新春の雑感(3) |
(前回の続きです) 「旅する力」という言葉は、実は私と同じ1947年生まれで、ルポライター・ノンフィ クション作家として著名な沢木耕太郎氏の著書「旅する力」(新潮社)の題名を援用した。 今でいう阿川佐和子さんのベストセラー本「聞く力」と同類の題名。 昨今「〇〇の力」という似たような本がたくさん出版されているが、阿川さんの「聞く力」 はその元祖的な本ともいえ、今でも売れ続けている。 しかし、「聞く力」は2012年に文藝春秋社から出版されたが、「旅する力」はその4 年前、2008年に新潮社から単行本(税別1600円)で発行されている。もしかした らこちらのほうが元祖かも知れない。 昔から「読む力」「話す力」「判断力」「記憶力」「決断力」「継続力」とか「政治力」 「指導力」「経済力」とか、何かと「力」の文字が入った題名の書籍が多かったが、その 中でもテレビや雑誌の対談等で著名な阿川氏の「聞く力」と、1970年代~1980年 代の若者層に新たな「旅」の概念を植え付けた、当時26歳ほどの沢木氏が敢行したユー ラシアの旅(ニューデリーからロンドンまで)を綴った「深夜特急」シリーズ(1986 年と1992年に、全3巻発行)。その総集編と題した「旅する力」は、それぞれ深く共 感できるものがあった。 特に「旅する力」 先に「新たな旅の概念」と表現したが、それは、「自分が描いた一人での海外旅行を具体 化するため、バックパック(リュック)一つを背負っただけのシンプルな格好で、昼はヒ ッチハイクや乗り合いバス等の公共交通を乗り継ぎ、中継地で異国の人々や風土に触れ、 安い地元の食べ物を食べ、夜は寝袋を使っての野宿か安宿に泊まり、なるだけ経費をかけ ず、自分の心のままに諸国の地と人と空気に接する旅をすること」と、私は解釈した。 バックパッカーが、低廉予算で行う諸国放浪の一人旅。 地図もスケジュールも行先も頭の中に描いてはいるが、その時その場の状況判断で、ベタ ーと思ったほうを選択して、また新たな道を進んでいく・・・。 まさに「冒険」のような旅。 それまでにも様々な紀行文の類は出ていたが、イタリアとかフランスとかでの長期滞在者 が、その居住地の歴史や暮らしぶりを内容としたエッセイが主で、「旅の起点と終点の途 中=旅」そのものではなかった。 また、沢木氏の一世代前の作家である、五木寛之氏の小説「さらばモスクワ愚連隊」や、 映画監督・伊丹十三氏の「ヨーロッパ退屈日記」や、作家・小田実氏の「何でも見てやろ う」などの書籍を生み出した旅もあったが、「バックパッカー」の沢木氏が書いた旅とは 異質の趣だ。 私が22歳で迎えた1970年代当初、日本の若者の間でも、ヒッチハイクや自転車での 日本一周旅行をする者もいたが、バックパック一つを担いだ若者が、乗り合いバスだけで の長期間にわたる海外(冒険)旅行をした例を、私はそれまで聞いたことがなかった。 その点、当時の沢木氏は、若きルポライターとして活躍し始めた頃で(注・私が読んだ沢 木氏の最初の書籍は1976年発行の「敗れざる者たち」)日本社会も1970年の大阪 万博の成功と経済成長、海外旅行の自由化(渡航回数や持ち出しドルの上限額の緩和)、 旅行費用の低廉化などの波に乗り、海外旅行の機運が急速に高まってきた時期だったので、 まさに「深夜特急」が誕生するには十分な情況にあったといえる。 だが、当時の私はその機運には全く無縁だった。 沢木氏がバックパッカーとして海外を旅行していたであろう同時期の1974年10月。 27歳になったばかりの私は、仏滅の土曜日に、市ヶ谷の私学会館で会費制の結婚披露宴 (有志が主催してくれた祝う会)を行った。 そして翌朝、同世代がこぞって新婚旅行にアメリカ西海岸やハワイや香港・マカオに飛び 立っていた当時の風潮に反し、私共は、まさに旅費を抑えるため、東京から鉄路を辿り、 兵庫県の城崎温泉までのつつましやかなハネムーンに出た。 京都からの山陰本線の車中で窓外を眺めているうち、陽は落ち、車内は私共以外に誰もい なくなり、そして人影も絶えた城崎の駅に着いた。 あたりは夜の闇に包まれ、吐息が白くなるほど冷たい夜気の中、夜空を見上げると眩いば かりの星屑たちが、息をのむほどの美しさで輝いていた。 ハネムーンの行く先は、城崎でも京都でも国内の近場ならどこでもよかった。「どうせな ら旅の途中で寄れる、私の伯父さんと、配偶者の兄夫妻の家がある滋賀県方面が良い」と ひらめき、たまたま城崎温泉に国家公務員共済の保養所があったので、東京駅から城崎の 保養所に電話で予約しておいたのだ。 古い木造建築の保養所は低廉な宿泊料金だけあって、1泊2食付(トイレ無し)の2間の 和室で、現在価格だと一人1万円弱だった。 到着したのは午後8時頃で夕食時間はとうに過ぎていたが、職員のおばさんが部屋を石油 ストーブで暖め、座卓の上に食事を用意しておいてくれた。他愛のない田舎料理だったが、 美味しかった。 少し酒でも飲もうと熱燗を2本頼み、旧型の小さなテレビから流れるNHKの日曜日の番 組を観ながら、二人で小さな杯で酒を酌み交わした。 その後、星月夜の明るい道を歩き、近くの公営温泉場に行った。 翌朝、秋晴れの滋賀県に向けて発ち、義兄夫妻や伯父に会って帰京した。 そんな簡便な新婚旅行というか、小旅行だった。 帰路の車中で、私は配偶者に「海外旅行など、これから幾らでもできるよ」と、言わずも がなに語りかけていた。「今しかできないことは今やる。今したほうが良いことは今やる。 そうではないことは急がない」という、プライオリティ(優先順位)の問題なのだ。形式 的な結婚式や新婚旅行にバカ高い金を使うことは、今の安月給の若輩の私にとっては(配 偶者もそうだと理解していた)重要なことではなかった。 私はそれまでもその後も、学割などの色々な割引を使って、北海道や北陸や関西や四国・ 中国地方の鉄道・バスの旅や、普通の自転車(ギヤ・チェンジがきく現在のサイクリング 車ではない)で、東京から奈良までのサイクリング旅行(4泊5日)などを一人で楽しん でいた。 勿論、宿泊は安宿(木賃宿)か、友人や親類の家を利用。 安宿はすべて当日、当地の市街を歩き回って見つけていた。 こんなこともあった。 松山の道後では5軒ぐらい当たってもどこも満室で、陽も沈んできたので、さらに手当た り次第に当たっていたら、快く迎えてくれた小さな旅館に当たった。おかみさんに2階の 部屋に通されると何か甘い香りが漂った。壁紙が暖色系で、女性の部屋のような感じがし た。 おばさんは急いで部屋の窓を開け放ち、お茶を用意するといって階下に降りた。その時、 「ここは、ラブホテルか!」と気づいたが、泊まれるならどこでも御の字だと頷いた。 お茶を出してくれたおばさんに、素泊まり料金を払ったが、驚くほど安かった。その晩は 温泉街にあるうどん屋で、ビールとつまみとキツネうどんを食べ、帰りにワンカップ大関 を買って部屋に戻った。 そして窓辺に座って、夜の通りを眺めながらカップ酒を飲んだ。 翌朝、驚いたことに女将さんに呼ばれ、階下の奥にある私室の茶の間に通され、朝食をご 馳走になった。 「朝食代は?」とたずねると、顔を横に振って笑うだけだった。 私はお言葉に甘え、電気コタツに足を入れながら、炊き立ての白米と温かな味噌汁と魚の 開き・卵焼き・焼きのりの定番朝食をかきこんだ。 こんな旨い朝食は、初めてのような気がした。 脇の火鉢の薬缶が湯気を立て、柱時計は朝の9時を回り、テレビでは春の選抜高校野球が 始まっていた。 私は10時には駅前に出る予定で、それまでの時間、女将さんと世間話をしていた。 次に長距離バスで向かう高知のことを考えながら・・・。 国内旅行は47都道府県のすべてにわたった。 母の実家がある北海道紋別郡(オホーツク海のそば)には、東京から夜行列車と連絡船と 更に函館から鉄路を辿り旭川で1泊し、それからまた列車に揺られての旅行だった。隣家 がまるでない大平原の中に実家があった。私は毎日、単車(50ccのカブ)でビート畑 やトウモロコシ畑が延々に広がる大地を駆け回ったり、一人で馬に乗って遠出をして遊ん でいた(馬は利口で可愛いい。両手の手綱を引くと止まり、緩めて手綱を上下にゆすると 歩き出す。左手綱だけを引くと左に、右を引くと右に曲がる。その間合いを上手くするに は、馬の首を常に優しくさわってあげること) 津波で壊滅する数か月前の北海道奥尻島や、雲仙普賢岳が大噴火する1週間前の水の綺麗 な長崎・島原にも、南国の奄美大島、宮古島、石垣島にも。都市から農村へき地まで、 色々と旅を楽しんだ。 56歳の時、転職して三重県津市に勤務した4年間では、東京と津の間を近鉄と新幹線で 120回ほど往復し、途中、名古屋や浜松などにも何度も立ち寄った。 また、40代から50代にかけての10年間、毎年夏になると札幌に、冬になると沖縄に、 3泊4日のゴルフ旅行に出かけていた。 大きな旅、小さな旅。 すべて楽しかった。 しかし、これまでの海外旅行は数回ほどしかない。 新婚旅行の時に「これからは、いつでも行けるよ」と配偶者に言い聞かせたが、配偶者は まさにその通りの経験をしてきた。 西欧やブルガリアやチェコや東南アジアやエジプトなど、十数か国に行ったようだ。 そして前回まで触れてきたように、子供や孫も同様。 みな、頻繁に外国に行っている。 だが、私が初めて海外旅行に出たのは、40歳の時の出張(ハワイのハワイ島及びオアフ 島)だったから、新婚旅行の13年後になっていた。 沢木氏は「旅はどこかにあるものではなく、旅をする人が自分で作るものである。全てを 自分の好きなようにしていい個人旅行では、どこに行くのか、どのようなルートで行くの か、どのくらいの費用で行くのか、どのくらい滞在するのか、そこで何をするのか・・。 あらゆる決定が旅を作ることに直結する」と述べている。 そして私が最も強く共鳴し、意識が覚醒されたのが、そうした旅を作るためには「旅する 力」が必要だ、ということだった。 そうすると、海外旅行に限ると、私にはチャンスということより「旅する力」が不足して いたのだろうか。 振り返って「旅する力」の本を読んでみると、的を得ている文章に当たった。 「これだな」と思った。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |