東井朝仁 随想録
「良い週末を」

来たかチョーさん

数日前。
「佐久病院にいたチョーさんと言う医師、ご存じですか?
東井さんは確か、佐久病院のことをエッセイで書かれていたので、知っておられるかなと
思って、電話しました」
電話の主は、宮城県在住の友人だった。
突然の、それも超久しぶりの電話に驚きながら「長い短いの長いと書くんだろ。チョーさ
んなら知ってるよ。何で?」と尋ねると。

「今度、宮城県知事選があるんですが、この11月まで現職の村井知事が、5期目を目指
して出馬表明しているんです。対抗馬は誰もいないので、このままだと5選は確実になっ
ています。
でも、私も含めて『村井知事には、もう辞めてもらいたい』と考えている県民が少なくな
いんですよ。そういう人たちは、村井知事が進めている女川原発2号機(注・宮城県女川
町と石巻市にまたがる)の再稼働とか、仙台の4病院の再編方針に、反対なんです。
そうしたモヤモヤ感が県民の中にあるのですが、まだ誰も対抗馬が出てこない、無風状態
なんです。でも先日、長さんと言う医師(注・現在55歳。元石巻市包括ケアセンター所
長。2011年の東日本大震災直後に、19年間勤務したJA長野厚生連立・佐久総合病
院を退職し、宮城県医療団長として2012年春から石巻市立の仮診療所長に就任し、仮
設住宅団地で被災者の医療ケアに取り組んできた)が、立候補を表明したので、知事選に
ちょっと期待が持ててきたんです。
それで、長さんて、どんな人なのかなって。もし東井さんが知ってたら、お聞きしたいと
思って」

驚いた。「チョー(長)さんが、宮城県知事選に?!」と思わず電話口で唸ってしまった。
そして間髪入れずに「よく知っているよ。うちの野球チームが、40年前から毎年、佐久
病院に遠征して交流試合をしているんだが。
彼は医局チームの主砲で活躍していたし、懇親会では酒を酌み交わしながら二人で熱く議
論したりしていたよ。彼は、いつも仕事の話や若月先生の話ばかり情熱的に話していたが、
実直で、何事にもひたむきに取り組む、いい医者だと思ったな」
「佐久病院は、先代の若月院長が長年かけて築き上げた、我が国を代表する地域医療のパ
イオニアだ。長さんは、その若月イズムの後継者を自認し、いち早く被災地で頑張ってき
た医師なんじゃないかな」
「村井知事は5期目を目指すのか。あまり長いと弊害が出るな。特に謙虚さがなくなり、
独断専行になりやすいね」などと私の感想を述べて、電話を切った。

不思議なことがあるものだと、いま感じている。
実は、厚生労働省OBの浅野史郎・元宮城県知事のことを、先日のエッセイ「並木よ坂よ
・・・」で、少し触れてみようと考えていたのだ。
だが、全体の文章が冗長になるので、結局触れずじまいとなった。
その触れられなかったことを思い返し、ここでかいつまんで述べてみると。

7月に神田の本屋街を散策し、神保町の岩波書店経営のカフェ「神保町ブックセンター」
でコーヒータイム。ジャズのBGMが流れる洒落た店内。壁側や間仕切りの書棚には岩波
書店の新刊本などが並び、喫茶する人は自由に閲覧できる。私は軽めの雑誌をと、背表紙
もない小冊子が並んだ棚で、片っ端から本を抜き取り、表表紙の題名を一瞥。
するとその中に「運命を生きる」という私好みの題名の冊子があった。
私の敬愛する老師が60年前(1961年)に書いた小冊子の題名も「運命をひらく」
なのだ。
冊子の題名の下に目をやると「浅野史郎」とある。
驚いた。あの厚生省OBの浅野史郎氏の著書だ。
そこで珈琲を飲みながら自席で通覧。
彼は確か私より1歳年上。
彼は、キャリア事務官として平成5年6月に厚生省生活衛生局企画課長に就任。だがその
5か月後、決然と退職し、宮城知事選に立候補。
その動機は「宮城県知事が収賄容疑で逮捕され、出直し選挙に。すると地元経済界や県議
会などは、副知事を候補者として推挙。逮捕された知事の女房役が、その後釜に座る。そ
んなことが許されるのか」という怒り。
「県民にとって、それは恥の上塗りだ、という思いと、自分が選挙に出る可能性。その両
様の思いで、心穏やかでない日々が続いた」が、正義感の強い彼は、出馬を決意。
そして「時間がない、組織がない、知名度がない、金がない」中での選挙に突入。
結果、浅野氏は大方の予想を覆し、元副知事に大差で勝利し、新知事に就任。そして3期
12年の任期を終え、平成17年にきっぱりと知事を退任された。
退任後、慶応大学の教授を務めているとき、白血病を発症。
だが、この血液難病を「骨髄移植」で克服。
彼は冊子でこう述べている。
「治療を直接支えてくれたのは、優秀で熱心な医療スタッフである。そして命を救ってく
れたのが、骨髄移植のドナーである。
関東在住の40代の男性ということと血液型しかわからないドナーに、どれだけ感謝して
いるか。お会いして、直接御礼を申し上げたいのだが、厳格なルールがあり、それが叶わ
ないのが、なんとも残念である」
さらに、私が最も感銘を受けた次の文章。
「高齢になっても、重篤な病気を発症しても、盲ろうになっても、重い障害があっても、
人生は続く。
毎日生きている意味はある。
そのことを、ATL(成人T細胞白血病)という病を得て、改めて確認した。病気になっ
た甲斐があった。
運命と寄り添って、折り合いをつけながら、残りの人生を歩いていきたい」

浅野氏が厚生省の企画課長に就任したのは、平成5年(1993年)6月。私は、その前
年の平成4年3月まで同企画課に在籍していたので、浅野氏とはすれ違いだった。浅野氏
が企画課に来られた時、私は疾病対策課の「がん対策・骨髄移植推進事業」の担当課長補
佐として、骨髄バンク推進にかかわっていた。
そのせいかどうか、何となくご縁を感じてきた人だった。

2021年宮城県知事選挙。
長 純一氏が、立候補した。
その動機は浅野氏同様、正義感に突き動かされたのだろう。
彼の公約の内容は、今はわからない。
我々高齢者にとって、残り人生の重要な課題として3K(健康・金銭・孤独)が指摘され
ているが、若月先生が唱えていた「農民とともに」のスローガン同様、「県民とともに」
の精神を基本理念とし、老いも若きも、男も女も、大人も子供も、障害がある人もない人
も、皆が希望を抱いて生きていける、もう一つのK「共生」の実現に力を発揮されること
を、切に期待したいものである。

彼なら、できる。
なぜか?
それは、恒例の野球交流試合で、私の自慢とした渾身の直球を、いつもセンター前に見事
に跳ね返していた、あの一直線のパワーが彼にはあるからだ。
ただしこれからは、直球顔の表情の中に、たまには笑顔の変化球を織り交ぜることも、忘
れませんように。
勝負は、下駄を履くまでわかりません。

「来たかチョーさん、待ってたホイ!」
それではよい週末を。

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