東井朝仁 随想録
「良い週末を」

うららかな午後に
今日(3月24日)は朝から、見事な快晴。
私は、雲一つない青空を見上げながら「こんな日はゴルフか野球には絶好の天気なん
だが」と思った。
野球は小学生の頃から長年やってきたスポーツ。特に厚生労働省時代は、本省の野球
クラブの監督兼選手としてプレイをしていた。
また、30歳から始めたゴルフは、数年前まで月に2〜3回はコースに出ていた。
だから、今日のような爽快な天気に恵まれた時は、反射的に前述の様に心がはやって
しまうのだろう。

野球は60歳で監督(厚生本省と三重県厚生連本部のチーム通算で、実質25年間)
を辞任し、その後は東京都主催の毎年春と秋に行われる還暦野球大会(1部〜9部・
都内の約70チーム)に、千代田区チームの選手として出場していた。それぞれの季
に各部ごとのリーグ戦で5試合ほどプレイしていた。
ゴルフは春秋のコンペを中心に、私が会員である2か所のゴルフクラブを主として、
色々な仲間とプレイしていた。
だが、今から5年前の秋に、野球もゴルフも中断した。
69歳の誕生日を迎えてから2週間ほどたった日。自宅でトイレへ行こうと立ち上が
った瞬間に、ギックリ腰を起こしてしまったのだ。
それまでも、バレーボール部の練習中や野球の合宿でギックリ腰(腰椎椎間板ヘルニ
ア)を3回起こしていたが、今回のは厳しかった。
近くの病院での診断結果は「脊柱管狭窄症と椎間板ヘルニア」。
高齢になって腰部のCTを撮ると、誰もが少なからず脊柱管狭窄を呈しているとのこ
と。それが痛いと「狭窄症」となる。
私の場合、痛みはもっぱらヘルニアが主因と判断。
発症してから2週間ほどは、10mほど歩くたびに腰や足の痛みで立ち止まる間欠的
跛行を余儀なくされた。それでも過日このエッセイでも述べた通り、毎日「自己治療」
に励んでいると、1か月で長距離歩行も楽になり、やがて速歩も可能になった。そし
て1年後の診断で完治(整形外科医の病院院長の診断)に至った。
院長は「痛くなければ、ゴルフはプレイしてもいいですよ」と至極真っ当な意見をく
れた。
だが、それから今日まで、野球やゴルフは封印したまま。
ギックリ腰を起こす数日前の還暦野球の試合では、サードの守備をこなし、2塁打を
含む2安打と、攻守ともに好調だった。その2週間前のサンキュー杯と名を打った長
年恒例のゴルフ・コンペでは準優勝し、打ち上げで皆と遅くまで飲んで騒いで、「野
球もゴルフも、これからだ!」と、意気軒高だったのだが。
その頃が身体活動のピークだったのか、加齢に伴い肉体の衰退・疲労が顕在化してき
たのか?わからない。
「そろそろ再開するか・・」とも考えるのだが、踏ん切りがつかない。「もう年だか
ら・・・」とは思わないが。
でも、もう少し若かった頃なら、若い頃読んだ作家・大江健三郎の「見る前に跳べ」
の題名の如く、とっくに跳んでいただろうが。
そういえば、この題名に触発されて、当時の私も「考えるより試せ、責めるよりも許
せ」などというフレーズを自作し、自己の行動指針とまではいえないが、自己への戒
めとしていた季節があった。
即行動に移せるのが、若さの特権だ。

朝食後に、そんなことを考えながら駒沢公園を速歩でウオーキングした。ほぼ満開の
桜があちらこちらに咲き誇っていて、すがすがしかった。
私の横を、しなやかな肉体の若い連中が、颯爽と走りぬけていく。
その後姿を眺めている時に、ふっと「俺も速歩から軽いジョギングにかえてみようか」
という気に襲われた。
それは最近、微かな身体的自信が湧いてきたからだった。

朝夕のルーチンとなっている「身体全体のストレッチ、腹筋と背筋トレ、腕立て伏せ、
スクワット、ダンベルでの筋肉トレ」。
これを、この3年間ずっと励行してきた。やらないと一日中身体が重い感じがする。
だから、今は身体が軽い。
駅の階段では列を作ってエスカレーターに乗る気はしない。さっさと長い階段を二段
飛びで上がっていくのが、今の常識に。

駒沢公園は、平日の午前中なので人の数も少なく、園内の桜も七分咲の樹が多かった。
桜の樹は、かっては地面に届くほど垂れる見事な枝を誇示していたが、今やバッサリ
切り落とされてしまっていたので、これから満開になっても、息を飲むほどの爛漫さ
は期待できない。
それでも、桜が咲く風情は捨てがたい。
それにしても最近は、都内の至る所で年季のいった見事な桜やイチョウやケヤキの樹
が、ことごとく無残に切り倒されたり、太い枝を切り落とされて丸坊主にされている。
行政の予算削減や近隣住民の苦情(一人でもうるさい人がいると、行政が譲歩する可
能性大)などがあるのだろうが、昔のように、街路の並木や公園の木々の美しい緑や
紅葉は、最早望むべくもない。
それに代わって、私が住む地域周辺では、古い店舗や住宅が次々に解体され、その猫
の額の様な狭い跡地に、11階建てなどの店舗兼共同住宅の高層ビル建設が、随所で
進んでいる。
庭木が綺麗で風趣豊かだった二階建ての個人住宅も、いつの間にか解体され、そこに
全く同じ形をした3階建てのマッチ箱の様な建物が3軒建てられたり。庭も塀もなく、
一様にあるのは半地下のむき出しの車庫。玄関のドアを開けたら、そこは車が行きか
う道路。
全く、緑も情緒も無くなってきた。
これが戦後の日本資本主義の終末期における、山の手の風景なのだろうか。

この駒沢公園に近い、世田谷区上馬に引っ越してきたのは、今から丁度30年前の春。
私が43歳の時。
日本のバブル経済がはじけ始めた、平成2年。
日本社会と同様に、私も人生における心身が最も高揚していた時期の、ピークだった
のかも知れない。
それでは、そのピークは何歳ごろまで持続できるものだろうか。
私は「50歳」だと思う。
30歳までは学び教えられながらの成長期、30歳から50歳までが心身共に活躍で
きる活性期、50歳から70歳までは、まさに実りの円熟期、70歳以上は今まで培
った知識や経験や金銭の蓄えをもとに、自らの人生を悔いなく完結させ、自己の楽し
みを満喫するとともに、他人を喜ばせることを生き甲斐とするような、安寧期。

私は、駒沢公園から三軒茶屋駅に向かい、創業55年を過ぎた昭和の喫茶店「セブン」
で、珈琲とナポリタン(スパゲテイ)のランチをとった。
ここのランチは、たっぷりの生野菜サラダとゆで卵、腰のあるスパゲテイとタマネギ
やピーマンやマッシュルームやベーコンが、まったりしたケチャップにからみあった
ナポリタン。
珈琲はサイホンごと出してくれて、たっぷり2杯は飲める(どうも、長年の馴染み客
である私だけの様な気がする)
これで税込み1100円。
BGMはマントバーニー楽団や昭和歌謡のメロデイーが流れ、週刊誌は4誌(現代・
ポスト・文春・新潮)を中心に新聞・雑誌が置いてある。
こうした店がまだ近辺に残っていることは、私にとって幸せ。
しかし、以前からあった馴染みの本屋や写真屋などは消滅していった。勿論2館あっ
た映画館、下駄を突っかけて行けた周囲に4軒あった銭湯も、今や全て廃業。酒屋も蕎
麦屋も寿司屋も中華店も金物屋も床屋も、ことごとく無くなってしまった。
私は2杯目の珈琲を飲みながら、週刊誌を斜め読みした。
そこに書いてある一節が目にとまった。
「コロナと格差社会」という主題の鼎談。
「自由主義と民主主義の行く着く果てが、こんなに酷い現実だったなんて」という見
出し。
鼎談のごく一部を抜粋すると。

「ミクロでは、痛みや苦しみを誰とも共有できず、グローバル企業のやりたい放題に
振り回される個人が増えている。
一方、マクロで見ると、国家間競争が激化し、日本の地位も相対的に下がってゆく。
この20年ほどで、一気に人心が荒廃してしまった背景には、その両方が加速してい
ったことがあったと思います」
「近年は、矛盾だらけの資本主義を限界まで拡大させて、自壊を早める、という加速
主義と呼ばれる考え方すら出てきていますが、それは大戦争の様な破局をもたらして
しまうかもしれない。現に、現在の格差は世界恐慌並みの水準に達しています。20
世紀にその格差を平等化したのは、戦争だったわけです」
「『とにかく生産性を上げて競争に勝つのだ』という発想を見直し、競争を制約して、
本当に次の世代に残すべきものは何かを立ち止まって考えない事には、この残酷な時
代を生き抜くことはできないでしょう」

私は「セブン」を出ると、三茶のシンボル・キャロットタワーに向かった。そこにこ
の街で唯一の本屋とDVDレンタルショップがあるからだ。
外は、コロナも政治も経済も米中対立も全く関係ないような庶民で溢れ、私もその静
かなマスクの群れの中に入って行った。
太陽は、清冽なほど青い天空で輝き、路側の街路樹の根元近くに、
黄色い小さなレンギョウの花が人知れず微笑んでいた。
私は、かすかに胸の内に漂っていた暗愁の気分が、一瞬にして霧消していく快感に、
思わず両手を上げて天を仰いだ。
うららかな午後だった。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。