新春の雑感(4) |
(前回の続きです) 前回のエッセイは「私の配偶者も、子供も孫もみな、頻繁に外国旅行をしてきている。私 は数回しか行っていない。その差は、沢木氏の書籍の題名のように、私には海外を『旅す る力』が不足しているのだろうか」 と述べたところで、終わった。 ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏の著書「旅する力」(2008年・新潮社発行)は、 氏が26歳の頃(1973~1974年)インドのデリーからロンドンまでの2万キロの 道のりを、乗合バスを乗り継いで行くユーラシア大陸横断の紀行文だ。 バックパック一つを担ぎ、職場の人達の餞別金と本人の少々の貯金をかき集めて旅費を捻 出し、勇躍、海外に旅立った。 旅費はドルに換えて1900ドル。 1900ドルということは、当時の為替レート、1ドル=275円換算で、52万円ほど を準備したということだ。 当時は、ちょうど1973年の第一次石油ショックで、急激な円安基調にあった。現在の 為替なら、1900ドルは22万円ほどにしかならない。 だが、当時用意した日本円の52万円は、現在なら1ドル=115円換算で、4520ド ルほどになる。 現在の日本経済は低迷を続け、当分、円安傾向が続くといわれているが、それでも当時と 比べると、円高だ。 今から20年ほど前、私の長男と次男は、それぞれ大学在学中にインド旅行をしていた (毎夏のように、オーストラリアやキューバや東南アジアなどに旅行していた) 夏休みの30日から40間にわたる、まさにバックパックを担いだ一人旅だったが、格安 航空と安宿を使っての総費用は、確か20万円ほどと言っていた(私は1円も負担してい ないが) はたして今と昔と比べて、海外旅行費用の点では、どちらが恵まれているのだろうか。 いずれにしろ、沢木氏はその52万円=1900ドルで、デリーからロンドンまでのユー ラシア大陸横断低廉旅行を成し遂げた。 だが驚いたことに、東京を発ってロンドンに到着したのは、日本を発ってから1年後のこ とだ。 予算は節約して赤字にならなかったようだが、時間はかかっている。 氏は「3か月か4か月でロンドンに着く。ロンドンの郵便局から『ワレ成功セリ』と電報 を打つから、楽しみに待っていろよ」と友人たちに見得を切って旅立ったが、スタート地 点のデリーに着くまでに、すでに半年の時間がかかっていた。 なぜ、そんなに時間がかかったのか? 東京からデリーまで直行したら、今なら約10時間の飛行で到着するのに。 その理由は、格安のインド航空の片道チケットを買う時、係員の説明で「デリーまでの途 中、2か所だけなら24時間以上立ち寄ることが出来る」というストップオーバー(途中 降機)制度を知り、それならとばかり、香港とバンコクの2か所に立ち寄ることにしたか らだ。 結果、香港・マカオ、マレー半島(バンコク・クアラルンプール等)、シンガポールに寄 り、その滞在だけで半年ほどの時間が経過したという。 氏は後に「旅の力点は、あくまでもデリーから西にあった。香港などはせいぜい2~3日 もあれば十分の、通過地点と考えていた」と述懐している。 だから「深夜特急」の文庫本は第1巻から6巻まであるが、1巻は「香港・マカオ」編、 2巻は「マレー半島・シンガポール」編になっており、第3巻「インド・ネパール」編か らが、当初予定したユーラシア大陸横断の旅の始まりになる。 だが、この「とば口」となる香港・マカオ編も面白い。 面白いからこそ、ついつい長逗留(それも得体のしれない古くて不衛生な極安宿に)にな ったのだろう。 それにしても、こうした時間をかけての一人旅ができるということは、やはり26歳とい う若さがあるからだ。それに大学を卒業して4年間の社会人としての経験(TBS関係の ノンフィクション・ライター)が加味されていたことも、大きかったと思う。 20~22歳の学生では、体力・気力があっても、カネと精神力が足りず、30を過ぎて くるとカネと精神力があっても、体力・気力が少し衰えてくると思う。 この紀行本における要諦は、つまるところ、沢木氏の「初めて足を踏み入れた異国の地に おける、行先のエリア・低廉な宿・乗り物・店・食物・などを探し、比較選択し、利用す るという行為」のルポルタージュ。 他の紀行文のように、名所史跡や風光明媚な景色や、快適なホテルや美味しい食べ物など の紹介記事ではない。日々、「歩いて、尋ねて、聞いて・食べて、見て、話して、寝る」 という、生きるために最低限必要なことの繰り返し。そして言語が異なる異国だからこそ 生じるハプニング。これらのルポルタージュが肝(きも)なのだ。 日本では空気のように流れる時間も、異国の地では、毎日が濃密に呼吸する時間となって 流れる。香港もマレー半島もインドも、どこもここでも付きまとう苦労は、言語の違い。 意思の疎通の難しさ。 最低限の共通言語となりうる英語さえも、殆ど通じないし、使えない。 例えば低廉な宿があるかどうか、その宿はどこにあるのか、宿までバスで行けるかどうか、 宿の値段や室内の設備やサーヴィスはどうなっているのか、食堂や屋台でのメニューや味 や料金は等々、その場面ごとに人に尋ねる。相手は宿主だったり、店員だったり、広場で 憩う地元民だったり、行きずりの異邦人だったり。 「〇〇に行きたいが、バスで行けるか」「どこから乗るのか」「カネはどれぐらいかかる か」「どこで降りたらいいのか」など、その場面場面での異邦人とのやり取りには、会話 や筆話やジェスチャーが不可欠。 時には、理解できないまま成り行きに任せることもある。 沢木氏は、香港では、しばしば漢字の単語を紙に書いて見せ、また、英語の単語を2,3 並べて相手に理解させることも多かった。 氏は、「深夜特急1・香港マカオ」で、こう書いていた。 「日がたつにつれて、次第に身が軽くなっていくように感じられる。 言葉を一つ覚えるだけで、乗物にひとつ乗れるようになるだけで、これほど自由になれる とは思ってもいなかった。 言葉については、私にも不安がなかったわけではない。喋れる外国語はひとつもなく、学 校で十年間も習ったはずの英語も、頭の中で単語を並べてみなければ、道を尋ねることす らできない始末だ。 これで数か月間に及ぶ旅行ができるとは到底思えなかった。 しかし、香港で何週間か過ごしているうちに、言葉については自分がほとんど不安を持た なくなっているのに気が付いた。 香港に着いたとたん急に英語がうまくなる、などという奇跡が起こるはずはない。 単語を並べるだけの英語であることには変わりなく、少しこみ入った話になると、もう口 が動かなくなってしまう。だが、それを恐れることはないということがわかってきたのだ。 口が動かなければ、手が動き、表情が動く。それでどうにか意を伝えることはできる。大 事なことは、実に平凡なことだが、伝えようとする意があるかどうかということだ」 沢木氏が中国語圏の香港にいたとき、そう実感されたことに、私はホッとし、共感した。 「なるほど、あの沢木さんもそうだったのか・・・」と。 私も1992年の初秋、44歳の時に出張で北京に行った。 これは「日中友好医療使節団」の名称だったかどうか、日本と中国の人工臓器学会の代表 が一堂に会し、両国の腎臓病対策(人工透析など)の現状について情報交換し、中日友好 病院などを視察する目的の出張だった。 日本からは国公立病院や大学の、院長・教授クラスが6~7名参加した。 私は厚生行政の立場から、シンポジウムで我が国の現状と対策を通訳付きでスピーチし、 大広間でのレセプションでは、最前列中央の丸テーブルの席で、隣の日本語の達者な中国 政府の要人と乾杯しながら歓談したので、公式な場面での会話は不自由しなかった。また、 出張スケジュール以外の時間は各自自由だったので、私はホテル内での食事やお茶の時も、 メモ用紙に適当な漢字を並べて済ませたが、スムーズにいった。 出張最終日の午後は自由時間があったので、一人でホテルの前のタクシーに飛び乗り、天 安門や故宮などを見学して回った。 タクシーは3回乗り換えたが、ポケットのメモ用紙にその都度「天安門」などと書けば、 運転手は頷き、料金は数字でわかる。天安門内では便所に入ろうとすると、便所番のおば さんが何か叫ぶ。全く意味が分からず怪訝な顔を向けると、右手の平を突き出して、また 同じ言葉を吐きかけてくる。私は咄嗟に1元札を渡し、小銭のお釣りとゴワゴワの落とし 紙2枚を渡された。「便所に入るのに金が要るのか。俺は小便だけなのに、新聞紙みたい な紙を貰ってもなあ・・」と、少し腹が立った。大も小も同じらしい。 便所は仕切り板が短く低く、便座にまたがった格好は女性では恥ずかしいだろうと想像し ながら、用を済ました。 ホテルへの帰りのタクシーで、私は紙に「北京の街ならではの、どこか旨い店がないか」 という趣旨のことを書いて、運転手に尋ねた。 すると、運転手は何度も頷きながら、「あるよ。いいところ。私が案内する」といった言 葉を返してきた。そして「6時にホテル前。この車で迎えに行く」といったことを何度も 言い、車ナンバーを書いた紙を渡してくれた。 私は「シェシェ!」と言って料金を払って気分良く玄関に入った。 すると偶然、シンポジウムで私のスピーチの通訳をしてくれた人と出会い、今のタクシー の運ちゃんとの成り行きを立ち話した。 すると、間髪入れずに「それは良くない。行かないほうがいいです」と。「なぜ?危ない ですかね?」 「そうです。やめたほうがいいです。私がそのタクシーの運転手に直接断りますよ」と、 きっぱり言われた。 私は「そうですね。それではお願いします。6時に玄関前です」と言ってナンバーの紙を 渡すと、彼は軽く会釈して去っていった。 その晩の夕食は、某大学の教授と二人で、ホテル内の北京料理店に入り、老酒を飲みなが ら極旨の料理に舌鼓を打った。 同時に、「やはり、見知らぬ土地での見知らぬ人の親切そうな話は、話が通じたからと言 って良い気になって信用していたら、確かに危ないな。 この店で正解だった」と思った。 翌朝、某大学付属病院の院長が、前夜泥酔して帰館した際にホテルの玄関のガラスドアに ぶち当たり、ガラスが割れ散った事故があったと聞き、瞬間「外の怪しげな店で、巧みに 飲まされたのかな」と思って、驚いた。 余談だが。 帰りの機内では、その身体の大きな病院長と隣席だったが、大したケガはなく到着まで歓 談した。その人は姓名判断に詳しく、私の名前についても色々と会話した。「名前は悪く はないが、戸籍上の名前を変えずにペンネームを作って日常で用いると、非常に良くなる。 私が後日上京するので、それまでに良いペンネームを考えておきますよ」とのこと。 帰国して3週間後の土曜日の午後、私は指定された神楽坂の老舗料亭に出向いた。女将に 通された立派な和室の床の間の壁に、何と「命名・東井駿曜」と揮毫された白い和紙が貼 られていた。 名の呼び方は「はやてる」。 私は「むずかしい呼び名だが、まあ、有難く拝受しよう」と考えて、上座に座った。 いかにも酒が強そうな顔をした病院長が「今日は東井さんのペンネームの命名式をさせて いただきます。まずは、乾杯しましょう」という挨拶と乾杯の発声が終わると、和装の女 将と仲居さんらが「おめでとうございます」とお辞儀をされて、私にとっては奇妙な宴が 始まった。 病院長の「はやてる」の意味の講釈を聞きながら、和気あいあいと酒を酌み交わしたが、 「これも漢字の国に出張した、旅の恩寵(おんちょう)」と受け止め、愉快なひと時を送 らせていただいた。 勿論、日常で使用するに至らなかったが、そのご厚意は旅の思い出と共に、今でも忘れて はいない。 話を戻して。 そんな、筆談と「ニイハオ、シェシェ」だけの3泊4日の北京出張だったが、やはり筆談 が通じる中国圏には、もう一度一人で行ってみたいと思った。 そして給与生活者を辞めて、いよいよ「健康酒」の個人企業を立ち上げて販売を開始する 62歳の時、手作りの旅行で香港に行ってきた(2009年11月付の「良い想い出に」 を参照)。 沢木氏が旅行した時の香港から、すでに35年が経過していた。 同僚や家族とでもなく、出張目的でもなく、旅行会社のパック・ツアーでもなく、一人の 自由で贅沢で手短な旅行をしたかった。 往復の空路はビジネスクラス、宿泊はマンダリン・オリエンタルホテル。繁華街のネイザ ンロードを散策し、ペニンシュラホテルで紅茶を飲み、ハーバー沿いのアベニュー・オブ ・スターズの遊歩道を歩き、街中の飯店で飲茶と青島ビールの昼食。それからビクトリア ・ピークに登り、タクシーで下町に出て活気溢れる繁華街をぶらつき、2階建てバスの展 望席に座り、夕風に吹かれながら街の賑わいを眺めていた。その後、ホテル内の高級広東 料理店で、老酒とフカヒレと北京ダックの夕食。 旨くて、晴れ晴れと快適な3泊4日の小旅行だった。 それは62歳だから出来る(許される)、沢木氏のバックパッカー・低廉旅行の趣とは、 全く真逆だった。 沢木氏は本の対談で、「今までで一番良かった旅先はどこですか?」と聞かれ、「色々な 土地に旅したが、香港とハワイが良かった。ハワイは世の中で一番好きなところの一つ」 と答えたら、対談者から「そんなハワイみたく普通の観光客が行くようなところを言うと、 沢木ファンが、ガッカリしますよ」と笑った記事の記憶が残っていた。 香港は漢字圏であり、前述のように一人でも何とか意思が伝えられる。 (注・当時は今のように「翻訳やグーグルマップ」などの機能がついたスマートホンはま だ使えない時代。スマホが出たのは2007年。日本で普及してきたのは2010年代。 当時、私は未だガラケーだった) ハワイも日系人が多く、殆ど英語が出来なくても通じるし、街全体の雰囲気も柔らく、緊 張を強いられない。 私も、2010年3月にハワイに、4月にはソウルに、それぞれ個人旅行を楽しむことが 出来たから、さらに前述の沢木氏の発言に得心がいった。 (2010年3月4日付け、同年4月23日付けの『良い想い出に』を参照) 沢木氏のユーラシア横断旅行は、自身3回目の海外旅行となる。 彼が初めて海外旅行に出たのは、その旅行の少し前に、ノンフィクション小説の取材で韓 国に。その半年後、やはり仕事の関係でハワイに旅している。 その後、ユーラシア大陸横断旅行に出てから、数々の海外旅行を敢行し、ノンフィクショ ン・ライターとして目覚ましい活躍をしてこられた。 やはり、彼の全ての創作の根底には「深夜特急」があると、私は思う。 彼は、1年余のまさに貧乏海外旅行から帰国して、こう述べている。 「旅先でも、この旅については、いつかどのような形でか、書くことになるだろうという 予感がし、ノートに土地土地でのポイントなどをメモしていた」と。 それは私が予測していたことだった。 旅行の種類でも、種々ある。 沢木氏のバックパッカーとしての旅行は、「楽しむため」もあろうが、「他人がやらない 旅を成し遂げる」という自己に課したミッションと、ノンフィクション・ライターとして の職業意識が潜在していたことは、十分に予想できた。 そして、沢木氏自身「こうした旅をする最適年齢は、26歳~27歳だと思う」と述べて いるように、旅の内容によって、最適年齢が異なってくると、私は思った。 そして沢木氏は「旅する力」の著書で、それまでの幾多の旅を総括して、こう述べている。 「時がたつにつれて、どうしてあの『深夜特急』の旅を無事に終えることが出来たのかと いう思いは、ますます強くなっていく。 多分、危険とすれすれのところにいたのだという気がする。しかし、絶対的な困難には見 舞われなかった。まず、大きな病気にかからなかった。盗難にあわなかった。致命的な事 故にも巻き込まれなかった。 私には「運」があったと思う。 だが、その全てを「運」に帰すことはできないかもしれない。 幸いなことに、私にはそのような旅をして行く上での適性、あえて言えば「力」があった ような気がする。 それは「食べる力」(食べ物の好き嫌いはなく、どこの土地でも何でもおいしく食べられ る)。そして「呑む力」(どんな酒をどれほど呑んでもあまり酔わず、良き人間的関係が 生まれやすかった)。それに「聞く力」と「訊く力」(略)」 私はこの「訊く(尋ねる)力」に共感を覚えた。 私も、例えば人形町の明治座に行く場合、道がわからなかったらすぐに近くの人に訊く。 スマホなどで調べない。まずは最寄り駅の「水天宮」か「人形町」の駅に出てしまう。そ こですぐに近くの人に方向を訊く。そしてアプローチし、その地点でわからなかったら、 また近くの人に訊く。こうすると、色々な地元の人と話せて面白いし、自分の勘も磨かれ てくる。 しかし現在、例えば水天宮駅で降りて、甘酒横丁のあたりで人に訊いても、だいたいがス マホを出して調べ始める。 だから私は「ああ、それなら結構です。すいませんでした」といって離れる。 親切な対応はうれしいが、スマホなら私も持っている。 でも「訊く」ことは、私はやめないが。 沢木氏の「旅する力」の訴求対象は、その本の宣伝コピーにもあるように「これから旅立 つ全ての人へ」だろうが、やはり若い世代向けだろう。 それも20代。 カネ・気力・体力・想像力・時間の5つを持ち合わせていたらベストだが、学生だと時間 があってもカネがない。社会人だとカネがあっても時間がとれない。年を数えると体力・ 気力が薄れていく。 海外旅行だと、特にそれを感じる。 何かが足りなければ、その足りないなりの旅をすれば良いのだろう。 今年の元旦に、家族揃って我が家で食事をした。 年末に名古屋から上京してきた次男の小学3年の孫男は、大人たちの会話に退屈して本を 取り出して読んでいた。横からのぞくと、英語の本だった。 「どれどれ、おじいちゃんにも見せて」といって手に取ると、英文がびっしり書かれてい る。 私は一行目からわからないので、「なんて書いてあるんだ?」と訊くと、すらすらと訳し ていたので驚いた。次男一家が5年間の海外赴任中に覚えたのだろう。 「良くできるね。小学校の英語の成績も良いだろ?」と聞くと、 「うん・・・一番」と控えめに答えた。 現在、母親と小学6年生になる弟の3人でシンガポールに赴任中の、中学2年になる孫。 彼が4歳の時、長期滞在していたハワイから帰国したときに、私はこう訊いてみた。 「英語は覚えたか?牛乳は何ていうの?」 「・・・」 「ミルクだろ?」 「違うよ。ミウ、だよ」 「・・・それならリンゴは?」 「・・・」 「アップルだろ?」 「違うよ。アップゥだよ」 「・・・」 そんなことなどを回想した、2022年の元旦だった。 このエッセイの第1回に書いたように、子供達も孫たちも、私らの世代とは全く異なる時 空を旅し始めている。 私には何もしてやれることは無いが、これからの長い人生の旅路を、元気に希望を抱いて 進んでくれることだけを、ただ祈るばかりなのだ。 書き忘れた点をもう一つ。 「国家公務員の仕事をしていたから生まれた、2つのデメリット」と第1回目のエッセイ で書き、一つは「仕事で英語にふれる機会が殆どなかった」ことをあげた。 そしてもう一つのデメリットを最後に。 それは「文章が固くなった」ということ。 公用文ばかり書いていたから、つきたてのお餅のような柔軟さを心がけていたのに、煎餅 のようなパリパリとした歯ごたえの文章を書くようになってしまったこと。 そのことは、このエッセイをお読みの人は、すでに気が付いておられることだろう。 さて、これからも「人生の旅をする力」だけは失わないよう、今宵も「吞む力」を発揮し、 のどかな心の旅を楽しむことにします。 それでは、良い週末を。 |