東井朝仁 随想録
「良い週末を」

ファイト(7)
(前回からの続きです)

日常生活の中で「歌・Song」に興味と喜びを感じはじめてきたのは、やはり高校時代だ
っただろう。
それまでは「春の小川」「浜辺の歌」「荒城の月」などの小学校唱歌を音楽の時間に歌
ったり、木琴でそれぞれ演奏したりしたのが、唯一、歌に触れる機会だった。が、授業
の枠をはみ出すほどの興味は生まれなかった。
高校卒業頃までは家(高校では寄宿舎)にテレビが無かったので、プロの歌はもっぱら
家の茶の間のラジオから流れてくる歌を聴いていた。
例えば、美空ひばりの「港町十三番地」や、島倉千代子の「東京だよ、お母さん」とか、
三橋美智也の「哀愁列車」や春日八郎の「赤いランプの終列車」などの歌謡曲。あるい
は灰田勝彦の「鈴懸の径」や、高英雄の「雪の降る街を」などの洋楽っぽい歌を、聴く
とはなしに聴いていた。
(当時は、どの歌も大人向けのものだったので、私が小学校低学年の頃、春日八郎のヒ
ット曲「お富さん」の一節を繰り返し口ずさんでいたら、母から「そんな大人の歌は、
歌わないの」とたしなめられたりした)
当時のどの歌も、日本社会が敗戦後の混乱期から脱して立ち直ってきた時代の匂いを、
具体的には国民の敗戦後の悲惨な思いや、日々の極貧生活の辛さや将来への不安を、少
しでも払拭して心に憩いを与えるような歌が多かった。そして庶民の多くが、ラジオか
ら茶の間や街角に流れる歌謡曲に耳を傾け、何とか生きる希望を頭に描きながら生きて
いたように、子供心には思えた。
NHKラジオの、毎日12時15分からの「昼の憩い」の時間では、各地の街や農山村
の住民からのお便りコーナーがあり、「いつも、ひばりさんの歌に励まされていますと
いう、岩手県の農家の17歳の女性・Aさんからのリクエスト。美空ひばりさんの「あ
の丘超えて」をおおくりします。Aさん、風邪に気をつけて頑張ってくださいね」など
と、明瞭で柔らかなアナウンサーの声の後に歌がかかり、明るい日差しを浴びながら、
縁側の前の庭で洗濯物を干している母の耳元にも、昼の憩いの歌が流れていた。
こうした日常の中に流れる歌を幼いころから聴いていたが、いつもどの歌にも、どこか
はかない、センチメンタルな雰囲気を秘めていたように感じた。

それが、日本の歌謡曲も、私の高校時代・東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年
からの3年間(1963年〜1966年)のうちに、劇的に変化した。
橋幸夫が股旅物「潮来笠」で、舟木一夫が学園物「高校三年生」で、そして西郷輝彦が
高校生の初恋物「君だけを」を歌い、次々に歌謡界にデビュー。
今までになかった十代の若い歌手の「青春歌謡」の出現は衝撃的で、、爆発的な人気を
博した。まさに「戦後は終わった」と多くの庶民が古い衣を脱ぎ捨て、新しい星の輝き
を待望していた感があった。その3人が出す歌は次々と大ヒット。当時のテレビの普及
と共に、元祖「御三家」は日本中を席巻する圧倒的なスターとなっていった。まさに、
東京オリンピックから6年後の大阪万博に至る、「日本の高度経済成長のあけぼの」の
象徴、新たな若者文化の創造であったと思う。
そして、青春歌謡で火がついた歌の世界は、昭和40年代に入って、さらにグループサ
ウンド、ムード歌謡、フォークやロックなどのニュー・ミュージックの台頭へと発展・
拡散していくのだ。
私は音楽評論家でもなく、社会評論家でもない。
だが、「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるが、まさに御三家は時代の寵
児であり、彼らの歌は、またそれに応えて日本中の人々の心を揺さぶり、社会の雰囲気
を変えていった。彼らの歌だけではなく、当時の歌はどれもが、人々の心に響き、人々
の行動変容にも何がしかの影響を与えていた、と断言できる。
今の時代、いわゆるJ・ポップ(日本の歌の全てのジャンルの総称?)を見渡して、世
の中の多くの人々の心を揺さぶる歌、世の中に影響を与える歌が、果たして生まれてい
るのだろうか。
歌は世につれて多様化・衰退し、世は「歌などに」全く影響されずに流れている状況が
続いている。そう痛感する昨今。

話がすこしそれて。
私が高校時代に歌に目覚めたのは、前述のように主に御三家の歌が主因だが、一方では、
当時「ポピュラー」と呼んでいた外国でヒットしていた歌も、良く聴いていた。
例えば、パテイ・ペイジの「テネシーワルツ」、ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」、
アンデイ・ウイリアムスの「ダニー・ボーイ」、ポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」、
コニーフランシスの「ボーイ・ハント」、カスケーズの「悲しき雨音」、トニー・ベネ
ットの「想い出のサンフランシスコ」等。
現在と比べて、あの1960年代は、欧米のポップスにおいても、とてもヒット曲の多
い、古き良き時代に思えてくる。
当時は英字の歌詞も何もなく、ラジオからイヤホーンで流れてくるメロデイーと、「月
間平凡」や「明星」という芸能雑誌に、わずかに紹介されている程度だった。それでも
欧米のミュージシャンによる歌や演奏を、その頃一般化してきたネスカフェのインスタ
ントコーヒーを飲みながら、寄宿舎の部屋の小さな机の前で聴いていると、明朗快活な
アメリカのイカス若者文化を想像して、胸をときめかせるのだった。
だがもうだいぶ前から、洒落たロマンチックな欧米のポップスは耳にしなくなった。そ
れは私が、テレビからもラジオからも縁遠くなってしまったからなのか、それとも当時
のアメリカのポップスの世界が、ベトナム戦争等による時代変化と共に全く変容してし
まったからなのか、わからない。
名曲・ヒット曲は知る人ぞ知る(当たり前)だろうが、私は知らない。
今はやりの「ダイバーシテイ」ではないが、世界の人々の多様化が進み、歌の世界も多
様化・分散化し、社会は分断化して、ミリオンセラーなどは出なくなったのだろう。
いずれにしろ、あの頃の日本の歌もアメリカのポップスも良かった。
あの多情多感な青春期に、素敵な歌の数々に触れることが出来たのは、とても幸運だっ
た。まさに一度しかない人生における貴重な青春の日々に、常に寄り添って慰め励まし、
勇気と夢を与え続けてくれたのだ。

そして、このエッセイの主題「ファイト」の最終章。

現在、スマホに入れてある歌の数は約300曲。
これらの歌は、文字通り歌詞のある私の好きな歌。
したがって、クラッシックやジャズや歌詞のない歌の演奏曲は入っておらず。
音楽のジャンルは、歌謡曲やフォークやニューミュージック(?)やロック、あるいは
ポピュラー・ソングとかポップなどと、人によって分類表現は様々。好みも様々。音楽
(ミュージック)を分類すると100以上になるといわれている(国や人によって、定
義も数も様々)。ロック歌手で有名なのはエルヴィス・プレスリーとかビートルズ。し
かし、亡き内田裕也氏などは、いつも「ロックン・ロール!」と叫んでいたが、この言
葉も私はどの様なジャンルを言っているのか、良くわからないが。
そうした中、私の好きな歌は単純明快。
ジャンルを問わず、感情が少しでも移入できる歌(心が動かされる歌)。
したがって、聴いて心地良いメロデイ(曲)も重要だが、歌詞がさらに重要。良い歌詞は
聴く人の心を揺り動かす。「想い」を喚起させてくれる。
想いは過去への懐かしい追憶であり、現在と将来に向かっての自由な想像と夢想。まさ
に心の世界。心の旅の世界。
人への思慕、親しみ、共鳴、感謝につながり、自己の肯定、慰撫、叱咤、発奮、自信、
喜びを生み出す。そしてそれらの全てが歌を聴く「時と状況」によって、様々に取捨選
択され変容して心に働きかけてくるのだ。
だから、聴きたい歌もその時と状況によって、千差万別。
歌は様々な想いを湧出する心の源泉。
特に、年を重ねて、過去の思い出が溢れるほど溜まっている今、歌を聴きながら想いに
耽るのは、何事にも代え難い至福の時間。
ということで、現時点で、思いつくままに好きな歌を抜粋し、感覚的に分類して列挙す
ると、次の通り(カッコ内は歌手名)

(1) 若い頃を思い出すとき
   ・江梨子(橋幸夫)
   ・水色の人(舟木一夫)
   ・涙になりたい(西郷輝彦)
   ・乙女のワルツ(伊藤咲子)
   ・岬めぐり(山本コータロー)
   ・狂った果実(石原裕次郎)
   ・風(はしだのりひことシューベルツ)
   ・見上げてごらん夜の星を(坂本九)
   ・なごり雪(イルカ)
   ・いつまでもいつまでも(ザ・サページ)
   ・バラ色の雲(ヴィレッジ・シンガーズ)
   ・虹子の夢(吉永小百合)
   ・卒業写真(荒井由実)
   ・さらば青春の時(アリス)
   ・サルビアの花(もとまろ)
   ・路地裏の少年(浜田省吾)

(2) 人生を見つめるとき
   ・糸(中島みゆき)
   ・桜(森山直太朗)
   ・時間よとまれ(矢沢永吉)
   ・夜明けの歌(岸洋子)
   ・遠い世界に(五つの赤い風船)
   ・ひこうき雲(荒井由実)
   ・戦争は知らない(はしだのりひことウイークエンド)
   ・ここに幸あり(大津美子)
   ・里の秋(はいだしょうこ)
   ・みかんの花咲く丘(川田正子)
   ・ささやかなこの人生(風)
   ・まにあうかもしれない(吉田拓郎)
   ・人生が二度あれば(井上陽水)
   ・あなたに逢えてよかった(城南海)

(3) 人を想うとき
   ・東京ブルース(西田佐知子)
   ・精霊流し(グレープ)
   ・古都逍遥(都はるみ)
   ・さよなら(オフコース)
   ・ルビーの指輪(寺尾聡)
   ・あなたの心に(中山千夏)
   ・めぐり逢い(荒木一郎)
   ・忘れないさ(北原謙二)
   ・木綿のハンカチーフ(太田裕美)
   ・二人の世界(石原裕次郎)
   ・そっとおやすみ(布施明)
   ・白いブランコ(ビリーバンバン)
   ・たそがれの人(舟木一夫)
   ・サボテンの花(チューリップ)
   ・君待てども(フランク永井)
   ・再会(松尾和子)
   ・喝采(ちあきなおみ)
   ・また逢う日まで(尾崎紀世彦)
   ・この広い野原いっぱい(森山良子)

(4) カラオケで歌うとき
   ・五月のバラ(塚田三喜夫)
   ・千年の古都(都はるみ)
   ・硝子のジョニー(アイ・ジョージ)
   ・細雪(五木ひろし)
   ・逢わずに愛して(前川清)
   ・大阪で生まれた女(ボロ)
   ・故郷の話をしよう(北原謙二)
   ・悲しみは雪のように(浜田省吾)
   ・ギターを持った渡り鳥(小林旭)

(5) 気持を前向きにするとき
   ・人生一路(美空ひばり)
   ・元気です(吉田拓郎)
   ・乙女座宮(山口百恵)
   ・旅人よ(加山雄三)
   ・寒い朝(吉永小百合)
   ・若者たち(ザ・ブロードサイド・フォー)
   ・時代(中島みゆき)
   ・夢をあきらめないで(岡村孝子)
   ・昴(谷村新司)
   ・熱き心に(小林旭)
   ・希望の轍(サザンオールスターズ)
   ・HERO(甲斐バンド)
   ・時代おくれ(河島英五)
   ・今日の日はさようなら(森山良子)
   ・ファイト(中島みゆき)

以上です。
300曲の全てが好きな歌であることは当然ですが、これらの一曲一曲のすべてが趣を
異にし、一つとして同じ想い出はない。
様々。それでいて、聴くだけ、歌うだけで、その歌にまつわる人や出来事などが鮮やか
に蘇ります。

例えば、「今日の日はさようなら」を聴くと。
1972年の夏。私が24歳の時。
山中湖畔で開催された「平和友好祭」という全国の労働組合の青年部が集まってキャン
プを張り、友好を深めるイヴェントに、私は厚生省労組青年部の実行委員長として、青
年組合員らと参加した。昼の行事が終わり、夜になると、ロッジの前で焚火を囲みなが
ら討論したり歌を歌ったりしていた。その中で、ふっと急逝した2歳年上のSさん(組
合の活動家だった)のことを想い出した。
そこで私は、「Sさんに誘われて、初めて、新宿の洋風居酒屋兼歌声喫茶「どん底」に
行って飲み明かした」話などをした。
その場の仲間の輪に、彼の奥さんも参加していたのだ。
彼は、職場では思想信条を抜きにして、常に親しく私に声をかけてくれ、いろいろな話
を交わした。バレーボール部で共にプレイもしていた。その彼が、良き彼女と結婚して
ほどなく、劇症肝炎で夭折してしまった。確か若干25歳だった。
その彼の話が途絶えて皆が沈黙した時、私は彼のために歌を歌おうと提案し、夜更けの
かがり火の前で、皆で静かに合唱した。
それは当時、フォークの女王と呼ばれた森山良子の「今日の日はさようなら」だった。
「♪いつまでも絶えることなく 友だちでいよう・・・。
 信じあう喜びを 大切にしよう・・・・
 今日の日はさようなら また会う日まで・・」
歌声はやすらかに、草木の匂う夜風に流されて、漆黒の闇に消えていったが、私は歌の
途中で何度か絶句してしまった。

後日、奥様から手紙が来た。
「お元気で活躍のことと思います。
 友好祭から帰ったあと、貴方に手紙を書いたのですが、
 出さずに今日まで来てしまいました。
 あの時、とても嬉しかったんです。
 いつまでも死んだ友を忘れない、皆さんの心が。
 そして、夜中まで話し合いました。
 いえ、話し合いを聞いているだけだったんです。
 でもそれだけで、みんなの心に触れ合う思いがして・・・。
 友好祭から帰ってみると、自分の気持に変化が起きました。
 すごくやわらかく、あたたかくなったように思えました。
 彼の好きだった歌に、信じあう喜びを・・・というのが
 ありますが、そんな歌詞が実感として、せまりました。
 私の心に積もっていた雪を溶かしてくれたのは、あなた
 がた友人の、あたたかい心だと思います。
 それで、感謝をしたく思いました。
 だから、長い手紙を書いてしまったんです。
 どうぞ、御身体には気をつけて、頑張ってください」

前述の好きな歌を列挙した最後に、中島みゆきの「ファイト」があります。
この長々としたエッセイも、もしかしたらこの歌の詩の、この一節を知ってもらいたか
ったのかも、知れません。
自分に言いきかせるためにも。
「♪ファイト!闘う君の歌を
 闘わない奴らが笑うだろう
 ファイト!冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ・・・ファイト!」

それでは良い週末を。