並木よ坂よ・・・(3) |
(前回の続きです) ボソボソと独言を記した日記(昭和44年4月~8月分)。 そのうち今回は4月分からの抜粋。 この時期は、主に厚生省統計調査部における労働組合と早稲田大学第二文学部における学 生討議、それに友人・ガールフレンドとのふれあいに関係する記述が多かったようです。 ・4月1日(火) 『3月15日~23日の期間、一人で四国・関西を旅行してきた。 四国は、3日間で丸亀~松山~道後~高知~琴平~高松。その後、大阪でKさんに会い、 春雨の大阪城を散策。翌日、天理に出て柴野・伊藤(※注 高校時代の親友)らと奈良公 園に。 今から思うと、この旅行は思い出として残るには十分の楽しさだった。 帰京前日、Mと天理の喫茶店で会った。 他愛のない、それでいてお互いにどこか思い詰めた表情での会話。 口火を切ったのはM。 「交際をやめません?」 俺は自然に「うん・・・」と一言うなずいた。 Mは、結婚をするか否かをはっきりとさせたい、と考えているのだ。 でも、俺はまだまだ結婚など考えられない。しかし可愛くて魅力的だ。 まだまだ今まで通りの付き合いを続けられたらいいぐらいに、思っていた。 でも、東京と天理とに別れながら、3年間の文通と時々のデートを、これからも続けるの は俺のエゴだ。 はっきりしないと良くない。 Mは言い切ってすっきりした表情だった。 「好きだったわ・・・だから・・・その先を言わせないで・・・もう私は1対1のお付き合 いは東井さんでおしまい・・・」 「・・・君はさっき、一生結婚はしないと言ったが、本当かい?」 「ええ、そうよ・・・。わからないわ・・・東井さんの気持・・・」 そうだろうな。俺にもわからないのだから・・・今でも・・・。 (※注 翌年、葉書が来た。ハワイからだった。結婚して苗字が変わっていた。祝福のエ アメールを送ろうと思ったが、やめた。意味がないし迷惑だろうから) 4月1日付で、社会医療班長(課長補佐)を含んだ大規模な人事異動があった。若者はた いていが、退職して民間に転職していく者だ。 その晴れ晴れとした意欲的な顔。残された連中の魚の様なトロンとしたマナコ・・。 班長の左遷(?)。別れを惜しむかのように、班員に丁寧な挨拶をされて去って行った』 ・4月5日(土) 『昨日の嵐はすごかった。台風そこのけの勢いで暴れ狂った。 二階の雨戸が、例によってギシギシとしなり、今にも吹き飛ばされそうになる。 十数年前から大工さんに、「取り替えたほうがいい」といわれている代物。 だが、うちにはそんな取り替える余裕はないはずだ・・。今後も心配の種』 ・4月8日(火) 『昨日は2時間早退して、二文事務所に教職科目の登録を行ってきた。 社会科学部の聴講も、二文の専門科目の取得もうまくいった。 さあ、最終学年!これから真面目に勉学に没頭しよう! 沈黙の中に自由を探る。通俗的な日常性からの脱却、置かれた状況への背反を試み、心の 解放を希求する。妥協が出来ないのではなく、それを許さない魂の本性。 学内では民青と革マルの対立が醜悪的に表面化し、両者が激突しそうな気配。 (※注 学生会館の管理運営を巡っての「学館闘争」の主導権争いが口火に) ・4月15日(火) 『日曜日に陣馬峠へハイキングに。その前日の夕方に、俺の家で青対部(※注 厚生統計 労組の青年部)の連中とスキ焼をして痛飲したせいか、身体が弛緩してダルかったが、見 事に晴れ渡り、心は勇んだ。自然はいい。汗をかくのは快適!』 ・4月17日(木) 『白い光に起こされたら、外は春の淡雪が降っていた。 4月の中旬にこれだけの積雪はめずらしい。 一昨日は「6月中旬の気候」、今日は「2月中旬の気候!」 N君に言わせたら「もう一度、花見ができる」とほざいていたが。 昨夜、清水(※注 学友)と新宿の「サントリー東京』で飲んだが、あの酔い方は気持ち 良かった。野球の練習で痛む筋肉が、すぐにほぐれた』 ・4月22日(火) 『昨夜のあの重苦しい悪夢は、何なのか? 息苦しいほど蒸し暑く、身体全体が金縛りにあったように硬直した感じだった。 今日、明日が青対部活動の一大山場だ。 やることは多いが、身体は疲労している。だが、明日から3日間の職場の署名活動、日曜 日のソフトボール大会の準備がタップリある。仕事中も精神は高揚し、火照り、焦燥感に 駆られて苦しい。 つくづく嫌になる時があるが、山を乗り越えてこその充実感が待っていると思っている』 ・4月23日(水) 『今日から3日間の署名活動。朝ビラをまいてスタートした。 署名のみで終結させず、青年層の画期的な盛り上がりを作りだし、実質的に講堂・会議室 使用の差別と不承認を撤廃していこう。その準備段階として署名とビラで、この問題を職 場に浸透させ、職員の協力を呼び起こしていきたい!』 (※注 ちょっと長くなるが・・・。私の組合活動や大学での学生運動における姿勢、特 に組合においては、まず、実直な問題提起→討論→情報宣伝→多数の同意形成→当局と掘 り下げた交渉→要求の全面(又は一部譲歩による)成就を図る、という手法を基本としてい た。 勿論、どんな党派にも属さず。 しかし、大学紛争においては、各過激派は自派の主張を貫徹する手段として、激しいアジ やデモの行使→討論における相手への恫喝的・一方的な主張→集団による口撃・リンチ→ ゲバルト(暴力による実力闘争)・各派間の内ゲバに終始していた。最後は、ゲバルトを 人民のためなどと正当化し、結局は、一般市民をも巻き添えにした激しい破壊闘争と化し ていったのは、周知のとおり。 国民とか労働者のためにとかを叫んでいた学生は、現実的な管理社会制度や労働現場の実 態、一般庶民の心理などわからないまま、社会で揉まれた経験のない「まだ青臭い体臭を 抱きながら、覚えたての偏狭な理論・理屈を振りまく学生」が、少なくなかったと思う。 私は年齢が同じでも、少なくとも行政という国家官僚組織の底辺で働き、時には日曜日に 街の鉄工場のアルバイトで、終日鉄骨を相手に、危険で鉄粉まみれの重労働などをして学 資を稼いでいたし、様々なサラリーマンや肉体労働者などと街で飲む機会も多かったので、 彼らの「暴力革命」的な闘争には、全く反対だった。 理由は簡単。 国民の中には一時的な判官びいきで、学生たちの反権力的な武力闘争に好意的になる人も いるだろうが、それが学内外での暴力的・破壊的な闘争に変容してしまったからだ。 国民感情は、当然、反感・嫌悪・怒りに変わる。 それは国民のためという「大義」が、彼等にはないからだ。 自分達の独善的・偏狭的・排他的な思想が、現実的に広く国民の心を捉えられると思って いるとしたら、全くのガキ。そう思っていた。 昔から「正義なき力は暴力。力なき正義は無力」という言葉があるが、それだろう。 そもそも大義がある暴力と換言してみても、多くの日本人の心には「どんな理由であれ、 暴力には絶対反対」とする考えが、根強く定着している。 それでなければ、軍事力の保持も交戦権も認めない平和憲法第9条の改正は、とっくに容 易になっていただろう。 当時は多くの市民団体や労働組合が「二度と戦争を許すな。米軍基地反対、安保条約反対」 をとなえ、各過激派やノンセクト・ラジカルの連中も、そうした日本の平和を守るという 大義に乗っていた。それがすぐに「安保粉砕・米帝粉砕」「大学解体」「造反有理」 (※注 国家体制や権威に反逆することには、道理があるとする思想)などと叫んで国民 の心情から乖離し、戦術も「日本の暴力革命」を志向したような闘争に転換してしまった。 「抗議集会・デモ行進・情報宣伝」による国民の支持獲得、「国政選挙」による政権奪取 により、民主的に日本の変革を図るという人々に対し、彼らは「ブルジョア的・反革命的 ・小市民的」と敵対視するようになっていった。 そもそも、角棒や鉄パイプ、そして道路の敷石や火炎瓶を投げて機動隊と衝突していた者 たちの頭には、きっと「国家権力は絶対に銃などの武器使用はしない。また、こちらが攻 撃しない限り、先制攻撃をかけてこない。受け身だ」との認識が強かったことだろう。 当時の日本は「1964・東京オリンピック」を成功裏に終え、経済成長により平和と豊 かさを謳歌できる国家として、自信と余裕が生まれていた。 並行して国民の権利意識が高まっていたから、「ベトナム戦争に加担する安保条約の延長 を強行する国家権力に対抗し、高度経済成長の副作用である公害や労働条件の悪化、貧富 の差の増大、企業や大学の管理強化、社会から疎外される国民の増加を生み出す現在の資 本主義体制の打破に身体を張って闘う我らに対して、きっと、多くの国民が支持を寄せて くれるはずだ」「こちらが武力闘争を展開しても、機動隊はせいぜい放水か催涙弾を打ち 込んでくる程度。そしてこん棒と盾で逮捕しに押し寄せるだけだ。」という判断が強かっ たのだと、推察される。 どれだけ角棒や投石などをしても、「民主国家の日本」の社会では、機動隊や警察が学生 たちに暴力行為をとればマスコミが騒ぎ、国民の反感が高まる。だからからおいそれと手 を出してはこない。我々が武力闘争を展開するのは、国家権力の実態を白日の下にさらし、 国民に社会の矛盾を知らしめる目的からだ。何も主張せず何も行動しなくて、安保廃棄が 出来るのか。ベトナム戦争を阻止できるのか。大学管理法を粉砕できるのか、と自分達の 行動を正当化する。 だが、「大学の武力占拠=解放区の構築!」などと、まさに今風だとポエム的な発想をも って意気を上げていた全共闘などの過激派も、機動隊の放水などで崩壊された。 すると、一部のグループは銃などの武器確保に走り、爆弾テロやハイジャックや人質立て こもり事件や、派内における大量リンチ殺人事件などといった行動に走って行った。 しかし、このような闘争のエスカレートを、いつまでも許しておかざるを得なかった当時 の日本(現在もだろうが)は、ある種、民主的国家だったといえる。 中国などだったら、天安門事件における学生・若者たちに対する容赦ない射殺や戦車の出 動による制圧で明白だったように、すぐに軍隊が出動して彼ら彼女らを圧殺することは、 全くいとわないだろうが。人民の命と国の平和を守るためという、国の大義の下で。 現在の香港や、ミャンマーの民主化運動弾圧も悲惨だ。 日本の民主主義のお手本であるアメリカでも、集団による暴力行為(テロ・クーデター) が発生したら、警察や軍は容赦なく暴徒たちを銃を使って鎮圧するだろう。日本もそのう ち、騒乱罪適用の暴徒に対する銃の使用が一般化するかもしれない。 そもそも人類で最大の暴力行為である戦争では、殺傷能力の高い武器を多く有している国 が勝つ。それは日本の歴史でも、鉄砲をいち早く取り入れた織田信長が天下を取り、幕末 の薩長連合の近代兵器が幕府を倒した事でもわかる。同様に世界は究極の最強武器である 核兵器の所有・増強に走っている。「我が平和国家・日本」が、いつから核兵器を所有す る国になるのか。私には全く予想がつかない。どうしたら、これからの日本の平和と安全 が持続可能となるのか。 コロナとオリ・パラと異様気象に明け暮れているが、日本の安全保障のあり方を早急に最 重要政策の課題として国会で議論しないと、ヤバイ・・ということだけはわかるが) ・4月24日(木) 『昨夜はゼミのあと、中島先生の誘いで喫茶・フェニックスに行き「第二早稲田闘争」に ついて論じ合った。 「早稲田には火がつけられている。反戦連合による本部封鎖だ。そして4・28闘争を導 火点にして爆発を起こすのは目に見えている。革マル派は全学封鎖のエスカレートを作戦 してないだろうが、解放派が占拠をエスカレートさせるならば、革マルが勢力奪回として 挑んでいくだろう。当然、対立激化→機動隊導入→泥沼化のコースに陥ることは必至」 僕はそんな自分の予測を話した。そしてこのような事態では、一般学生の動向が紛争解決 へのキーポイントになると思う、とも。 その時、僕はいかなる行動を取り得るかが問題である。 今、「外国史概説」の受講中。 革マル派自治会の連中のアジが、教室にも伝わってくる。 室内には7~8人の初夏の洋服を着た男女が、静かに教授の声に耳を傾けている。 僕はこの後、役所に戻り、明日の職場の朝ビラを作らなければならない。 一つ一つに真摯に向き合っていこう』 ・4月28日(月) 『昨日の青対部主催の「ソフトボール大会」は、約80名の参加を持って、雨の心配もな く、とどこおりなく行うことができた。 全部で15試合。最低2試合をすることができるプログラムを組んだ。 今日、登庁すると、誰もかれもが「身体じゅうが痛い」と叫んでいた。 でも、みんな楽しかったと言っていた。本当に良かった』 ・4月29日(火) 『昨日の「4・28沖縄反戦デー」は、ぎりぎりで社会党・共産党の統一が実現し、10 万人以上の参加者を得て、代々木公園で行われた。俺は全厚生(※注 厚生省労組の各局 支部からなる連合体)の列で、ハンドスピーカーでシュプレヒコールを指揮しながら、長 蛇の列で新宿までのデモ行進をした。 昨日の疲れと今日の昼休みの地域デモで疲労困憊しているので、消耗し尽くした。終了し たのは午後10時過ぎ。 山手線は全面ストップしてるので、歩いて渋谷まで出て、周囲に催涙ガスが漂う中、目の 痛みを押さえて何とかタクシーを拾い、帰宅した』 ・4月30日(水) 『昨日、四国旅行で知った3人の娘に、手紙を出した。 そのうち返信があるのは誰と誰から・・・。旅行の余韻が、今また湧いてきた(※注 一 人は高知大学入学者。二人は香川の地元の高校生。後日、それぞれからお礼の返信があっ た) GにTELした。意外にバイトには行っておらず、スムーズに電話口に出てきた (※注 2018年7月26日「緑陰の人」を参照) 弾んだ明るい声。彼女の陽気さを感じられて、こっちも気持ち良かった。 自己の思いをせめて50%リアルに表現出来たら! そしたら俺の行動は生きてくるのだが・・・。 でも、願望を口に出して表現したら、おしまいの様な気がする・・・」 さあ、明日はメーデー。新緑の5月。 デモ行進が終ったら、新橋のビヤホールで皆と飲んで歌って騒ごう!』 (※注 メーデー行進後、新橋の東芝ビルの屋上のビヤホールで、職場の20名ほどの仲 間で、大いに飲んで語った。 私は、代々木公園から青山通り、そして新橋までの行進の最中、常に車のマイクを使って シュプレヒコールの指揮をした。 私の指揮は私の思うがまま。代々木公園のスタート時点から労働歌(メーデー歌)ではな く、「さあ、歌を歌って出発しましょう!今日の青空のように明るく元気に「いつでも夢 を」(橋幸夫と吉永小百合)を合唱! それでは、サン・シー、♪星より密かに・・」 団体ごとに順番にスタートするのだが、他の団体の連中が驚きながら、そして大きな拍手 で私達の行進を送ってくれた。今思い起こすと、破天荒だった。それも21歳の青春の季節 にいたから、出来たことだった) この続きは、次回にでも それでは良い週末を。 |