事故が日経の朝刊で報道された。 ドナーが死亡したのだ。 兄のドナーが患者の弟への骨髄液を採取中、麻酔事故で意識不明に。 このことは報道の2年前に起こっていたが、就任当時の私は、全く寝耳に水だった。事実 を知ったのは、着任してすぐに兄弟のご両親が上京し、担当補佐の私が対応して初めて知 って驚いた。 そこでご両親と共にすぐに、入院先の都立病院へ見舞いに伺った。 集中治療室で意識のない35歳の男性が眠っていた。 私は額に手を置きながら、祈るように数分間黙想した。すると、一瞬、足がピクッと動い た。だが反応はそれまでだった。 この2年前の事故は、待望の骨髄バンク創設の機運が盛り上がっていた時だったから、省 内のほんの数人以外に極秘だったのだ。 私が4月に異動した時、課長は澤氏の前任者で、6月の幹部異動で澤氏と交代していた。 私は知らされていなかったので、少しショックだった。記者クラブは暗黙の了承事項で、 事故後からこの8月までの間、報道を控えていたようだ。 だが、日経はドナーの死亡を契機に報道した。 すると、各社は後追い報道に。 私は、澤課長からの電話で朝一番に登庁し、ドナーの死亡事故の件をまとめ、その日の記 者クラブでの会見に医系技官補佐と共に出た。 確か、死因は「不可逆的無酸素脳症」だったと記憶。 私は、東京海上火災から手弁当で出向していた財団の事務局長に電話し、今後のマスコミ や国会の質問に対しては、 「直接には公的骨髄バンクと無関係の事故だったが、社会的・道義的な責任の重さを認識 し、これからの骨髄バンク事業をドナーの安全確保を第一に、多くの血液難病患者さんや 国民の負託に答えられるよう、適切に進めてまいりたい」と回答する旨を伝えた。 そして、東京都に出向き、担当課長と会い、弔慰金でも何でも名目は都の方針で結構だが、 1億円を手向けとしていただけないか、と依頼してきた。後日、都はその通りに計らって くれた。 同時に、財団のドナー賠償保険の限度額を、5000万円から1億円に改定するように指 示し、即刻印刷物を訂正した。 こうした対応は、澤課長に事前に伝え、「わかった。まかせる」と即答してくれていた。 これが他の課長だったら、右往左往で決断を伸ばし、あちこちに相談し、結局、状況を複 雑にしてご遺族の怒り(「国は医療事故を隠蔽して、骨髄移植は安全だと広報している。 厚生大臣に直訴する」と老親は悲嘆していた)は倍加して、不幸を増殖させる結果になっ たと断言できる。 後日、老いた父親とその友人(某会社社長)と私とで、某社長の馴染みの銀座のバーで、 しみじみと酒を酌み交わしながら亡き御霊を弔った。 それがご遺族に対してできる、私のせめてもの道義的責任の様な気がしていた。 もう1点。 1993年(平成5年) この1月には、公的骨髄バンクによる初の骨髄移植が行われ、ドナー登録数も累計2万人 ほどになっていた。 そこで懸案の「ドナー休暇」の普及に着手。 ドナー希望者の登録・検査及び採取入院に要する日数時間を、特別休暇とするよう各方面 に協力依頼した。 国家公務員は人事院に、地方公務員は都道府県知事に、そして民間企業は経団連へと出向 いたり、局長通知を発出したりした。 だが、人事院は「民間で普及してから」と、経団連は「役所で導入してから」と。さらに 都道府県への通知を知った自治省は「厚生省の通知は無視するように」という追い通知を 出し、官庁通信の霞が関新聞には、「厚生省は霞が関のルールをご存じないのでは?」と 冷笑するような記事を載せていた。 何のことはない。「こうした地方公務員に関することは、事前に自治省に協議するのが筋 だ」ということ。 私はすぐに担当課に行き、「これは医療に関する事業の普及を図るための協力依頼文書。 地方公務員の休暇制度は自治省が指導するのは承知。私共は導入について検討されるよう 協力していただきたいと依頼しているのだ。所管業務のあれこれの通知を、いちいち事前 協議する必要はない」と説明。 職場に戻り、岩尾課長に報告。「官房長や局長からも、大丈夫か?と聞かれたが、大丈夫 です。問題はない。自治省が上から目線で言っているだけですと、答えといた」と言い、 「この問題を記者クラブに・・・。いや一社単独にしよう」と自問自答しながら、電話を された。 課長席に来たのは当時の記者クラブの幹事社である、朝日新聞のT記者。 私が「国は民間準拠といい、民間は役所が導入すればといい、都道府県は国がやればと。 みな様子見。私はこうしたボランテイアで行う崇高なドナーの行為は、まず、国でやるべ きだ。人事院は賃金引き上げは民間準拠、公務員は先憂後楽と言っているが、このドナー 特別休暇は公務員こそが率先垂範すべきだ。民間準拠ではない」と、課長には自論を述べ ていた。 次の日の新聞1面に、黒い大きな見出しの活字がすぐに目に飛び込んだ。「自治省、厚生 省の通知に横やり」 それから各新聞が後追い記事を続々と出した。 毎日新聞は社会面の1面を使い、ことの詳細と私のコメントを掲載していた。参議院議員 のコロンビア・トップ氏が、強く自治省を批判していた。全ての新聞が厚生省に好意的な 記事だった。 それから、何人もの国会議員からレクを依頼され、議員会館に足を運んだ。するとほどな く通常国会の予算委員会や社会労働委員会で、この問題が取り上げられた。時には骨髄バ ンク関係全般で70問ほどの質問通告があった。そうした時は、私は一人で役所の罫紙に 一問一答を流し書きし、係長と係員にワープロで答弁を書かせた。 みな、応援質問の様でやりやすかった。 そして岩尾課長にあげ、局の法令補佐をクリアして、局長に報告した。 夕方から始めた答弁書作成は、午後10時過ぎには終了した。 これも上司の岩尾課長の判断が早かったから可能なことだった。 凡課長だと、あれやこれやの無駄な資料作りで徹夜になっていただろう。 大臣と局長の出席要求だったが、大臣には委員会の始まる前に政府委員室でレクし、社労 委の時は、私がそばで答弁出しをしていた。 でも、どの議員も自治大臣や人事院総裁に対する厳しい叱責で、結局、自治大臣は深謝し、 人事院総裁は「早急に検討する」旨を答弁した。 そして、人事院は驚くほどの早さで、特別休暇にドナー休暇を加える「人事院規則(職員 の勤務時間、休日及び休暇)の一部改正」を行い、3か月弱後の4月1日に施行した。 そしてその日、私は再び老人保健課の補佐に異動した。 後年、澤氏が三重県にある医療福祉大学学長をされている時、東京検疫所次長だった私を 訪ねて上京された。そこで三重県厚生農業協同組合連合会(三重県厚生連)の常務理事にな ってほしいと、頼まれた。 その後、理事長やJAのお偉方も逐次上京して私に会いに来た。 結局、翌春、私は厚労省を退職し、三重に単身赴任した。 三重県は家内の出身地であり、義父は三重大学医学部の教授をしていたことが大きかった。 その義父は私が赴任する1週間前、93歳で永眠した。 三重厚生連は、7つの病院を抱える三重県内最大の医療団体だった。 その傘下病院の雌雄であり、地域の基幹病院である松阪中央総合病院の院長と鈴鹿中央総 合病院の院長は、三重大学出身であることを知った。 そして、義父に教わったと言われたので、驚いた。 澤氏も三重大学の卒業だったので、三重県厚生連とのつながりも深かったのだ。 リウマチ財団を設立認可した際、何度も厚生省に足を運んだのが、同じ三重大学出身の西 岡久寿樹・東京女子医大教授だった。 その西岡氏は今や難病治療の名医として名をはせているが、私に会うたび、「澤は元気で すか?」と尋ねられていた。 その私のかっての上司だった医系技官・澤 宏紀氏は、今年9月1日に御逝去された。 日本骨髄バンクの今年9月末現在のドナー登録者数は約84万人。 移植例数は約25000例に達した。 行雲流水。過ぎゆく時を振り返ると、人生の因縁の不思議をしみじみと感じる今日この頃 なのです。 それでは良い週末を。 |