東井朝仁 随想録
「良い週末を」

並木よ坂よ・・・(2)

(前回の続きです)

日本テレビの連続ドラマ「颱風とざくろ」は、1969年(昭和44年)7月5日から同年
9月27日まで、全13回にわたって放映された。
原作は、昭和41年(1966年)に発行された同名長編小説で、作者は、戦後から当時ま
で「青い山脈」「陽のあたる坂道」など多数の青春小説を書いてきた、作家の大御所・石
坂洋次郎。
先日、Amazon通販で同書の古本と、ドラマのCD(デジタルリマスター版)4枚一組の全
13話を取り寄せ、それぞれ読み且つ観賞したが、ドラマは原作とは大きく異なっていた。
一言で言えば、小説は石坂氏特有の「新しい男女同権による自由な恋愛の模索と葛藤、社
会の旧弊を打破して奔放に行動するユーモラスな青春群像」を、そしてテレビドラマは、
「当時の学園紛争や、激動する経済成長社会における、若者の孤独と苦悩と愛」を描いた
もの。
小説とテレビ映画では、おのずと興趣が異なるのは当然だが、私はドラマのほうが面白か
った(注・水を差すようだが、テレビの連続ドラマに関して言えば、「岸辺のアルバム」
や「二人の世界」の作品(両方とも山田太一脚本)のほうが、断然に良い)。

「颱風とざくろ」のドラマは、脚本が倉本聰、音楽は山本直純、そして主題歌「あこがれ」
と劇中歌「並木よ・・」の歌を、森山良子が歌っている。
森山良子の歌が、ドラマ全体を効果的に盛り上げていた。
前回のエッセイで、「並木よ・・」の歌のさわりを記したが、最近、何気なくネットを見
ていると、思いがけなくこの歌に関する投稿を目にし、驚くことがある。当時、このドラ
マを観て、歌を聴いて心をときめかせた人達、特に団塊の世代の人からの投稿だろうか。
YouTubeでも、こんな投稿が多々ある。
「この歌を聴いていると、目頭が熱くなります。
あの頃はお金も物も恋人もなかったですが、いつも希望に満ちていました。
森山良子さんの歌が流れてくるだけで、元気が湧いていました」
「松原智恵子さん、本当に綺麗ですね。今は、このような女優やタレントは、全くいなく
なりました。社会もおかしくなりましたね。あの頃が懐かしいです」

現在の何とも言えない閉塞感が漂うコロナ禍の中、否応なく国の劣化や社会の衰退を痛感
させられる日々。たとえこの先、コロナが収束しても、今までの様な明るい元気のある時
代は、今の30以上の現役世代が全替りしない限り、もう来ないだろう。
人が変わり、社会が変わり、国が変わり、世界が変わらないと、そもそも人類の将来さえ
危ういと感じる時に来ている。
変えるのなら今。一日も早く旧来の制度や手法、価値観を変革しないと、日本の沈没、世
界の崩壊への加速は増すばかりだろう。
もう止まらなくなる。
ではどうするのか?
現在までの政治・経済・社会分野の全てを通観し、日本としての新たな国づくりの理念を
確立すること。憲法と並んで、日本国としての新時代に目指すべき「理念」(プリンシプ
ル)を、与野党が一体となって確立すること。
政治家から役人、企業家、教育者そして各国民一人一人が共有できる「これから進むべき
日本国のイメージ」を掲げること。
具体的には、どんなイメージか?
例えば、個人も社会も、もう少し「つつしみ」を持つこと。
「つつしみ」とは?
「全ての欲望を腹八分にし、残りの二分は共助に役立てる」という価値観。
利己主義から利他主義尊重への転換。
国も企業も国民も、GDP至上主義や利己主義優先で自分達の飽くなき欲望(利己・我欲)
をエスカレートさせてきた。だがその弊害が今日、世界中に現れてきている。
変えるのなら今しかない。
またまた先送り?
なら、もはやこの国の将来は消える。

そんなことを勝手に考えている昨今(参考文献・村上和雄著「コロナの暗号、人間はどこ
まで生存可能か?」幻冬舎)
特に人生の最終章に入り、先が見えてきた私(の世代)にとっては、今に求めるのはカネ
や名誉や物ではなく、心の安寧。ささやかな光を灯す希望、ときめき、喜び。
そのために、自分一人で出来ることとして、かっての名ドラマや好きな歌に触れながら、
たった一度の人生における二度とない過去の懐かしい出来事を、一日に一度は回想する。
時には純喫茶の窓際の席で珈琲を飲みながら、時には駒沢公園の緑陰のベンチで、汗を滴
らせて炎天下のジョギングコースを走る若者たちの、しなやかな群像を眺めながら・・・。

そうしたことは、どの様な暗黒の時代、どの様な苦しい社会環境の中にあっても、人間だ
けに平等に与えられた「悔いなく豊かに生きるための知恵」だと確信している。
そこで前回のエッセイでも、「田園調布の並木道を歩きながら、50年前の梅雨明けから
初秋までの青く燃えていた季節を、ほんの少し前のことのように想い出していたのです」
と、記したのです。

そう、それは厳密にいえば今から52年前の昭和44年(1969年)6月から9月まで
の、希望と不安と苦悩と歓喜に燃え始めていた、まさに青春という生い茂った並木の坂道
を、ひたすらに登り始めた季節だった。
ちょうど、「颱風とざくろ」のドラマが放映されていた時期と重なっていた。そのような
些細なことは、普通は気がつかない。
しかし、久しぶりに田園調布の街を訪れ、閑静な住宅街を散策している時、不意に「ここ
は、いつかKさんと歩いた坂道ではないか?!」と気づいたのだ。
当時は殆どテレビは観ず、「颱風とざくろ」のドラマもたまたま数回観ただけで、内容は
全く忘れていた。
だが、女子大4年生のヒロイン(松原智恵子)が、大学病院に勤務する研究助手(注・大
学医学部は、大学紛争中だった東大医学部と推察。このドラマが放映された半年前、東大
全共闘が占拠していた安田講堂に機動隊が突入。全共闘運動は終焉)だった恋人(緒形拳)
と、二人で田園調布の道を歩くシーンが何回かあった。
当時の目蒲線の古びた小さな田園調布駅と、昔の緑色の車体の電車が映っているので、そ
れはよく覚えていた(注・私は目黒に住んでいた)。
そのシーンでは決まって「♪並木よ坂よ古い友よ・・」の歌が明るくテンポよく流れてい
たのだ。爽やかな素敵なシーンだった。
それから、その歌と田園調布の並木道のイメージだけが、美化されて今日まで印象に残っ
ていた(現在は、田園調布の街には何の感動もないが)。
ちなみに、Kさんを思い出したのも、「夏の訪れ、ざくろの花、田園調布、並木道」から
の連想だろう。まさに50年ぶりだった。

そして。
さらに今また、その50年ほど前の日記を読んでいる。
今までに日記はすべて廃棄した。だが、先日部屋の整理をしていたら、昭和43年と44
年分だけが、まだ本棚の間に残っていた。
そこで「颱風とざくろ」にちなんで、放映当時の昭和44年4月から8月分の日記から、
幾つかの文章を抜き書きし、当時を振り返るためのメモリーとする次第(そして日記はこ
れで全て廃棄に)

●昭和44年4月~8月の日記から(抜粋)
(当時の背景)
昭和44年(1969年)4月時点で、私は満21歳6か月だった。
昼(朝9時半~夕方4時半)は、厚生省統計調査部社会統計課に勤務。
社会医療調査として、診療報酬明細書(レセプト)に記された診療行為別の報酬額の集計
業務。
病院・診療所別、入院・外来別に、膨大な数のそれぞれのレセプトの記入事項を、別表用
紙に数字化して取りまとめる作業をしていた。
具体的には、疾病分類表(国際標準分類)に従い、各レセプトの疾病名を番号化(例えば
急性咽頭炎(カゼなどとは書かれていない)→410とか)し、分厚い甲・乙表別の診療
報酬点数表に基づき、初診・外来、投薬・注射、検査(理学・血液・喀痰・尿等)、レン
トゲン(画像サイズ・造影剤使用の有無別)、処置、手術、入院等の事項別に、診療報酬
の総計(1点=10円)を転載する事務的作業。

そして。
夕方の午後4時半に退庁。それから徒歩20分ほどの新宿区戸山町にある早稲田大学文学
部キャンパスに通学。
この4月から第二文学部社会専攻の第4学年に進級していた。
「社会」といっても概念は広範囲だが、私は多くの科目から、ゼミ(演習)としては、組
織社会学(個人と集団、職場集団、人間関係論等)、社会心理学(児童心理・集団心理・
異常心理)、社会調査などを主として受講していた。

一方。
職場では厚生省労働組合の統計支部の青年対策部長としての活動や、バレーボール部の主
将としての練習、さらに有志で部内職員(約500名)向けのミニコミ紙を作製・発行し
ていた。
また、大学では学生運動が過激化し、構内はつねに騒然としていた。
早大でも、共産党系の「民青」をはじめ、反共産党系で過激な行動をとる「革マル」「中
核」「社青同」などと呼ばれるセクトが活動し、各学部ごとに学生自治会の主導権争いを
展開していた。
私は、1年次・2年次の時は英語重点のクラスA組に在籍し、そのクラス委員に選出され
ていたが、二文の学生自治会は「革マル派」と呼ばれる過激派が主導権を握っていて、私
の考えとは相容れないので、私はクラス討論の議長やコンパの幹事はするが、自治会には
出ないと宣言。クラスの全員もそれを了承し、自治会活動とは一線を画していた。
(同クラスで、私と思想抜きで比較的に親しかったMは、バリバリの革マル派の活動家だ
ったが、彼は「東井はいいよ。俺がやるから」と笑って自治会に入り浸っていたが。最後
は彼らが占拠していた大隈講堂の上で、機動隊の放水を浴びて逮捕された)。
3年次からはクラスは解散し、それぞれが希望する専攻コースに別れていった。
私は社会のゼミで、しばしば担当教授などと近くの喫茶店で講義を聴いたり、意見交換を
していた。
それでも2年次まで私の属していたA組のクラスメイトとは、卒業するまで交流を続けて
いた。そして4年次になっても、それぞれの専攻ごとにクラス討論は活発に行われていた。
私も専攻別の自治会委員ではなかったが、ゼミの仲間との討議には顔を出して、意見を交
わしていた。

また4年生になって、周囲はにわかに就職活動で慌ただしくなってきた。
さらに、学年の半数近い女性達はめっきり女っぽくなり、良き恋人にめぐりあって交際を
始めている人も少なくなかった。
私も学内外に、心をときめかせられるガールフレンドが、ポチポチと出来てきた。
そんな、卒論勉強と就職活動、入省4年目の公務員業務、職場の組合活動とスポーツ活動、
それに大学紛争とガールフレンドとの付き合いに、日々燃え上がっていた時期だった。
そんな朱夏の季節を背景に、ボソボソと独言をしたためた日記。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。