続・うららかな午後に
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三軒茶屋駅直結のキャロットタワーは、店舗・事務所・劇場などが入っている地上27 階建ての高層複合ビル。 私は、エスカレーターで2階にある「TSUTAYA」に行った。 フロアの右サイドは、夥しい数のDVDやCDそれにコミック本のレンタルと、使い勝 手の良さそうな文房具類販売のエリア。 左サイドは、これも広いフロアに多種済々の書籍が陳列されている大型書籍販売エリア。 私はまず、右に入る。 左だとついつい新刊本などを手当たり次第に斜め読みしてしまい、時間がかかってしま うから。右は10分程度で終わる。 各コーナーを回り、目にとまったDVDを取り出す。そしてジャケットに簡潔明瞭に記 してある出演者名とあらすじのコピーを読む。これで大体、作品のイメージがつかめる。 DVD映画は、洋画・邦画・韓国系・アニメのコーナーに分かれ、洋・邦画はさらに劇 場版・テレビドラマ版にわかれ、更に新作・旧作コーナーにわかれ、さらに一般ドラマ ・恋愛・ラブコメデイ・サスペンス・アクション・時代劇・西部劇・ホラーなどのジャ ンルに分かれている。そして今月のベスト10作品とか、お店のお薦め作品とか、「嵐 のメンバー主演作品」などの特設コーナーが設けられるなど、これまた多種済々。 この日のお目当てはなかったが、新作のジャケットを見るだけでも、最近の映画界の潮 流がわかる(以前は、特に金曜日の新聞の夕刊に、決まって新作映画の広告が幾つも出 ていたが、今は全くそれが無いから、私の様な者には判断準拠がなくなってしまった) 先日借りて観た「教場」(木村拓哉)と「散り椿」(岡田准一)、それに連続テレビドラマ の「集団左遷」(福山雅治・香川照之)は、まあまあ面白かった。 それぞれの主演はジャニーズ系などの歌手だが、木村も岡田も、他の映画俳優より味わ いがある良い演技だった。 今回は興味が湧く作品は、見当たらなかった。 最後にコミックコーナーをぐるりと見て回ってそこを出ることにした。 このレンタル・コミックのエリアも、青年コミック・少年コミック、少女コミック・女 性コミックなどと書棚ごとに分類配置されている。青年コミックの大きな書棚だけでも 10か所以上あるのではないだろうか。 その中で、今回初めて知ったのは「メンズ・ラブ・コミック」というコーナーがあるこ と。 私は「青年・少年があるから、これはその他一般の男性のコミック?」と思い、これも 色々と並ぶ本の表紙絵を眺めて、ビックリ! どれも長髪のイケメン青年同士が抱擁してたり、片方の者の胸に手を当てていたり・・・。 こんな表紙絵ばかりの本が、ズラリと並んでいる。それも堂々と大量に。 「ん?!」と感じた。やはりこれは男性同性愛のコミックだった。 「いやあ、世の中もここまで変化しているとは知らなかった。昔は歌舞伎町や繁華街の 本屋の隅の方に『薔薇族』というゲイ雑誌が淫靡に置かれてあったが、現代はダイバー シテイの世の中、ホモやレズに対する偏見や差別はほとんどなく、かえって増加傾向に あるのかも知れない」 まさに、何でもありの時代になってきたと思った。 種々、表現の自由があって良いし、同性婚も権利として認められてきているようだが。 その表れなのか、他のコミックには「暴力」「喧嘩」「博打」「ジゴロ」などを駆使す る「反社会的・非道徳的」な若者が主人公になっている作品が、やけに目に付く。特に 暴力が。 以前、私はこの店のレンタル・コミックで、今の日本社会で親から子供まで大人気らし い『鬼滅の刃』を、1巻目から3巻目まで見た段階で、やめた。余りにも容易く、切っ たり殺したり血を流したりする場面が多く、気分が悪くなったからだ。 子供の世界でも、このようなコミックが人気になる社会になったのかと、ある種の寂し さと感慨が胸をよぎった。 改めてもう一度、コミックのエリアを回り、「女性コミック」のコーナーを見ると、こ れも夥しい数の本が並んでいた。「女性」とあるのは「少女」以外の全ての女性を言う のだろう。しかし、「メンズ・ラブ・・・」と対句になる「レデイス・ラブ・・」はな い。 この店の人気ベスト10の本が並んでいる女性コミック・コーナーで、各本の表紙を一 覧すると、これまた驚いた。どの売れ筋本も一様に、目が大きく瞳が輝き胸が大きい高 校生ぐらいの女の子が、顔半分が長髪に隠れている細身の優男(イケメン)の胸に、う っとりと抱かれているものばかり。どの本も、若いイケメンや女子の顔が、一様に同じ 作家で描かれたように、酷似。 これが今の若い男女の「好きな顔・身体つき」なのだろう。それでないと受けないのだ ろう。 「今は、幾つになっても『可愛い』が女の持てるタイプで、ちょっとクールでヤバそう な長髪の男との恋に、女はイカレているのか?」と、思った。 まさに、コロナ禍で政治も経済も劣化して閉塞した今の社会にも、第二次世界大戦前の 社会を席巻した「エロ・グロ・ナンセンス」が漂っているようだ。 モヤモヤした気持の持っていき場がない若者たち。その欲求不満が風俗と化してきたの かも知れない・・・。などと言えば「考えすぎ!」と言われるだろうが。 私はすぐに向かいの書籍エリアに行った。 先ほどの「メンズ・ラブ・コミック」のコーナーに触発されたわけではないが、目当て は文庫本のコーナーの、三島由紀夫の本にあった。 彼のことを、その一部自著の内容と私生活の雰囲気から「男色家」と見なす向きもある が、私はそのような作家個人の性情より、今になって三島由紀夫の本の魅力に興味が湧 いたからだ。 昔、昭和40年代半ば頃、私が22歳から25歳頃に、彼の本を何冊か斜め読みした。 だがその時の印象がどうだったかは、はっきり覚えていない。 つまり「面白くなかった」のだ。当時は、芥川賞を受賞した柴田翔の「されどわれらが 日々」や、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」や、直木賞の五木寛之「青ざめた馬を 見よ」などといった系統の本や、石川達三や井上靖や司馬遼太郎などの本が面白かった のだ。 それが。先日この本屋で何気なく立ち止まった新潮文庫のコーナーに、三島の本が何冊 か積まれていた。生誕〇〇年か何かの、特別コーナーだった。 その中から、昭和35年刊行の「宴のあと」を買い求めて帰った。 たまたま手に取って、たまたま開けたページの文章に魅せられたのだ。 たいしたことが無いかも知れないが、つまりその文章とは。 「二人は池之端へ出て左廻りに池沿いの道を歩いた。 池を渡ってくる微風はたいそう冷たく、水のおもては縮緬皺(ちりめんじわ)を立てて いた。冬空の青と雲との色は、ふるえる水に溶け合って、空の青い裂け目の色が遠くま で及んで、向こうの岸の汀(みぎわ)に閃(ひら)めいたりした。ボートも五六艘(そ う)出ていた。 池の端がこまかい柳落葉におおわれ、その落葉が、黄いろばかりか、萌黄(もえぎ)の 緑がかったのまであって、紙屑を載せた埃(ほこり)だらけの灌木よりも、落葉の方が よほど鮮やかだった」 私は、三島由紀夫は耽美主義の空想的な文章を書く人、というイメージを抱いていたが、 この文章の一端に触れて、とても冷静な物の見方をする、美文を書く作家だと今更なが ら驚き、再度興味を抱いたのだ。 その感は読み進むうちに深まった。 今までたくさんの新旧作家の本を読んできたが、三島由紀夫の文章はまさに他の追随を 許さない天才作家の所産だと、痛感した。 (1970年代後半から活躍した村上春樹の文章は、口語風でさらさらと読みやすい。 これは英訳しやすいのだろう。だから国内の主流の賞を受賞しなくとも、毎年、ノーベ ル文学賞の候補に挙がるのだろう。 それに比して、三島の文章は日本人には解読理解されるが、英語圏などでは翻訳が難し いのではないか。だからノーベル賞に縁が無かったのでは・・とも思える) そこでこの日、さらに「仮面の告白」「金閣寺」「美徳のよろめき」「永すぎた春」を 購入し、うららかな午後の陽光の下、国道246の一本道の舗道を、満ち足りた気分で 帰ってきた。 途中、この日は大学の卒業式があったようで、薄紅色と濃紺の袴姿の女性が、晴れやか に通り過ぎていく姿を何度か見た。 「そうか。コロナ禍でも卒業式が開かれたのだ。良かったな・・・」 そんな微笑ましい場面に触れ、私も55年前の高校の卒業式を想い出していた。 奈良県にある天理高校の卒業式だったが、その頃はまだ、春は名のみのミゾレが降る日 が多かった。それでも心は熱く燃えていた季節だった。 私は帰宅して、すぐに卒業式後に上がったA5判の「サイン帳」を、自室の本棚の隅か ら出して開いた。 そこには、十数名の男女の級友や後輩や恩師などの「送る言葉」が書かれてある。 もう、半世紀以上前のことになったが、今でもあの頃の風景や人や出来事の場面が、ま さに月並みな言葉だが、つい昨日のことのように鮮やかに想い出される。 しかし、いずれそうしたことも、魂と共に永遠の宇宙に溶け消えていく日が来るのだ。 たった一度の人生だから、半世紀前のことでも大切に回想し、過去を今に蘇らせて感慨 に耽る。 これほど素晴らしい芸術は、きっとないだろう。 あの時のサイン帳。 一人一人みな、こよなく懐かしい。その中から二人の言葉を記したいと思う。 私の坊主頭の横顔をしげしげと眺めながら「三島由紀夫に似ている・・」と言った、同 学年の生徒会での仲間、Aさん。 「落ち着いた態度、情熱的な、それでいて物静かに話す人。 これが私の目に映った東井君の印象でした。 生徒会室で、階段教室で、よく顔を合わせた二人でしたね。 弁論大会を思い出します。 『我が青春を全力で!』 最後まで落ち着いた態度を失わずに、堂々と自分の意見を発表した君に、私はおしみな く拍手をしました。 温かいカーテンの中から、今、飛び出していかねばならない私たち。 お互いに進む道は違っています。 けれども、私は思い出す事でしょう。 あの時の君の真剣な眼、紅潮した君の顔・・・、そして君の言葉を。 自分の選んだ道を、自分の力で進んでいくことのできる人だと、私は信じています。 東井君!! いよいよこれからです。 今までの自分をためすのは」 3年次の同クラスのガールフレンド、Bさん。 「何を考えているんだろう? なんとなく興味がありました。 少しの時間だったけど、お話しできたこと、とてもよかったです。 今もよくわからない、でもなんとなくわかる東井君のこと。 東井君、『生きる』って、一体どんなことなのかしら? 苦しむこと、喜ぶこと・・・・? よくわからない。 でも『生きなくてはならない』ことだけわかるの。 スバラシイことだと思うの、呼吸をすること。 東井君、精いっぱい生きてほしい。 自分に素直に!自分に素直に! 悔いなく人生を送ってなんて言いたくない。 終りに後悔があってもいい、精いっぱい生きて!! 今度お話しする時、 今の東井君でいてほしい。 今の東井君でいてほしくない。 「生きる」 自分に素直に、そしてベストを尽くす。 『生きてください』 東井君なら、きっとやれる。」 あれから55年。あの頃の仲間とは遠く離れ、全く別な人生を歩んできた。 時代も社会も人も、大きく変貌した。 気がつくと、辛い生き方も喜びに満ちた生き方もしながら、今日の日にたどり着いてい た。 そして今思うのは、「自分の選んだ道を自分らしく歩んできた」と言い切れる、という こと。 それを支えてくれたのは、まだ生を受けて18年と言う若き年令にもかかわらず、真剣 に純粋に、精一杯私に投げかけてくれたこれらの送る言葉。 これは、どんな著名人や権威ある先達や哲学者の言葉より、私の心に強く明るく響いた。 そして、ふっと気持ちがなえた時、これらの送る言葉を思い出す事もあった。 そして「君たちの言葉を裏切りたくない」と発奮できた。それで今日まで、自己の「誇 り」を失わないで進んでこれたのだ、と痛感する。 まだ我々の人生は終わってはいない。 これらの送る言葉は、これからも私の心を鼓舞する。 だが、55年の歳月が流れた節目の今こそ、心からこう伝えておきたい。 「ありがとう!」 今年もまた、別れと出会いの季節がやって来ました。 うららかな日々。 「うららか」とは、春の陽気な天気だけではなく、「心がさわやか。心が晴れ晴れしい」 ことの意味もあります。 さあ、明日もうららかな日となりますように、頑張っていきましょう! それでは良い週末を。 よい新年度を。 |