並木よ坂よ・・・(5) |
(前回の続きです) ・昭和44年6月2日(月) 『先週末の文学部学生大会は、一文・二文とも「一週間スト」が圧倒的多数で可決された。 一文の大会中「全共闘」の連中が大会粉砕を叫んで構内に暴力的に突入してきたので、機 動隊の車が10台来て衝突し、学生30数名が逮捕されたとのことだった。 二文の学生大会は221号室を超満員にして開催された。 そして執行部案(革マル系)と民主化会議(民青系等)の2案が採択され、自由討論に入 った。しかし終始、執行部案に反対の意見を述べる者に対し、執行部の活動家は「民青黙 れ!」などの激しい恫喝を与え、執行部案に挙手しないものは周囲の革マルシンパから睨 まれるといった険悪なムードだった。 「一週間スト」は圧倒的に通ったが、「一週間スト→その後に無期限スト突入」の執行部 案は「一週間ストの評価を踏まえてからの採決」で保留となった。 俺もそれに賛成だった。無期限など意味がない。 俺は面識がなかったが、民青系とおぼしき学生が、孤立無援の中で毅然とした態度をとっ ていた。イデオロギー云々に関係なく、その姿に俺は感銘を受けた。 だが、早大の全学部、いや、そこらじゅうの大学で、もはや止めようがない自己陶酔と妄 動と、立ち止まることの出来ない狂気が渦巻いている。そんな止めようがない奔流が堰を 切ってあふれ出していた。 俺は幸か不幸か、昼は職場に行って仕事をしているので、頭が始終ヒートアップするよう なことはない。主観と客観、冷静と大胆を兼ね備えていたいものだが、心は重い』 ・6月3日(火) 『昨日は、1限目のゼミが終了したらすぐに帰宅して、上級職(心理)の受験勉強をしよ うと思いきや、酒井・菊池・千葉らの革マルシンパや、友人の中上・清水・野島・横井ら と、「源兵衛」(注・早稲田通り沿いにある飲み屋)で、飲み語らってしまった。 少し前まで、俺を「民チック(民青系)」と、白い目で見ていた酒井らも一緒だったが、 3学年まで続いた「旧A組の仲間たち」に戻り、皆で愉快に飲んで語り合った。 彼等に何か心境の変化があったのだろうか。かくも痛快で愉快な宴は久しぶりだ。 帰宅したのは午前零時を回ってからだった。 お蔭で今朝は頭が重かった。 確か、帰りに目黒駅からKに電話した覚えが。 「酔っちゃったよ。もう帰れないから迎えに来てくれよ!」 「だめよう!歩いてかえりなさいっ!」とピシャリと言われた記憶があるが、、、あとは うつろで覚えてなかった』 ・6月6日(金) 『昨日の学生大会で、二文の長期ストライキが可決された。 一文も少差で可決されたとのこと。 今日の時点から、ストライキは「長期」にわたって展開されていく。 6月20日の「大学立法」粉砕を期しての長期であって、「無期限」ではないという解釈。 しかし、実質上無期限の果てしなき闘争となろう。 4年生は就職、卒論、中には教職実習など、人生のキーポイントを迎えているわけだが、 それらを十分に認識して闘争を展開していく覚悟がなければ、それは欺瞞となろう! 三浦と就職部で会った。 彼は前日の学生大会で長期ストが可決されたことに、ひどく立腹していた。 「やつらは身勝手だよ!」となじっていた。 俺は「俺も、もう何も積極的に突っ込んでいくことは、やめた。 セクト主義で意欲が湧かないよ。理屈をこねまわして、内ゲバで革命戦士ぶるぐらいだっ たら、疲労しないがな」と言って別れた』 ・6月11日(水) 『昨日は思い切って職場を休み、久々に家の月並祭に参列した。 (※注・天理教団の末端教会の月一の例祭(毎月10日)。神殿の神床で、着物・袴を着た 男女3人ずつが、いわゆる神社の神楽づとめを平易にしたような手踊りを、地方(じかた) が歌誦する「みかぐら歌」と、鳴り物(拍子木・太鼓・鼓(つづみ)・当たり鉦(かね) ・銅拍子・篠笛・琴・三味線・胡弓)の奏でる音に合わせ、皆が一手一つに「感謝の念」 を奉納する祭りごと。毎月、約30名ほどの人が寄り集って、明るくおごそかに行われて いた) 女鳴り物といって、琴・三味線・胡弓は女性が担当する。あとの男鳴り物という打楽器関 係などは、おおむね男性の役割だった。どの鳴り物も覚えるのに修練が必要だが、誰でも が皆、上手に奏でていた) 私は前半は笛を吹き、後半は地方をした。久しぶりだったが笛の音色も地方の声も良く出 て、充実感に包まれた』 (※注 11日の日記はこれだけだったが、折角の機会なので、ここで少し長い注釈を入 れます) 私は教会長の子弟だったので、小さい頃から、この月並祭の準備・献饌(けんせん。神前 に、米や神酒や乾物、魚、野菜、果物などの海の幸や山の幸のお供物を供えること)・神 事(祝詞等)・おつとめ(座りづとめ・立ちづとめ。1時間弱)・直会(なおらい・祭典 が終ってから、参拝者一同で神酒・魚や野菜などの神饌をおろしていただく酒宴)・後片 付け・掃除を、皆と一緒に一日仕事でした。 私の場合、それは信仰心以前の問題で、教会という家に生まれ育った子供として、自然に 培われた責務だった。 そして、20歳を過ぎた頃から40歳頃までは、職場を休み(これは辛かった。年次有給 休暇の多くを割かざるを得なかったから)月並祭の主軸となって動き回っていた。特に 「おつとめ」での地方(じかた)と笛は、全体をリードする役割で難しい役割だっが、私 は御神楽歌を歌唱する地方と、唯一メロデイーをかなえる笛を主として担っていた。どち らも全員が「一手一つ」のおつとめを完遂するのに、重要なパートであった。それだけに、 成し遂げたあとは汗をびっしょりかき、全員の醸し出す達成感や喜びを同時に共有できる ものであった。 私自身、親のアドバイスで天理高校に進学し、特に教会子弟は学費が猶予され、卒業後、 お供え(寄付)や日の寄進(労務提供等)でお礼をする奨学制度が適用され、無事に高校 を卒業していたので、信仰云々以前に、自分の最低限の義務として親や教会の手助けにな ることをしていた。 前回述べた「いちれつ会館」での東京学生会への参加も、その一つだった。 ちなみに、学生会では「議論ばかりしているのではなく、具体的に少しでも社会に役立つ ことも実践しよう。まさに「ひのきしん」を!と提唱し、早朝の「国鉄(今のJR)御茶 ノ水駅」の便所掃除を、数人の有志で1週間続け、その後は「神田駅」等でしていた。 当時は駅の掃除は委託ではなく駅員の仕事だったので、すごく感謝された。だが、私はそ の後に役所に登庁するので、正直、しんどかった。 そこで「そうした行動はさておき、天理教への信仰心はどうだったのか?」との疑問を呈 する声も、あるだろう。 端的に言えば、行動は同調していたが、精神的には「神への畏怖、天理教への強い信仰心」 は無かった。 だから今まで教理を勉強したのは、高校の宗教の授業の場だけだった。 それ以上でも以下でもない。したがって、東京学生会での教理研究の勉強会には、一度も 顔を出していない(不謹慎?かも知れないが、その時間はデートや飲み会やスポーツに費 やしていた) だが、小さい頃から聞かされた、両親が諭してくれた、わかりやすい幾つかの教理からの 言葉が好きだった。そして子供心に納得して今日に至っている。 例えば「人類は国や人種は異なるが、みな一列兄弟姉妹なんだよ。人は心が違えば、性質 も特技も持ち分も、みな違う。だから人類はお互いに補い合い、相手を立て合い助け合う ことが大切。神様の願いは、皆だれもが分け隔てなく、明るく陽気に生きられる世界を見 ることなんだよ。自分さえ良ければという欲を捨てること。人を助けてこそ、わが身が助 かる。はたを楽にすることが働く(ハタラク)の意味だよ。不足不満をいうのでなく、勇 んだ心で、今日一日という気持で陽気に暮らすように。それが最高の生き方だよ。「あり がたい、ありがたいな」と感謝してね。トモヒトは短気で高慢なところがあるよ。理想は 高く持っても心は低くね‥等々」 それと、宗教団体はどこでも同様に「信者集団としての親和と同時に、集団への強い帰属」 を求める。ある種の統制が働き、異端者を排除し、他の教団・宗派を敵対視する本質があ るといえる。宗教団体と言えども、どこも企業や収益団体と同様で、利用者・会員という 信者の獲得・拡大が組織の維持運営に欠かせない。異端者は腐ったリンゴで排除。あるい は世の中がみな、同じ信者になれば「平和な社会」が実現すると考える。 思想統一。誰もがみな同じ考えで、同じ規律の下で生きるのが理想社会なのか・・。 例えば一党独裁政治・国家主義社会を理想郷と見立てるように。 宗教とはそういうものなのだろうか・・・。 私は小さい頃から、そんな疑問を抱いていた。勿論、天理教に対しても。 だが、経験的には「天理教は他者(他団体)に攻撃的だったり、信者に抑圧的ではなく、 みな素直でおだやかな団体」と感じながら育ってきた。 子供の頃の私には何とも頼りなく感じたが、巷間の「汝の敵を愛せ」という教えに対して は、「汝の敵を、敵と思うな」となるのだ。 悪口を言う人を敵と思って憎むのではなく「あの人は私のことを考えて言ってくれたこと なんだ。自分の成長を助けてくれたんだ」と思い、こちらから笑顔で向かう。敵も敵では なくなると。 「そんなこと、出来っこないじゃないか!」と思ったが、ある時には「そうだな。あいつ も俺が敵に見えて悪口を言っているんだな」と直感し、ある日、思い切って笑顔で話しか けたら、相手は驚いた顔で応対した。 それからは普通の付き合いが出来るようになった。 自分たち仲間内では親しく同好的だが、考えや立場が違う者に対しては、攻撃的な団体が 多いのは、宗教の世界だけではない。 やたらに「断固勝ち抜く!」「この新型コロナに打ち勝つ!」「不屈の精神で前進せよ!」 「敵を地獄に落とし込め!」などと、物事を勝負に見立てて発破をかけ、組織の意にそわ ない者や脱退者には「あいつは駄目だ!」「地獄に堕ちろ!」と罵倒し、嫌がらせや村八 分にする。 この世界、この日本社会でも陰然とそれは存在している。勿論、近隣の一党独裁国家を上 げるまでもないが。 天理教は教祖が農家の主婦だったせいか、とにかく穏やかな、つつしみのある団体だった。 そう思って生きてきた。 しかし後年、私共にとっては大組織の指導者(上司)が突然に、うちの小教会の不動産登 記や代表者の変更を命令し、これに従わない当方に「今の教会を出ていけ。さもなくば叩 き潰す」と周囲の役員に宣言してから、私の各論は変わった。でも前述の「敵と思うな・・」 の諭しではないが、「双方、こうした係争を起こさざるを得ないのも、なってくる理なの かもしれない」と思い直し、私共は天理教組織から離れたが、総論に対する評価は今でも 変わらない。 私の今の信念は「どこの政党や宗派にも帰属する気はない。あるのはサムシング・グレー ト(宇宙の何か偉大なもの・神)の存在を信じていること」 の一言に尽きる。 (※2013年2月21日「私のスタンス」を是非参照ください) 先日、没後50年の三島由紀夫の本について触れたが、再度何冊かを読んで、驚いた。 それは「愛の渇き」という、昨年秋に新版として新潮社から出版された文庫本。これは面 白かった。 「仮面の告白」や「金閣寺」は、今読んでもなかなかすんなりとは腑に落ちない。難解な 修辞を幾重にも重ねて構築した虚構・空想の世界を、巧みな構想であたかも現実の世界の ものとして披歴しているのだが・・・。 だから、彼の小説を読むなら、仮面や金閣寺から入らず「宴のあと」などを読むと面白く、 秀逸。 「愛の渇き」が、まさにそれだった。 初版本(昭和27年)で、文芸評論家の吉田健一(注・吉田首相の長男)が解説でこう書 いていた。 「これは三島由紀夫の作品の中でも、最もまとまったものの一つである。 この作品は、我々に小説というものそのものについて、考えさせる気品を備えている」と。 昨年秋に出版された新装版の解説では、芥川賞作家・石川遊佳が、こう書いている。 「明日から監獄に行くとして、5冊まで好きな本を持って行っていい。 そう言われていつも連れて行く一冊が「愛の渇き」だった。旧版で240頁、この作家と してはコンパクトなこの作品は、じつは三島文学の中でも屈指の名文ひしめく優品なので ある」と。 この本のモチーフは「夫を亡くした主人公・英子が、戦後、元関西商船大阪支社の社長だ った吝嗇化の舅(しゅうと)の側女(そばめ)のような立場で、舅の大阪郊外の別荘兼農 園に身を寄せ、舅や義兄夫妻、義妹そして園丁(奉公人)の少年・三郎、若い女中らとの 退屈な生活から生まれる、複雑な心情の揺らぎ」 主人公の英子の妄想の対象となるのは、小僧の三郎。 少年はすぐに逞しいしなやかな肉体と、素朴で明るい働き者の青年へと変貌していき、英 子の三郎への歪んだ渇望が、そこから始まる。そして事態は悲劇で終わる。 この三郎の名前は、本を読みだすとすぐに出てきたが、私は驚いた。 「三郎というこの子供は、母親ゆずりの天理教信者で、4月と10月の大祭には、天理の 信者合宿(注・正しくは詰所)で母親と落ち合って、背中に白く天理教と染め抜いた法被 を着せられて、御本殿へ詣でるのであった」とあるのだ。 さらに驚かされたのは、次の文。 ある日、三郎などを含め一家全員で近くの野原にピクニックに行った。 姪が小さな野の花を摘んで、英子に花の名前をたずねた。 知らなかった英子は、三朗にたずねた。 「三郎は、花をちらとみると、すぐ悦子の手へ戻して、 「はい、むらすずめの花と言います」と答えた。 花の名の奇異であったことよりも、花をつきかえす彼の腕の眩い速度が英子を驚かせた。 耳ざとくこのやりとりをきいていた千恵子(注・義姉)が言った。 「この人ったら何も知らないような顔をして、何でも知っているのよ。 天理教のうたをうたってごらん。よくもおぼえたと感心するわよ」 三郎は頬を赤らめてうつむいた。 「ねえ、歌ってごらん。何を恥ずかしがってるのよ。歌ってごらん」 それから三郎は生真面目な表情にかえって、彼方に見渡される隣村のほうへ目をやりなが ら、まるで勅諭を暗唱するように暗誦した」 私はこれを読んで、感嘆した。 私もうろ覚えの、長々とした御神楽歌の歌詞が続いていたからだ。 そして「この本が出版されたのは、昭和27年3月。すると、三島由紀夫がこれを書いた のは昭和26年頃のはず。良くこれほど詳細に調べて書けたものだ」と思い、高校時代の 友人・森口君に電話し、教団が毎月発行する昭和26年分の雑誌を図書館で調べて貰った ところ、あったのだ。 同年8月に「三島由紀夫氏・宗教と文学を語る」と題する対談が掲載されていた。氏の伯 母が敬虔な天理教信者で、氏も一度お地場(天理)に参詣していたのだ。 対談で、三島氏はこう語っていた。 「天理教に対しては宗教として一番の好意と関心を持っています。 私の伯母という人は、親類中で一番幸福な人なのです。本人もそういうし、傍から見ても 確かに幸福そうに感じられますが、物事に屈託がなく、非常に割り切っていますね。明る く朗らかで、物欲というものがない。 私はこういう伯母の楽天性を通じて、天理教は非常に明るい宗教だと思うのです。私の親 類は皆、物欲が強くて、いがみ合いばかりしていますが、伯母だけは超然としているので す。 伯母はずっと海外で暮らしていました。ご主人は大連の市長をしていましたがね。夫が亡 くなってから、終戦となって内地へ引き揚げたのですが、非常に思いやりの深い世話好き な人で、自分のことはほっておいても、他人のお世話をせずにおられない人なのです。 引き揚げのときも、何かと人の面倒を見続けているのです。こういう気持は私は単なるギ ブ・アンド・テイク式の考えからではないと思うのです。 性格からだって、生まれないと思うのです。 こういうところが実にすぐれているのですね。 だから、私は比較的物に恵まれている他の親類の中でも、この伯母が一番富んでいる人だ と思うのです。 伯母のそういう解脱(げだつ)の境地には感心させられます。 そして、そこから生まれる楽天性の中に、心がひかれます。 楽天主義も徹しきればいいのですからね。 人間として未発達なのではなくして、あるいは一切を超越する真理なのかも知れません。 そういう伯母の信仰のゆかりで、先年お詣りもしました」 氏はさらに「天理教は生活の上で原始的な人間の喜びを実践している。他の宗派のように 近代人に威圧を加えない」とも評していた。 それは、私が前述した「非攻撃的」「やさしさ」に通底した評論だったので、あらためて 氏の観察力に感心させられた) ・6月12日(木) 『登校すると、社会3年・4年と社会教員との合同討論が企画されていた。旧2Aの連中 はスロープで黒旗を下に、学内デモに出発しようとしていた。俺は久古と立ち話をした。 「俺は出来うる範囲でしか参加しないし、出来うる範囲のことをやっていく!」と言った ら、彼も同調して大きく頷いた。 教育実習校が決定した。「T学園」である。 政経を教えることになった。 俺が教科の中で一番遣り甲斐を感じる科目だ。 オーイに頑張ってやろう! 健康診断を国立第一病院に行って、受けてきた。 たっぷり血を採られたが、これで丁度いい』 ・6月14日(土) 『本日は夏期手当の支給日。 土曜日だし快晴だし、どこかに遊びに行くには絶好だが、それでも「上級」のためのはか なき勉強をしなくてはならず、籠城となるだろう。 あの何となく面白い、革マルシンパの田中が、先日長野に行き、婚約をして来年の挙式を 決めてきたとのことだ。道理で近頃の彼の言動が大人しくなっていたので、うなずけた。 俺にとっては、就職どころか結婚さえも、非現実的課題のままだ。』 ・6月17日(火) 『いま、Kを送って帰宅した。午後11時15分。 Kと新宿のプリンスで雑談を楽しんでいた。 そして、そろそろ帰る時間かなと思いながら、何気なく悪戯半分に 「君が今までにキスをした人は、何人?』と、たずねた。それもほんとに、さり気なく。 それが問題だった・・・。 俺にとっては軽い質問だったが、彼女のプライベートにトゲを刺すことになろうとは。 大人しく黙っていたので、「もういいよ」と笑ったら、彼女は「一人・・・」と呟いて、 あとは彼女のアメリカ行きの話をして、店を出た。 小雨がパラついていたが、家まで送っていくことにした。 田園調布の駅を出て、並木道をゆっくり歩いて行った。 すると下を向きながら歩いていた彼女が、突然涙声で「相手は、いとこ・・つい最近・・ こわれたの・・・」そう言って片手で涙を押さえながら歩いていた。 俺は胸が締め付けられる思いで、彼女の肩にそっと手を置き、無言で歩いた。彼女にはそ んな悲しいことがあり、それを俺の一言が追い打ちをかけ、言いたくないことを言わせて しまったのだ。そう考えた瞬間、チリチリと胸が痛み、激しく情感が昂ってきた。 彼女は「でも・・神様に感謝しなくてはいけないな、とつくづく思ったわ・・。貴方がい なかったら、私、学校にもどこにも、こんな平気な顔をして行けないでいたと思う・・・」 俺は足を止め、彼女の顔を見つめた。 Kは再びすすり泣きながら、俺の胸に顔をうずめてきた。 俺は彼女をやさしく抱きしめ、しばし佇んでいた。 そして嗚咽がやんだ彼女の肩を軽く叩き、「おやすみ」と言って駅までの道を引き返して いった。 「笑って話せる時まで、黙っていたかったの・・。でも、あなたが誤解しているみたいだ から・・・」 そう涙を流しながら、俺の胸の中で話してくれた彼女の声が、今でも心に重く残っている。 先刻の愚かな質問と、それをする稚拙な精神に嫌悪を感じながら』 ・6月21日(土) 『曇天のうっとうしい天気が続く。 身体は自分の意思とかけ離れて、だるい。 仕事にもその他にもヤル気が出ない。 平和友好祭の実行委員会が、今だ決まっていない状態。 青年対策部部長(注・厚生省労働組合統計支部)としての、この1年間を回顧すると。前 半・中盤はよくやって来たと思う。 しかし後半が尻すぼみになっている。 それは、俺の気まぐれ、やる気のなさ、マンネリに起因。 こんなことでは、何をやっても駄目だ。 弱い。本当に弱い。この弱さを救ってくれるものは何か? それは恋人でも友達でも何でもないのだ。 甘い幻想を捨て切った自分自身しか、救うものはいないのだ。 平和友好祭の実行委員長を引き受けようか。 逃げることなく、アタックしていってみようか』 ・6月25日(水) 『昨日、早稲田に行った。全共闘と民青の内ゲバがあった4号館周辺は、ガラスの破片や 石ころが散乱していた。 途中、田中に会った。「301へ来いよ」と誘われたが、行かなかった。 就職部に行く途中、久古に会った。 「俺は、もうこうなってしまったら、就職なんて出来ないよ。 先輩か誰かに頼んで、勤め口を探すよ・・・」 そう言った彼に、俺は何も言えず、片手を上げて別れた。 帰宅したらMさんから手紙が来ていた。 3月末以来の音信だった。 「私は東井さんが好きでした。初恋・・私にとって本当の初恋になると思います。私は美 しくもないし、いつも殻に閉じこもった心の貧しい女の子でした。・・・東井さんにとっ て忘れられない想い出は、私にとっても忘れられないことになるでしょう。 今は、これからの人生を、よりすばらしい女性として生きていきたいと思っています・・・」 読み終えて、彼女は20歳になったことを、何の脈絡もなく想い出した。 幸せを祈るばか りだ』 ・6月30日(水) 『今日で6月も終わり。 青年対策部の最後のヤマ場に来た。 「平和友好祭」「青年集会」これらを何とか成し遂げよう。 色々としんどいだろうが、もう一度、心を奮い立たせよう。 きっと道は開ける!』 以上が52年前の、本格的な夏が到来する季節の日記でした。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |