諦観から達観へ(1) |
10月31日に衆議院議員選挙が行われた。 結果は、自民党が現有議席を15議席下回る261議席だった。 それでも総数465議席の過半数(233)を上回る「絶対安定多数」を獲得したことにな る。 私は、選挙直前までの「自民党凋落か」「自公政権で過半数割れも」などというマスコミ の予測報道には、ほとんど懐疑的だった。 なぜなら、以前の民主党が政権を獲得した時のような熱気が、国民の中に沸いていなかっ たと感じていたからだ。 「自公による緊張感のない長期政権は、もううんざりだ」「さりとて立憲民主党などの野 党が政権についたら、不安だ」「与党にも野党にも、期待したい指導力のある政治家がい ない。どの党も質が落ちた」という雰囲気が漂っていた。 勿論、私自身もそうだった。 「この覇気のない、閉塞感に満ちた希望のない日本を革新させるには、汗もかかずに、ぬ くぬくと既得権益の座にしがみついている政治家を、選挙で交代させるしかない。国民に とって今回の選挙は、これからの日本の行方を大きく左右する重要な機会になる。だから、 有権者なら最善の候補や政党が見当たらなくても、次善の策でもいいから、投票をすべき だ。民主主義国家としての要である『参政権』を行使しに、投票所に向かうべきだ。 それでなくては、この国の政治は専制・独断的に陥り、政権(国)に都合の良いように、 国民の様々な自由が規制される社会になってしまう。 まさに民主主義の崩壊につながっていく。日本の新生、可能性を信じ、政治の流れを変え るとしたら、それは今しかない」と。 しかし。 朝のテレビや新聞を見ると、冒頭のように現状は何も変わらなかった。 前夜は、風呂から上がって自室でDVD映画を観てから寝た。開票速報のTVニュースは、 一切見なかった。 夕方のニュースで、投票率が前回同様に低い状況で推移していたからだ。 そのニュースで同時に、京王線の車内で「放火・刺傷事件」が勃発したことを知った。世 の中、あちこちで無差別殺人や放火、暴行、強奪、詐欺事件などの不穏な事件が起こって いる。加えて、異常気象による自然災害や地震も、前から多発している。 まさに末世の感があると、つくづく思った。 私は投票率の中間報告を聴き、「これは駄目だ。今回の選挙も国民の大半は棄権するのだ ろう。みな白紙委任で、選挙など無視なのだ。これでは政治は変わらない」と推察し、そ れなら、選挙速報を知って不愉快な気分で床につくより、早く寝てしまおうと考え、床に 就いたのだ。 翌朝、選挙結果を知った。 案の定、投票率は55.9%と、戦後3番目の低さだった。 野党第一党の立憲民主党は、13減の96議席。 「政権交代もあり得る」とのマスコミの予測報道を、見事に裏切った。 先に述べたように、私は立憲党首の枝野氏の演説や顔つきから見て、政権奪取に本気にな っているとは思えなかった。例え叶っても、この人に総理は向かないと断じていた。そう したことは無党派層の有権者の多くも感じていたに違いない。だから13議席減程度でと どまったのは、まだましと思えた。それより、事前のマスコミによる世論調査に基づく予 測の「軽さ」を、今更ながら痛感させられた。 与党も野党も、驚くほど人材が枯渇しているようだ。 投票率が56パーセント程度。 ほぼ有権者の半分強。 しかし驚くことは、自民党の得票率(比例)は、その34.7%。ということは、有権者 総数に占める「絶対得票率」は19.4%にしか ないということ。国民(全有権者)の約 5人のうち1人にしか信任を得ていないのだ。 連立与党の公明党の得票率12.4%を加算しても、約4人に1人の投票で支えられている のが、新政権だということなのだ。 棄権者が多すぎる。 これが日本の議会制民主主義の実態。 アメリカの二大政党制では、民主党と共和党が激しくつばぜり合いをし、常に政権交代を しながら「緊張感」を維持しているが、それを雛形にして小選挙区制を導入した日本は、 相変わらず与野党とも「危機感」と「責任感」と「スピード感」が感じられない、万年与 党と野党のマンネリ政治体制が続いている。 私は、「もはや、これまでだな」と思っている。 それは、いわゆる「2025年問題」という、日本のまさに持続可能性を確保するために は、避けて通れない重大課題が4年後をピークに差し迫っているからだ。 その重大な残り4年間の政治を担う政権が、こんなに政策論争(外交・防衛、経済、教育、 子育て、医療・介護、防災、脱炭素、格差是正等々の活発な議論)も何もないイメージ選 挙で成立してしまい、果たして禍根を残さないだろうか。 戦後最大の国内外の厳しい情況にあって、今回の選挙は、いくらコロナ禍の最中といえど も、もっと議論をし、悔いのないしっかりした政権を樹立してもらいたかった。 私は、前政権同様に現政権も、何があっても解散・総選挙はせずに4年間は居座り続ける ことと思う。 そして「2025年」を迎える。 私は今、74歳。 2025年には78歳。 団塊の世代(1947年~1950年生まれ)が後期高齢者(75歳以上)になる、あと 4年の日々。 もう少し「期待と希望」が持てる政治社会の中で、高齢期に入った4年間を過ごしたかっ たが、、、、。 諦観が心に漂う、晩秋の今日この頃なのです。 それでは、よい週末を。 |