東井朝仁 随想録
「良い週末を」

雨もよいの空に

今日は5月12日(水)。
外は、雨もよいの空。
しかし小雨が降る気配もなく、生ぬるい大気が漂う小さな庭先に、赤や白のゼラニューム
や黄色のマーガレットや深紅のミニバラの花々が、綺麗に咲き誇っている。
特に今は、これらが鮮やかに映る。
それは先ほど、「新型コロナワクチンの接種予約」が、ようやくとれたからなのです。

昨日の昼に、世田谷区から郵送で「接種券」が届き、すぐに、5月18日頃から順次開設
される区内20か所ほどの接種会場の中から、なるだけ最寄りの会場で早い日時に受けら
れるところを確保しようと、予約申し込みに入った。
だが、電話予約もインターネット予約も、全く連絡できない状態が続いたのには驚き、呆
れ、そして落胆した。
電話は何回かけても「ただいま、大変混みあっております。しばらくたってから、おかけ
直し下さい」のテープ音が響くだけ。
結局、午後8時までかけ続けたが、「本日の受付は終了しました」の無機質な応答を聴い
て、タイム・アップ。
一方、同時進行でパソコンに向かいながら24時間対応のインターネット予約も試みたの
だが、送信しても常に「待機中」。
夕方に入って「ただいまWEBサイトへのアクセスが大変混みあっております。お手数で
すが、しばらく経ってからブラウザの更新(リロード)をお試しください」という文字が
画面に表示された。アクセス制限中とのこと。
結局、昨日の午後は徒労に終わった。

明けて、今朝。
再度、受付開始の8時半になって、電話とメールをしたのだが、状況は昨日と全く同じ。
2~3回かけて、すぐにやめた。
まさに異常事態の感。
だが、こうした時はいたずらにバタバタしないほうが良い、という考えになった。
「都内23区で最も人口が多い世田谷だから、皆、我先にと殺到しているのだろう。ここ
2~3日は駄目だ。確か『あわてる乞食は貰いが少ない』『残り物に福あり』という諺も
あるし、、、。
早く接種したいと必死になっている人、どうぞお先に」などと、わかったようなことを呟
き、予約申込は今日1日行わないことにして、電話やネットはやめた。

そして昼食後。
先日の事務所移転に伴って自宅に持ち帰った古い資料や書籍を、自室でのんびりと整理し
ていた。
その中に長い歳月の「空気と光」で黄ばんだ藁半紙の小冊子が、雑誌の間に紛れ込んでい
た。一度は無意識にゴミ箱に捨てたのだが、何となく気になり、今一度手に取ってみた。
それは、私が昭和47年7月から51年6月の間に書いた雑文の内から、12篇の小文や
エッセイを取りまとめたものだった。
私は、食後の休息とばかり、床に寝そべり、何気なく朝の決意も忘れ、スマホを耳に当て
てリダイヤルしながら、その小冊子に目を通し始めた。
すると程なくして、受話器の「大変混みあっております・・」のリフレーンが、突然にや
んだ。
「ん?!」と耳をそばだてると「はい!コールセンターの・・」という女性の声。
「えっ?つながった?!」
紛れもなく、予約センターの受付嬢の生の声だった。
そして、無事に1回目と2回目の接種予約が終了した。

というわけで、雨もよいの空のようだった今日の気分が、ようやく晴れたのです。
そこで、梅雨前線が日本列島を北上している今、小冊子の中の1篇、私が28歳の昭和
51年6月に書いた「6月の雨もよいの空の下で思うこと」と題したエッセイを、懐かし
く読み返していました。
拙い未熟な文章ですが、その45年前のエッセイを転記します。
時代背景が現在と大きく異なりますが、興味のある方はご笑覧ください。
それでは良い週末を。

「6月の、雨もよいの空の下で思うこと(昭和51年6月16日記)」

三重県にいる義父が上京した際、
「お義父さんは、東京が好きですか?」とうかがうと、
「刺激が多いから退屈しなくていいが、二、三日もいると自分の足で歩いている気がしなく
なってくる。自分を忘失する」と、しみじみとした口調で言ったことがあった。
私は、極めて理解できる素振りを深い頷きで示したが、同時に、(それがまた、東京の魅力
なのかもしれません)と、腹の底で呟いてもみた。

いま、「人間疎外」という深刻な問題が、現代社会に横たわっている。
仕事とか人間関係、あるいは消費生活というカテゴリーに充実した自己を見出せない場合、
疎外されているという。
そこで人は、生き甲斐を模索し、人間性の復権を叫ぶ。
そしてまず、人間同士の心のふれあいを目指して「友情」や「愛情」 を渇望する。
若者は趣味や遊び仲間をつくり、中年は色々な思惑を含んで、徒党やセクトを組む。
彼等の生活には、常に徹底した「複数行動」があり、その裏に孤独への恐怖と個人の無力感
が、やるせなく漂っているようだ。
だが、いささかの誤解を恐れずに言うと、私は自ら「孤独」になりたいと思う。孤独感が好
きなのだ。

一時、「サンデー・ヒッピー」なる行動様式が、社会で話題になった。日曜日だけヒッピー
のような恰好をして、新宿や銀座などの歩行者天国をそぞろ歩き、ジャズ喫茶にたむろして
強烈なビートに酔いしれる程度の者を指す。
それは、サラリーマンなどの、月曜日から土曜日までを身柄拘束されている組織労働者が、
今日の管理社会におけるささやかな「ドロップ・アウト=管理体制からの逃走」を志向した、
一種のライフ・スタイルである。

私も、この程度の日常生活の冒険なら出来そうだし、そうした彼らの行動が心情的に理解で
きる。
職場にいても、帰宅しても、あるいはその日常のすべての間隙を埋めるように、つき合いや
冠婚葬祭など様々な対人関係の糸に常時絡めとられ、「心優しき人々」との人畜無害の饒舌
に浸っていると、いい加減煩わしくなってくる。
特に、私には役人としての資質が乏しいせいか、画一管理されて前例主義を踏襲した仕事や、
ヒエラルキーの貫徹した官僚組織の中の人間関係や、挙句に、昼食時や退庁時まで「同一行
動」をとることが組織の掟のような風潮が満ちている職場生活を送っていると、義父の言葉
ではないが「自分の足で歩いている」実感が希薄になる。救いがたい空虚感におそわれてし
まうのだ。

そこで時として、「一人になりたい」と痛感し、あの雨もよいの空のように、憂鬱でセンチ
メンタルな気分に浸りながら自己覚醒するよう、一人で見知らぬ街(といっても、都内の私
鉄沿線とか中央線沿線程度の街)をあてもなく歩き、三番館の映画館の片隅でワルぶって足
を前の椅子に投げ出し、タバコプカプカをきめこむ。
だが、場末の酒場で「ホッピー」なる焼酎のホップ入り炭酸水割りを痛飲し、願わくば、藤
圭子のかすれたレコードでもかかり、見知らぬ話相手でも出てくれば、などと内心期待する
ようでは、どう考えても「サンデー・ホッピー」程度の生産性(発展性とでもいおうか)の
無い、ゲスなライフスタイルの様な気がしてくるのだ。

「疎外されている魅力」という言葉もあるが、どうも「疎外を恐れての仲間づくり」も、旧
弊の体制に抵抗することのないドロップ・アウトも、所詮、現状の矛盾を隠蔽し、甘受し、
自己を慰安する「弱者集団」の処世術のようでもある。
肝要なのは、形の上での仲間集団に帰属しての安心感や、あるいは、無原則的な脱集団を試
みての自我意識の保持ではなく、今現在の自己の意識と行動を省みて、そこに充実(喜び)を
感得できるか否かの「絶え間ない検証」(自問自答)と自己啓発の努力、腹を割って話ができ
る良き朋友を一人でも多く作っていく努力であろうか。
その延長線上には、常に脈々たる自己の実存感と、それを質量ともに高める「愛=朋友=力」
が確かに存在するような気がする。

「たまの日曜日ぐらい、一人でボンヤリするのもいい。うん。
せめて、喫茶店にでも行って、自分を見つめろや」と、自分のことは棚に上げて、後輩のA
に助言する。
Aはニヤリと笑って、ポツリと言った。
「いつも一人だな、って感じなんですよ。
職場にいても、街を歩いても。
アパートに戻っても、待っているのは金魚鉢の金魚だけ・・・。
この感じわかりますか?」
「・・・・・・」 今年もまた、メランコリックな6月がきた。