コロナ禍の日常での雑感(6) |
(前回の続きです) ●岸恵子さん(1932年~現在88歳) 岸恵子さんも、前回の高峰秀子さん、前々回の沢村貞子さんと同様、日本を代表する映画 女優の一人であり、名エッセイストでもある。 主な出演映画は、1953年~1954年(昭和28~29年)・岸さんが21歳の時に 封切られた「君の名は」(第1部~3部)。 戦時下の数寄屋橋上で東京大空襲(昭和20年5月24日)に遭遇し、お互いに見も知らぬ 男・春樹(佐田啓二)と女・真知子(岸恵子)だが、助け合って、からくも逃げ延びた。 生きていたら、二人は半年後の夜に、この橋の上で再会する約束をして別れた。 分かれ際、春樹は「君の名は?」と尋ねたが、真知子は黙って去って行った。真知子には 複雑な家庭の事情があり、強引な親の勧めで縁談の話が持ち上がっていた。 半年後。橋の上で待つ春樹の前に、真知子は現れなかった。 しかし、二人の心には相手への思慕が深く残っていた。 そこからはじまる、悲しいほどのすれ違いの数々。戦後最大のヒットをした国民的ラブス トーリー映画だった。 私は当時は6歳のガキ。夏は半ズボンに下着のランニングシャツ1枚で、近所の子たちと 原っぱで真っ黒になって遊んでいた。 時に、友達と山手線の「目黒駅」まで20分ほど歩いて出かけることがあった。そうした ある日、駅前の商店街で「君の名を」の映画ポスターを見た。子供の目には何の映画かか さっぱり分からなかったが、小学校高学年の頃のある日、これも何かのきっかけで「あの 綺麗な女の人は、岸恵子という女優さんだったのか」と、思い出したことがあった。 子供とはいえ、私の心に女優・岸恵子という人が、何らかのインパクトを残し続けていた のだ。 それは、生まれて初めて女優という「女性」の顔を見たことからであり、人生で初めて、 女性に対して「綺麗な人」という感情を抱いたからだろう(母や小学校のクラス担当だっ た女先生も綺麗だったが、それらとは全く異質な感情) その後、今日に至るまで様々な女優を映画やテレビや雑誌で観てきた。 山本富士子、有馬稲子、淡島千景、久我美子、新珠三千代、司葉子、香川京子、八千草薫、 若尾文子、佐久間良子、三田佳子、岩下志麻、浅丘ルリ子、芦川いずみ、吉永小百合・・ 等々。 みな時代が生んだ素敵な女優だが、岸さんとは何か違う。 その感性を、言葉や文字ですぐに表現するのはむずかしい。 岸さんの他の映画で印象に残るのは、次の通り(うろ覚えで誤謬があると思うが)。 ・「早春」(1956年・小津安二郎監督。岸さんが24歳の時)→妻帯者の池部良と束 の間の不倫をする、丸の内のハイカラでドライなOL役。 ・「雪国」(1957年・豊田四郎監督)→再び池部良と共演。 岸さんはこの映画が封切されたらすぐにパリへ発ち、イヴ・シャンピ監督と挙式を上げた。 ・「風花」(1958年・木下恵介監督。26歳の時)→15歳ぐらいの設定の息子・川 津祐介の母親役。信州の大地主の家の次男と無理心中を図った小作人の娘(岸)。自分だけ 助かったが、腹には男の児が。出産後、世間の体面上、大旦那は二人を奉公人として家の 隅に住まわせる。いつも古い地味な作業用の着物を着て、朝から晩まで黙々と働き続ける 日々。それでも様々な周囲の偏見や屋敷内の義父・祖母の二人に対する冷たい差別に耐え ながら、息子の成長だけを生き甲斐に生きる、芯の強い寡黙な母親の役。あの「二十四の 瞳」の木下監督だけあり、信濃川沿いの田園風景などとあいまって、岸さんの演技が哀切 を感じる美しさで映し出されていた。 ・「おとうと」(1960年・市川崑監督。28歳の時)→これは19歳(?)の利発な 姉(岸)と、反抗期の高校生(?)で最後は重い肺病で死ぬ弟(川口浩)との、日常における 微妙な姉弟愛の物語。 風花と同様に、母子の愛情物語でもよかったキャストだが、継母役は田中絹代、父は森雅 之と二人とも名俳優だったので、バランスはとれていた。岸恵子の演技が絶妙だった。当 時の岸さんの年令で、よくぞ女学生ぐらいの役をこなせたと、その若さとパワーに驚いた。 この映画の妙味は、姉弟の機関銃のように連射される口喧嘩。 例えば。弟「ちえっ、ネーコウ(姉公)なんか、さっさと嫁に行っちまえ。 このヒステリー!」姉「バカヤロー、弟やらの分際で、姉さんに向かってなんて事を言う んだ!」と、最後には取っ組み合い。 不良の弟は義母や周囲や先生たちから疎まれているが、姉が一人、乱暴な言葉とは裏腹に、 心の底で弟をかばい、いつくしんでいる。弟は綺麗で生意気で男勝りの姉に盾ついてばか りだが、それは密かに姉を慕っている裏返しの行為。 この映画で岸さんは「ブルーリボン賞主演女優賞」を受賞。 ・「男はつらいよ 私の寅さん」(1973年・山田洋次監督。41歳の時) →寅さんシリーズ48作の中で、一番の観客動員数を記録した映画。 ・「悪魔の手毬唄」(1977年・市川崑監督。45歳の時)→当時人気だった、作家・ 横溝正史の金田一耕助シリーズ。パリにいた岸さんに市川監督から国際電話があり、「恵 子ちゃん、帰ってきてや。今度は殺人鬼や」という強引な誘いに乗って出演。岸さんの役 どころは、私立探偵・金田一の石坂浩二に対する温泉宿の女主人。映画は大ヒット。 先日、岸さんは「今、コロナ状況で家にこもる日々が続いているとき、TVでこの作品を 観て、私は息を呑むほど驚いた。共演者の誰もが素晴らしく、市川監督の映像も演出も超 一流の出来栄えである。『おとうと』に次いで、わたしの代表作というべき作品だと悟り、 幸せがこみ上げたのだった」と語っている。 ・「細雪」(1983年・市川崑監督・51歳の時)→大阪船場の蒔岡家の、四人姉妹の 物語。岸さんは姉妹の長女役。二女は佐久間良子、三女・吉永小百合、四女・古手川祐子。 ・「かあちゃん」(2001年・市川崑監督。69歳の時)→山本周五郎原作の江戸末期 の貧乏長屋に住む人々の人情話。岸さんはその長屋に住む貧乏大家族の大黒柱。夫を失い、 女手一つで5人の子供を逞しく育てている母親役。 この作品で日本アカデミー賞最優秀女優賞などを受賞。 以上。これらの映画に一貫して感じられるのは、女優・岸恵子の強烈な「信念」だ。それ は母親役でも娘役でも姉や恋人役でも、何でも然り。 だが、その信念というものは、これも感覚では捉えきれるが、言葉や文字に置き換えると なると、一言では表現が難しい。 生まれつき神に課せられたミッションのようなもの、あるいは戦時中に経験した地獄の世 界をくぐりぬけてきた人間の、覚悟のようなもの・・。 そこで、昔読んだ彼女のエッセイを再読してみた。 単なる麗人の「人気女優」だけだったら、コロナ禍の閉塞した日常生活の中で、岸さんの ことを想い出す機会はなかっただろう。 それが先日、TSUTAYAで借りてきた前述の「かあちゃん」を観終わってから、思考が彼女の エッセイ集にフイード・バックし、改めて人間・岸恵子の魅力の一端を探ってみたくなっ たのだ。 その岸さんのエッセイ集は「ベラルーシの林檎」(朝日文庫)と「巴里の空はあかね雲」 (新潮文庫)。 「ベラルーシの林檎」は、1993年(平成5年)、彼女が61歳の時に発行され、見事、 日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したエッセイ集。 内容は、前回までの高峰さんや沢村さんの「個人の日常」を主材としたエッセイとは趣が 異なり、ほぼ全編が冷戦後の東欧、湾岸戦争後のイスラエル、ガザ、パレスチナ、ナザレ、 エルサレムなどにおける現地ルポ。 特に岸さん自身がフランスでは黄色人種として「偏見視」され、日本に帰国した時は「パ リで生活に困って(注・夫のイヴ・シャンピとの離婚後)また日本に出稼ぎにきた、空飛 ぶマダム」と揶揄され、「誤解や差別」(注・岸さんは「私の場合は人種的にではなく生 き方や考え方の問題で」と記述)を受けてきた経験があるからか、人種差別をなくし、国 境を越えた人間愛を希求する自己の願いが色濃く記されている。 エッセイのテーマは、フランス人とフランスに移入したアラブ難民、ユダヤ人とアラブ人、 イスラエルとアラブ諸国、国境のある国とない国、資本主義と社会主義、専制主義と自由 主義の対立。そこから生まれた混乱・貧困・憎悪・恐怖・絶望にあえぐ人々の声を現地取 材し、その内容を「我関せず」とばかり、日々飽食と利潤追求に明け暮れている平和ボケ の日本に伝え、せめて、心ある日本人に問題意識を共有して貰いたいと願って書かれたの が、このエッセイ集。私はそう理解した。 読了後、何とNHKテレビのニュースから「ベラルーシ・・・」の名前が報道されて、驚 いた。私は、そもそもベラルーシの名詞が何であるか、このエッセイを読むまでわからな かった。 旧ソ連時代の「白ロシア」だったが、ソ連崩壊後に他の共和国と同様に、国名を「ベラル ーシ共和国」として、1991年に独立したのだった。 二、三回観たニュースから、このはるか遠くの国の、一つの国際的事件の概要がわかった。 「ギリシアのアテネからリトアニアのビリニュス行きの航空機が、ベラルーシ領空を通過 しようとしたところ、地上から「テロリストによる爆破予告があったので、首都ミンスク の空港に着陸せよ」という連絡があり、さらにベラルーシ軍の戦闘機が接近し、空港に誘 導した。 ところが、強制着陸の目的は、機内に乗っていた反体制派のジャーナリスト・A氏を逮捕 することだった。機内には、アテネから彼を尾行してきたベラルーシKGB(秘密警察) の要人もいた。 ベラルーシでは去年の大統領選挙で27年間の長きにわたり独裁政治を続けているルカシ エンコ・現大統領が当選。A氏はこの選挙の不正を暴き、怒った国民が大規模な反政府運 動を展開しているところ・・・・」といった内容だった。 そして現在、米英・カナダ・EU諸国は猛反発。ベラルーシの現政権の人権抑圧に対する経 済制裁等を発動している。 岸さんが「ベラルーシの林檎」のエッセイを書いたのは、1993年。 NHK衛星放送のキャスターとして活躍されていた頃。 本の題名は、20編ほどからなるエッセイ集の中の一つの章の題名から。 ワルシャワ(ポーランド)からサンクトぺテルブルク(ロシア連邦)までの長大な時間がかか る鉄道に乗車。その途中のワンシーンの記述。 「78歳だという長老格のおばあさんが、陽気な仕草で、合財袋から大事そうに、ひどく 不器量でしなびたリンゴを取り出し、くるくると回しながら、スプーンで掘るようにして、 『ロシア式食べ方よ』」と伝授してくれる。 『ナイフで皮をむいてはダメよ。栄養が逃げてしまうわ』 ほんとうに薄紙ほどの皮を残して、小さなリンゴを半分だけ食べ、残りをその薄皮で蓋を するように包み、また大事そうに合財袋の底にしまった」 その後、このおばあさんが日本の大きくピカピカした高級リンゴを知ったらびっくりする に違いないとか、このおばあさんが歌を歌ったが、ひどくノスタルジックで、胸の中に、 じんと大きな哀しみが華やぐとかが、柔らかく書かれている。 汽車が間もなくベラルーシに到着する時、「リンゴのおばあさんがさよならをいいに来て くれた。(略)もう二度と逢うことのないだろう、そのあたたかく年老いたうしろ姿が、胸 にこたえた」とある。 だが、ノスタルジアはここまでだった。 「駅には大きくキリル語でグロドノとある。ワルシャワからリトアニアのヴィリニュスへ 行くのに、なぜベラルーシを通るのか不思議に思った。実際にはミンスク(注・ベラルー シの首都)の西方のちっちゃな三角地帯をほんの少しかすめて、リトニアに入るのである」 と、岸さんが怪訝に思っている時、調査員が岸さんたちのクルーの手荷物検査にきた。 そこで「ルーブルを持っていると没収。ベラルーシではルーブルの持ち出しは禁止。通過 するだけでも駄目」ということを知らされた。そして有無を言わせず、デイレクター所有 のルーブルが没収された。幸い、他の者はなかった。 岸「全部取られたの?」 デイレクター「大丈夫。1万2千ルーブルだけ。つまり1万2千円です。あとはリトニア のホテルに置いてきました」。 「さすが!」 「でも、ベラルーシでは彼らの平均月収の4か月分ですよ」 「・・・・」 この後は、パスポートの検閲。 「フランス国籍者はヴィザなしでバルト3国に入れる。ベラルーシは通過するだけです」 と言っても、検閲官は「あなたはベラルーシの地上にいます。規則でベラルーシ共和国は ヴィザなしで通過することはできない。パスポートはいただいておきます」 そうした信じられない事件に次々に遭遇するが、何とかピンチを逃れて取材が続く。 岸さんは過去の取材でも、イラクとの戦時下にあったイランでは、革命防衛隊に連行され そうになったり、エルサレムでは、百人以上の過激派に襲撃され、袋叩きの目にもあって いる。 こうした無謀とも思える、危険地帯における現地取材を敢行することなど、日本でヌクヌ クと報道記者の特権で取材をしているマスコミ関係者には、きっとできない事だろう。フ リーの人は別にして、大手マスコミの海外特派員でもそこまでしないだろう。 ともかく、この人(岸恵子)のひたむきに前進する正義感の強さには、日本の全ての著名 人のそれを凌駕する熱量を、痛いほど感じさせられる。 岸恵子さんは、映画女優として(あわせてテレビのドラマ俳優としても)、8歳年上の高 峰さんに負けず劣らずの活躍をされてきた。 だが映画の出演本数は、高峰さん(300本以上)よりはるかに少ない。 その理由を、岸さんは自著「岸恵子自伝/卵を割らなければ、オムレツは食べられない」 (2021年5月、岩波書店発行)で、こう書いている。 「わたしは『うまい女優』であるよりも、『いい女優』でありたかったし、演ずることに だけ心魂を傾けて、『芸ひと筋』の人生はいやだった。世界に起こるさまざまな事件の焦 点、それに身を絡ませて生きていきたかった。それがわたしの生きたい人生だった。だか ら映画の出演作は少ない。70年間で100本にも満たないと思う」 この様な信念を裏付けるように、岸さんは88歳(再来月に89歳)になられる現在まで、 女優、国際ジャーナリスト、文筆家として精力的に活動されてきた。 あの華奢な麗人が、これほどまでに自分の意思を貫いて生きてこられたことに、私は深い 感銘を受けた。 前述の自著の題名に「卵を割らないと、オムレツは食べられない」というサブタイトルを つけているが、これは岸さんが24歳の1957年(昭和32年)、フランスの映画監督・ イヴ・シャンピと結婚する為にパリへ発つ決意をした時に、彼女が自分に言い聞かせた言 葉。 本には当時の心境が、こう述べられている。 「『雪国』を、それまでのわたしへの決別の映画と決めていた。 女優としてのわたし、祖国と両親と、愛してきたすべてのものへの決別。イヴ・シャンピ の言った言葉の端々を心に刻んでいた。 《人の一生には、何度か二者択一のときがある》 《卵を割らなければ、オムレツは食べられない》 オムレツは食べたいけれど、卵も割りたくないという未練がましさは、わたしにはなかっ た。 『雪国』出演が決まったとき、わたしはわたしの卵を割った。 「1957年5月1日に、パリのあなたのもとに行きます」とイヴ・シャンピに電報を打 った。 結婚の決意を両親と『にんじんくらぶ』(注・久我美子、有馬稲子そして岸恵子の3人で、 当時の映画会社5社の専属俳優としての拘束から自由に活動できるように、独立して作っ たグループ)の若槻代表にだけ打ち明けた。 三人とも蒼ざめた笑顔で眼を潤ませた・・・。 撮影最後のワンカットを撮り終えたのは、1957年4月下旬、徹夜明けの朝方だった。 結髪室で、自宅で結い上げていた日本髪の元結(もとゆい)に鋏がはいり、プツンと音が した。 わたしの24年間への決別の音だった。元結を切られた髪が肩にばさりと散らばった。 身体が震え、堰を切ったように涙が溢れ、わたしは号泣した。そのわたしを、島村(映画 での相手役)の衣装のままの池部さんが腕組みをして、窓によりかかり黙ったままじっと 見つめてくれていた」 岸さんは、今年の8月11日で満89歳になられる。 今週のこのHPの表紙写真にあるように、まだまだ若々しい。 だから、心からこうエールを送るのです。 「ネーコウ(姉公)、さらに元気でね。ありがとう!」 それでは良い週末を。 |