東井朝仁 随想録
「良い週末を」

新春の雑感(1)

2022年になった。
私にとって75回目の新年だ。
だからといって特別な感慨があるわけではない。
しかし、毎度このエッセイで述懐しているように、歳月の流れの速さには、今更ながら驚い
ている。
また、これはコロナ禍の社会状況とは関係がなく、今まで迎えた74回の正月とは、少し異
質な気分を抱いて新年を迎えている。
昨年までは、単に73+1=74年という時間の積み重ねに過ぎない新年だったが、今年の
心境は少し違うのだ。

そのようなことは、本当はどうでも良いことなのだろうが、私は前年末からこんなことを考
えていた。
「さて、また新たな年を迎える。そして一つ年を取る。
だが、これまでのように今まで歩んできた道の延長線上を、そのまま辿るように生きていく
のも悪くはないが、無為・無策で退屈な日々は送りたくはない。
かと言って、これからは年々心身が衰え、今まで可能だったことも次々と不可能に変換せざ
るを得なくなっていくだろうから、可動域は狭くなる。
そうした自己の劣化を受容しながら、これからの大変動の時代をいかに「面白く」生きて行
くか。それが人生の最終章の課題だ。
天から与えられた時間は限られている。
75歳は、今までの思考や行動をリセットするための、節目の年令かもしれない」と。

私が愛読した作家・池波正太郎氏の人生哲学は、一貫して「人は生まれた時から、死ぬため
に生きて行くのだ」という考えだった。
それは氏の多くの著書のモチーフになっている。
しかし、だからこそ氏の小説には「人は死ぬ・・」という簡明な摂理を脳裏に秘め、日々を
精一杯に真剣に生きる人物が描かれているのだ。
だから私も、「死に向かって漫然と生きるのはもったいない。残りの人生の時間が、どれほ
どあるかはわからないが、だいたい男性の平均年齢は81歳程度。そのプラスマイナス5年
の誤差の範囲内だろう。健康寿命はもっと短くなるかも知れない。だから今年から、10カ
ウントのカウント・ダウンではなく、1年、2年、3年と数えていくカウント・アップを始
める」という意識が働いている。
勿論、そうした思考の根底には「明日は明日の風が吹く」「ケ・セラ・セラ(なるようにな
るさ)」「なってくるのが天の理」という私の人生観というか、達観がある。

話の場面は、先日の元旦に。
毎年の元旦には、我が家(子供達には実家)に子供夫妻や孫が全員集合し、朝から揃って会
食をするのが慣例になっている。
リビングルームに座卓を二つ並べ、全員が座布団に座り、御節料理を食べ、ビールや日本酒
やワインを飲みながら歓談するのだ。
私は、「八海山」の熱燗を、小ぶりの白い酒盃でゆっくりと飲み交わしながら、皆のお喋り
を聞くとは無しに聞いていた。
すると何の脈絡もなく、20年前のことが思い浮かんできた。

2002年2月22日。
この日、このエッセイで「お堀の鴨も心地よく」(注・HPは2002年3月からスタート
しているので、1週間の差で未掲載です。小冊子には残っています)と題し、「今日は
2002年2月22日。2の数字を凝視していると、お堀に鴨が5羽、仲良く泳いでいるさ
まが、思い浮かんできます」などと書いていた。
私は54歳で、大手町の国民生活金融公庫に勤務していた。
昼休みになると、しばしば近くの皇居東御苑まで散策に出かけていたので、お堀のカルガモ
親子の姿も、よく目にしていた。
そしてエッセイを書きながら「2022年2月22日なら6羽になるのか。でも、それはま
だ20年も先のこと。74歳になるなんて、想像もつかないな」などと、遥か遠い先の日の
ことを考えていた。
気が付くと、その2022年がやって来たのだ。
「あれから、もう20年がたったのか!時間の流れはなんて早いことか・・」という感慨が、
ほろ酔いの身体全体に広がっていた。
充実と空虚が、ない交(ま)ぜになった気持だった。

20年前の当時は、長男が社会人2年、娘と次男は大学生だった。
元旦は、お堀のカモの数と同様に5人で、よく食べよく飲んでいた。
その3年後に長男が結婚し、翌年の元旦は総勢6人。
そして、前回の寅年(2010年)に次男が結婚し、2011年の正月は総勢7人に。
その後、2013年には3人の子(私にとっては孫)をまじえて総勢10人に。
その状態が2016年元旦まで4年続いたが、その年の春、次男一家は プラハへ赴任。
2017年の元旦は7人に。それが4年続き、昨年の2021年は、新型コロナ禍で元旦の
集合は中止。
そして3月末、赴任中に第2子を得た次男一家が、4人で帰国。
これで総勢11人になると思いきや、今度は入れ替わるように4月上旬に、長男の妻(某大
手化学系企業に勤務)がシンガポールに赴任した。その企業にとっては初の女性責任者とし
て、中学1年と小学5年になる息子2人を引き連れての海外赴任だった(2人の子供が4歳
と2歳の時、長男が1年間ブラジルに留学したが、その間も、彼女は幼い子供2人を連れて
半年ほどハワイに滞在していた経験がある)
したがって、今年の元旦は8人の会食。
それでも、タブレットの画像を観ながら、LINEでシンガポールの3人と会話を楽しんだ。
20年前には想像し得なかった光景に、これまた何がしかの感慨が湧いてきた。
「子供達も孫たちも、私らの世代とは異なる時空に移行しているようだ。これから先はきっ
と、さらに次元を異にしていくのだろう。社会も時代も、果たしてどう変化していくのだろ
うか」と。

こうした思いは、どこから生じているかというと。
私に限って考えてみると、それは具体的には「旅する力の差」と「言語(特に英語)力の差」
と言えるのかもしれない。
私より子や孫のほうが、加えて家内のほうが、その多くを持ち合わせていると思う。
優(まさ)っているとか劣っているとかの問題ではなく、それは経験の差なのだ。その経験
の差は、育った時代と生活環境と職業、それにその者の有するDNAとの相違から生まれる
ものなのだろう。
私の場合は、官庁に就職し、国家公務員という職種についたことが、大きく影響した。

今までも述べてきたことだが、私が厚生労働省(旧厚生省)に入省し、退職するまでの30
数年の間に、様々な行政施策にかかわれたことは、得難い経験で、楽しく働き甲斐があり、
全く悔いが残らなかった。
しかし悔いではないが、後年になって、「公務員の仕事をしていたから生まれた2つのデメ
リット」を痛感した。
メリットの裏腹として、デメリットも生じるのだろう。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。