東井朝仁 随想録
「良い週末を」

並木よ坂よ・・・(6)

(前回の続きです)

・昭和44年7月1日(火)
『今日から7月。1年の後半のスタート、夏だ!
昨夜は職場の数人と、早稲田で飲んだ。
心身ともすっかり泥酔してしまった。「愉快」そのものだった。
AもSも(注・私の3~4歳上)、「女性」についての経験に基づく考えを吐いていた。
それが二人とも似通った考えなので、そういうものかと思った。
「男は20歳頃と25歳の頃では、全然、女の受け止め方が違うと思う」と言っていた。
男が女をどう受け止めて見るかだと思ったが、女が男を見た場合の受け止めかだったか?
酔っていて良く分からなかったが、どうも「男が20歳頃は女性を単に友達としか見ない
が、25歳の頃になると結婚相手としてどうかを意識する」ということ、だったと思う』

(※注・私はこの日記を転記しながら、当時の何人かのガールフレンドの心情に、今更な
がら気づかされた。勿論、当時からうすうすとは感じていたが、やはりそこに、前述のよ
うに男と女の、いや私と相手の意識というか、人生における季節の捉え方や人生の設計図
の描き方に、大きな相違があったのだろう。
お互いに、ほのかな好意を抱きながら交際(つきあい)をし始め、何回かのデートを重ね
たとしても、例えば私の心は「楽しい。素敵だ。また会いたい」という幸せな気分で、ま
た同じような交際を継続するのが自然な行為(好意でもある)なのだが、相手はそれが
「結婚」を前提とした交際、結婚へと続く日々であることを確信できなければ、「不安」
になるのだろう。
結婚が確信できない相手では、どんなに素敵なデートを繰り返しても、それは旬の女性と
しては時間の浪費、不毛な付き合いと考えても不自然ではない。
今更ながら、彼女らの心情が十分に理解できるのだが、やはり「結婚ありき」で始める付
き合いは、当時の私にはあり得なかった)

・7月9日(水)
『昨日、俺が作った組合の半ビラに対する批判が出た(注・今思い出そうとしても、どん
な内容だったか分からない)
「ちょっと、不謹慎だ。組合として出すのはどうかと思う」という声があった。
結局、今日配付するのをやめた。
支部長は「出せよ」と言ってくれたが。
役員選出の問題で、何人かの民青の組合員と感情的にいがみ合う。
「セクト主義を優先しすぎる。職場では並列に物事を考えてくれないか」と、腹を立てて
しまったが、仕方がない。
そろそろ組合役員を降りるか・・。

帰宅すると「小学館」からの受験票が届いていた。
てっきり、書類選考で落ちたと思っていたので、嬉しかった。
といっても、試験はこれからなのだ(注・当時は我々団塊の世代が大挙して就職試験を受
ける時代だった。団塊の世代の過当競争は一生もので、現在は介護福祉施設等の入居や墓
地確保の競争とでもいうのだろうか)』

・7月10日(木)
『夜、中学時代の同級生のCさんと、帰りのバスの中で会った。
同じバス停の「元競馬場」で降りた。近所ではないが同じ地元だったのだ。
彼女は明るく機転が利き、小雨が降る中、サッと傘を差しだしてくれたので、肩を並べて
歩いた。そんな躊躇ない出会いだったから、こっちもサッと喫茶店に誘い、近くの茶店に
飛び込んだ(それでも、コーヒー1杯が200円!)
お互いに中学時代の印象が殆どなかったが、顔は覚えていた。
彼女は短大を出て広告会社に勤めているとのこと。
紅いマニキュアを塗っていたが、ショート・ヘアでミニのワンピース。
全体に清楚ではあった。
俺はあまり会話が進まなかった。明日の早朝職場大会の準備のため職場に残って作業をし
ていたので、疲れていた。
それでもお互いに電話番号を交換して別れた』

・7月13日(日)
『小学館の試験で、三田の慶応大学に行ってきた。
一般常識・筆記・英語そして文章創作があり、まあ、そつなく出来た。
早大からも横井をはじめ多数来ていた。
書類選考をパスして受験した者だけで、1200名も受験しているとのこと。
その中で数えるほどしか採用しないのだから、余程の点を取らないと無理だろう。

試験終了後、Cさんに電話してみた。
「何してるんだい?」
「洋服作ってたのよ」
「ヘエー、たいしたものですね」
「今度着ていくわ。バッチリと!」
17日の発表日に、良きにつけ悪しきにつけ、会うことにした』

・7月17日(木)
『朝方は曇っていたが、良く晴れ渡ってきた。
今日は給料日。昇級月だったので手取りが25000円になった。
今からCに会いに、有楽町へ行く(注・夜学生の退庁時間は午後4時半。
何と恵まれた当時の勤務条件!)
これで小学館の筆記試験の合格連絡があれば、良かったのだが。
どうも駄目らしい。
と書いていたら、今、家から電話があった。
筆記試験に合格した。さて、出発だ!』

・7月18日(木)
『昨夜はCと有楽町で待ち合わせ、初めてのデイトを。
寿司屋に行ってビールを飲みながら夕食。
それから日比谷の映画館に「青春の光と影」を観に行った。
詩的でミュージカルっぽいテンポで、物語が展開。
結構、おもしろかった。

今日は、水道橋で降りて、小学館の第一次面接に行ってきた。
約100名ぐらいが選出されて来ていた。
この後、20名ぐらいにふるい分けられて第二次面接となる、とのこと。
二文の連中からは、やはり柴田が来ていた(注・彼は最終的にNHKに就職。のち、テレ
ビのアナに)
面接は6名の審査員の前での、個人面接法で行われた。
俺は「学生運動についてはどう思いますか?」
「革マルと民青では、どちらが好きですか?」
「天理教は?」などと、極めてイデオロギー的なことを焦点として質問を浴びせてきた。
俺は明快に答えていたが・・・どうも駄目そうだ。
果たしてパスして、明日の第二次最終面接に進めるだろうか?』

・7月19(土)
『6日連続の30度以上の猛暑。
だが、燃えたぎる太陽で、湿気がなく、空は鮮やかな青。アブラゼミのなきごえが響き渡
る。すっかり夏になった。
今日も午前中、有給休暇をとって小学館の第二次面接へ行ってきた。
何と、期待してなかった一次面接にパス。
受験者も100から20名ほどに。
二次面接では、希望職種だけを聞かれた。
これで配属を内定するのでは、と思った。
着席すると単刀直入に「東井さんが希望する職種は、何ですか?」
と聞かれた。
俺ははっきりと考えていなかったが、自然に「企画・編集部門です」と、答えていた。そ
れしか希望する業務など思い浮かばなかった。
すると何人かが苦笑し、一人が「君、最初からそれは無理だよ。まず営業なんてどうです
か?」と。
俺は瞬間「そうですね。よろしくお願いします」と答えたら、即OKになると思ったが、
それは言えなかった。本音ではないからだ。
そこで「営業ですか・・・」と呟いて、それ以上答えられなかった。
間を置いてから、「はい、それではご苦労様でした」と打ち切られて、終わった。
これで仕方がない。あきらめた』

(※注・案の定、後日の採用通知はこなかった。そして私は、この時点でも希望する業種
や職種が即断できない自分を恥じた。何となくマスコミ・出版関係、それも企画・編集な
どといった程度なのだから。
そもそも官か民か。民なら何の業界、どこの会社か。会社ならどういった業務を希望する
のか・・・。全く五里霧中だった。
だから、私の就職試験は、この1社で終わりにすることに決めた。
すると、何かすっきりした気分になったことを、今でもはっきりと覚えている。
その代わり、とりあえず秋の「国家公務員中級職試験」の合格を期し(注・合格した)、
まだ数年間は、労働環境が良い統計調査部に籍を置き、色々なことを経験して勉強する中
で、自分の進む確たる道を見つけようと決心した。
そうした気持は、もしかしたら役所を早期退職した56歳まで続いたことになるのかもしれ
ない。
結果的に「自分が歩んできた道は、自分が望んだ道」と、退職の日に得心した)
2004年2月20日付「21回目の辞令交付(3)」を参照ください)

・7月31日(木)
『関君と服部君らと一緒に、統計の職場サークルとして「マスコミ研究会(仮称)」とい
う新聞部を創設することを決定。
半月に1度ペースで独創的な新聞(ガリ刷りで藁半紙両面)を発行し、その場を我々の発
言の場、職員の意見の場にして、職場の活性化を図っていくことを確認した。
今から楽しみだ』

(※注・私が本省へ異動する25歳までのほぼ3年間で、100号を発行した。このミニ
コミ紙は、職場で結構評判になり、私たち部員も真剣に時事問題や社会問題などについて
勉強し、積極的に意見を述べた。他にレコード観賞会や広く職場の人達の雑談会などを開
催して楽しんだ)

・8月1日(金)
『昼休みに、霞が関の大蔵省包囲デモに駆けつけた。
「人事院勧告を大幅に上げろ!」
雨をついてのシュプレヒコール。
集会が終って、統計までの帰りに乗ったタクシーの運ちゃんの話。
「今のお役人は、本当に頭に来ちまうわナ。チイットも儂(わし)らの事、考えてくれん
もネ。よく、身体の不自由な子がおっかさんにあやされて乗ってくるが、可哀そうだなと
思うもネ。儂にも、ついこの間、子供が出来たが、五体健全であってくれて、何かうれし
かったもネ。
だけど、不自由な身体を治そうと高い金払って、あっちこっち病院まわって、大変だと思
うね。
親がいくら働いても、おっつかないやネ。
そんなのは、一人の力じゃ、どうしようもないと思うもネ。
良くわからんが、生活保護受けてる人のオカズ代が、5円か10円て新聞に書いてあった
がナ。いまどき5円か10円で何が食えんのかと、不思議になるもネ。本当、可哀そうだ
ヨ。
もうちっと、何とかならんかネ。あんたたち厚生省の役人さんだろうが、お役所には話の
わかる人はいんかネ?
もっとも、役人やっていくには、よっぽど頭がいいか、よっぽど頭が悪いかじゃなくちゃ、
やっていけないって話、聞いたことあるがネ、本当。
やっぱし、つきつめると、いまの政府が変わらんと駄目だろうネ」

マスコミ研究会の機関紙の件で、またまたメンバーと「ふじ」(注・職場近くのフジテレ
ビ隣の喫茶店)に行って検討を加える。
題名や企画を論じ合うのは、楽しい。
創刊号は特に入念に考える必要がある。

五木寛之のエッセイ集「風に吹かれて」を読んでいる。
淡々とした運びが一風の情趣をもたらしてくれるようだ』
(※注・若い頃の私が一番好きな作家で、その小説にのめりこんだのが、昭和41年に
「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞した、五木寛之の本だった。「さらばモスクワ愚連
隊」「青年は荒野をめざす」その後の「青春の門」「恋歌」「内灘夫人」「ガウデイの夏」
など、発刊されるたびに次々と読んだ。最後の長編小説(?)になるかもの直近の「親鸞
・全4巻」まで、彼の著書(小説・エッセイ)は殆ど読んだと思う。
ストーリーの展開は五木寛之、文章表現は井上靖、そして人間の深遠な感性は両者から学
び、享受していた)

・8月2日(土)
『レクタイムをとって、休んでいる。
朝から「憲法・精解」を読んでいた。
ただ読んでいくというのは、酷く苦痛なものだ。小説の類なら「読んでいる」という意識
は働かない。
午後3時に高田馬場に映画を観に行った。
2本とも外国の「暴力もの」だったが、日本のと違って、何かしら社会的要素が働いてい
る。
「もし、他人がヤクザに恐喝されていたら、あなたはどうする?」という命題を投げかけ
ている「ある戦慄」(注・題名) 俺だったらどうするだろう?と考えさせられた。
年端も行かないチンピラに手も足も口も出せないで、見て見ぬふりをしているなんて、全
く腹立たしい限りだが、「もし、飛びかかって、刃物でブスッと刺されたら・・・」なん
て想像すると、日和見的になってしまうが。
夜のテレビドラマで「俺は、他人を批判ばかりしてて何もしない奴や、日和見の奴や、主
張のない奴は嫌いだ!」という会話が出てきた。
「颱風とざくろ」で、大学紛争(注・当時の東大紛争だろう)の渦中にいる学生がほえて
いたが、昼に見た映画と重複して、心に残った』

・8月5日(火)
『昨日、「大学立法」が強行採決された。マスコミから「戦後もっとも暗い日曜日」「議
会制民主主義の死滅」という言葉も聞かれた。
そこで、我がマスコミ研究会でも急遽号外を作り、職場に机上配付した。
8月11日に創刊号を出す予定だったが、その前に号外を出すことになるとは』

・8月7日(木)
『昨夜、会議のあと、Tさんと日比谷界隈を散策し、有楽町で喫茶店に入った。
外の湿気を逃れ、冷房の効いた店内に流れるメロデイを楽しんでいると、何となく初秋の
ような錯覚が生まれた。
「まだ8月上旬か。早く9月が来ないかな。今はマンネリの連続で堪らないが、9月にな
れば何か素晴らしい情況が開かれてくる気がするんだ。
季節が変わると環境も心も変わってくるからな・・」
「そうね。秋というと、一人になりたいと思うわ。孤独・・本当に孤独になれるわね」
「そうだな。僕は秋と聞くと、慕情って感じるな。そして、とりとめもなく空想に耽るよ
うになるね。学校が終って、馬場下から駅まで歩いていくのが、何とも好きなんだナ!」
「私も早稲田の街が好きヨ」
彼女と他愛のない話をして外に出ると、冷え切った身体に、一瞬、夜の熱気が心地よく感
じられた』

・8月9日(土)
『昨日、早大へ行った。
夏の夕刻の光が、蔦の絡まった校舎を包んでいた。
学生の群れも、スピーカーのアジもなく、学園紛争の真っただ中のキャンパスにも夏休み
の気配が色濃く立ち込めていた。
何となく就職課の階段を上っていくと、一人の女性が汗をふきふき、掲示板を見上げてい
た。
いっときは、掲示板に溢れるばかりに貼ってあった求人案内も、今は名もない会社がわず
かに、広いスペースの片隅に貼ってある程度となった。
人影もないその廊下を、今も毎日通い詰めている人の心境は、どんなものだろうかと推察
してみると、寂しい憤りが心をくたびれさせた』

・8月12日(火)
『昨夜は「発言」(マスコミ研究会)発行の為、夜10時ごろまで残り、ガリを切り、輪
転機を回していた。
お蔭で今朝、待望の創刊号を配布することができた(注・500部印刷)
これから粘り強く、フレッシュに続けていこう』

・8月13日(水)
『バレーボール部の練習を、そろそろ開始する。
主将として、全体をリードしていくことになった。
格段の努力で技術的進歩を図っていかねば。

(※注 マスコミ研究会はその後、延べ10数名の会員で活動していった。
高校時代に文化系のサークル「地歴部(地理・歴史・考古学部)」の部長として、数名の部
員を数か月で30名程の部員構成とし、活発な活動を展開した経験があったので、これが
そのまま生きた。
この時の、頻繁に文章を書くという経験は、その後、とても役に立った。
また、バレー部(当時は9人制)は、入省してすぐに先輩に誘われて入部したが、その後、
そうした先輩もいなくなり、部は休部状態となっていた。そこで2,3人の先輩が私に主
将を依頼してきたのだ。
私は学校時代に体育の時間に習っただけで、バレーボールは素人同然だった。しかし、無
性に運動をしたいと思っていた時期(21歳頃~)だったので、快諾した。
だが、昼休みの練習にコートに出てくるのは、私以外に2~3名。
それも、私が勧誘したバレーの経験はゼロの後輩ばかり。
それでも毎日、基本運動のあとにパスやレシーブの練習を続けた。
並行して、昼休みに職場の中でぶらぶらしている若い者に声をかけ、入部を促した。「バ
レーなんて、やったことがないですよ」「それでいいんだよ。俺だってやったことないよ。
一緒に練習して汗を流そうよ」
それ以上の誘いはしなかった。「やりたければやれよ。やりたくなかったらいいよ」「来
るものは拒まず、去る者は追わず」が私の鉄則だった。
毎日、毎日、数人の部員だけで基礎練習を繰り返した。
それも元気に楽しく激しく。
文化系でも体育系でも部活の基本は、「活動が楽しい」こと。
何もしない傍観者が「なんか面白そうだな」「みな、和気あいあいとして、いいな」と感
じられること。特に社会人のサークルにおいては。
すると5階建ての庁舎のベランダには、昼食を終えた職員の姿が徐々に増えてきて、みな
じっとこちらを眺めるようになってきた。
500名近くいる職員の殆どが、昼食後はお喋りか、将棋か新聞を読むか、机に伏せて仮
眠しているかだった。若者も同じだった。
私はそんな不毛なつまらない毎日では息が詰まるので、バレーの練習は格好のサークル活
動になった。
そして、自主的に入部を希望する若者が増え、すぐに男女で20名を優に超える部員数と
なり(注・バレー経験者は、先輩の何人か以外はゼロ)、練習も昼休み、退庁時間後、土
曜日の午後、日曜日全日という具合に、練習また練習の日々となった。
土曜日の練習後は、ゾロゾロとみなで近くの居酒屋に行き、そこでビールを飲みながら歓
談したり、部員の歓送迎会や忘年会や懇親会を、庁舎1階の食堂で行ったり・・・。下手
な部員も上手い部員も先輩も後輩も分け隔てのない付き合いを鉄則としていた。
私は、帰宅しても毎日、指立て伏せ(手のひらの腕立てではなく、指を立てての)を50
回、スクワットを50回行っていた。
男女別にチームがあるが、徐々にスタメンもかたまり、対外練習試合が行えるようになっ
てきた。
すると、グランドの南隣にある市ヶ谷陸上自衛隊から、練習試合を申し込まれ(注・翌昭
和45年秋に、三島由紀夫がここの総監室を占拠し、クーデター未遂後、自決した)こち
らが自衛隊の敷地内のコートに行き、何回か試合をしたりした。
また、東隣には第4・第5機動隊の建物が隣接し、いつも庁舎の窓や道端から我々のグラ
ンドの金網越しに、大勢の隊員が黙ってこちらの練習を見つめていたりしていた。こちら
からは、機動隊の建物から日ごと、剣道や柔道の練習の掛け声が響き、脇の道路には「イ
チ・ニイ・サン・シー、ニイ・ニイ・サンシー」という激しい掛け声のもと、整然と隊列
を組んで走る制服を着た彼らの姿を観て、「さすが、泣く子も黙る鬼の第4・第5機動隊!」
と感心していたが、その最強機動隊からも試合の申し込みがあった。
私は内心弱気になったが「よし、やってやろうじゃないか!」と部員に発破をかけて受諾
した。
試合当日は、グランドの金網に大勢の隊員が群がって観ていた。
彼等の躯体は何かのプロ選手並み。サーブやアタック練習でのボールの鋭さは驚異。
しかし命を取られるわけではない。私は「よし、どおってことないぞ!」と部員を鼓舞さ
せて、試合が始まった。
結果、21-10、21-16で負けたが、何となく「みっともないボロボロの試合でな
くて良かった。みなよくやってくれた」と、ほっとした。
話が尽きないのでやめるが、この25歳まで続いたバレー部でのハードな練習とデイープ
な様々な交流は、私の人生において大変貴重な経験となった)

・8月15日(金)
『終戦記念日の今日、「発言」の特集を発行した。
昨夜は、霞が関の本省で「省内対抗バレーボール大会・キャプテン会議」に出席。その後、
組合事務所に寄り、ガリと印刷をしてきた。
せめて、理念の上から反戦の意味、平和の大切さを探っていきたい。
それが戦争を知らない我々世代の、重大な義務だ』

・8月20日(水)
『昨夜、Nさんと7か月ぶりで会った。
喫茶店で駄弁ってから、ビールを飲みに行った。
色々な話をしたが、みんな7か月の空白を埋めて縮めるものばかりだった。
「何か一つでも、二人に共通なものがあると、安心できるものなの、女って・・・。何て
いうかなあ、私、あなたと付き合ってから、ズーッとあなたが別世界の人間の様な気がし
てたの。それで私も背伸びしたり、見栄はったりしたけど、結局今になって、私は弱くて
何もないんだナと、つくづく思ってきたの。そして、それが一番正直で強いんじゃないか
って・・・」
「だから、今の状態だったら、私、あなたに素直に飛び込んでいけるんだわ」
「・・・・」
「東井さんは、女に対して優しすぎるワ・・」
「そんなことはない。俺は冷たい」
「違うわ、優しすぎる。だから女のほうが、いい気になっちゃうの・・・」
Nは自分のことを当てはめて喋ったのか。
すると、俺の「優しさ」というものは、欺瞞なのか?
それとも彼女の方が欺瞞なのか。
今でもわからない』

・8月23日(土)
『今日はレクタイムをとって休んだ。
台風が接近しており、時折、激しい風雨が吹きつけてくる。
弟と雨戸に釘を打ったりして備えていたが、先ほどのTVニュースだと、名古屋付近で勢
力が衰え、二つに分かれたということだ。
台風の季節になると、色々と悩ましい』

・8月25日(月)
『8月も今週いっぱいで終わる。
長かったようで、その実、何もなくサッと通り過ぎたような気もする。
意気消沈した心に鞭打って、ことさら技巧を凝らしてみたこともあったが、自分としては、
例年のように腹をこわすこともなく、調子よく毎日を送ってこられたと感心する。
「生きていることは素晴らしいことだ」といった、すごく素朴な感慨が沸き起こることが
ある、今日この頃。
もうすぐ9月。
季節も変わり、環境も状況も変わり、俺の心境も夢を含んだ秋の装いに変わっていくだろ
う。
あと1か月後に、俺も22歳になる。
青春の真っ盛りに来た!』

以上が、昭和44年4月から8月までの日記の抜粋でした。
そもそも、ちょうど52年前のこの夏の時季に観た、日本テレビで放映された連続ドラマ
「颱風とざくろ」(松原智恵子・緒形拳・石坂浩二等)を想い出し、森山良子が歌う
「並木よ坂よ・・・」の劇中歌をCDで懐かしく聴きながら、日記と記憶を頼りに、とり
とめのないことを書き記してみたのです。
ドラマの原作となるのは、長編小説「颱風とざくろ」。
その著者・石坂洋次郎氏は「颱風に翻弄されながら、必死に咲き続けるざくろの赤い花を
見て、作品の発想を得た」と述べています。

あれから52年後の日本社会も、今、矢継ぎ早の台風や新型コロナという台風に吹きさら
されています。
ここは、ざくろのように耐えぬいて、赤い花を咲かせたいものです。
爽やかな秋空を取り戻すのは、私たち名もなき「ざくろ」なのでしょう。

それでは良い週末を。