目黒消防署 |
先日の夕食後、テレビで7時のNHKニュースを見終わってから、各民放局の番組をダイ ジェスト的に流し見していた。 すると「目黒通り・・目黒消防署の隣・・」という音声が流れているCMに当たった。 「エッ?これは何のCMだ?」」と、チャンネルをそのままに耳目をこらしてみた。 目黒消防署は、私が42歳まで生活していた家の近くにあり、通称「目黒通り」と呼ばれ る大通り沿いに建っている。 この目黒区の下目黒という地域は、まさに私の故郷なのだ(注・現住地の世田谷区上馬か ら程近いが、生誕地の滋賀県から、本籍地を目黒区に換えている) 画面は、多店舗展開をしている家具・インテリアショップ「ニトリ」のCMだった。 この4月27日(水)に「目黒通り店」が新規オープンする。 その新店舗の場所が、目黒通り沿いにある目黒消防署(下目黒)の隣という宣伝だった。 目黒通りは、白金台→目黒駅→大鳥神社→下目黒→柿の木坂→等々力→多摩川へと通じて おり、港区・目黒区・世田谷区の主に住宅街を東西に貫く幹線道路だ(環状6号・7号・ 8号線と交差する) その10キロほどの道程の真ん中あたりが目黒区下目黒。 下目黒は、私が2歳の時から40過ぎまで過ごし、結婚をして子供が3人生まれ、一家5 人で生活した忘れられない土地。 地域内には、目黒不動尊(龍泉寺)や大鳥神社などの由緒ある神社仏閣があり、各国の大 使館も幾つか立ち並び、有名人(注・フランク永井、二谷英明夫妻・郷ひろみ夫妻、宍戸 錠等)も多く住んでいた高級住宅地と言っても語弊がないエリアだった。 そもそも下目黒の地域は、明治40年(1907年)から昭和8年(1933年)まで 「目黒競馬場」が開場されていた場所。 現在の府中にある「東京競馬場」は、目黒競馬場が移転したものだ。中央競馬の重賞レー スである「目黒記念」は、この競馬場の「目黒」の名を後世に伝えるための冠大会で、中 央競馬の現存の重賞レースの中では最古とのこと。 だが今や、当時の競馬場の名残をとどめているのは、目黒通りを走る東急バスや都営バス の、下目黒地点のバス停の「元競馬場」の名前だけ。元の目黒競馬場の跡地なのだ。当時 からバスに乗ると「何で元競馬場なの?」と話している乗客をよく見かけた。今では新参 者の殆どは知らないだろう。また、バス停の近くに記念碑として建立された競馬馬のブロ ンズ像に目を向ける人も、もはや皆無だろう。 現在の目黒通りには、特に大鳥神社~下目黒~柿の木坂間を中心として、アンテイーク家 具・手作り家具・インテリアなどのショップが建ち並ぶようになり、「インテリアストリ ート」とも呼ばれている。洒落たカフェやレストラン(注・目黒消防署前の「ARGENT」と いうビストロも美味い)も多い。 ともかく、当時私が育った下目黒の地は地勢が平坦で、通勤・通学・買い物のアクセスも 良く、住宅地としては閑静で環境の良い、住みやすいところだった。 ニトリも、良い場所に目を付けたものだと、感心した。 きっと、目黒通り店を、従来の「お手頃価格の家具・インテリアを売る店」以外に、「少 し高いが、少し他より品質の良いものを売る店」の旗艦店にする意図があるのではないだ ろうか、と思った。それとも、国内外に多店舗化を展開する路線の一環で、単なるスケー ルメリットを追求しているだけのことなのだろうか。それなら幻滅だが。 そんなどうでもよいことを何となく考えたが、それより懐かしく思い浮かべたのは「東京 消防庁目黒消防署」のこと。 目黒消防署と聞くと、今でも3つの思い出が鮮明に蘇えるのだ。 まず1つ目の思い出。 小学校5年生の時に、家から徒歩5分ほどの目黒消防署で実施した「子供剣道教室」に通 ったこと。 こうした○○教室などというところに通うのは、生まれて初めてのことだった。保育園に も幼稚園も行かず、ましてや習字や算盤(そろばん)の教室、学習塾などとは全く縁がな かった。 地域の少年野球チームなどは、まだ無かった。 まさに習い事は、小学校での授業が初めての体験だった。 それが、クラスの友達に「消防署で剣道教室が始まったから、一緒に行かない?」と誘わ れ、小学校以外での社会的な習いの場に初めて参加することになった。 普通の運動姿で防具は着けず、広い板張りの道場に練習用の竹刀1本を握って素足で立つ。 竹刀の握り方、構え方、降り下ろし方を何度も丁寧に教わる。そしてそれらを習得してか ら「エイ!、エイ!」と竹刀を振り下ろしながら、すり足で一歩一歩前進していく。同様 に後進していく。そうした基本動作を繰り返していく。 週に1回の教室だったが、記憶では防具面をつけて打ち合いをした思い出がうっすらと残 っているが、確か6年に進級したころには辞めていた。放課後はもっぱら野球に興じてい た。 しかし今でも、例えば竹ぼうきなどの柄の長いものを持つと、柄の先端(底)を左手の小 指で包み込み、そのあと薬指と中指でしっかりグリップを握り、人差し指と親指の間をV の字にして軽くあててみる。そして左手1本で緩やかに柄(棒)を上下に振ってみる、と いったことを無意識的に行っていることがある。 習い事が習性となって残っているのだ。 小さい頃にしつけられたことは、大人になっても残っているものだと、子供や孫たちのこ とを想いながら、考えさせられる。 成人してからも目黒消防署の脇を通ると、どこからか聞こえてくる号令の声や、剣道場か ら上がる激しい竹刀の音や、板床を踏み叩く大きな音が、私の気持ちを厳粛に引き締めて くれていた。そのたびに「僕も身体を鍛えないと。もっと頑張らないと・・」と戒められ ていた。 2つ目の思い出。 それは中学1年の終わりの春休みの出来事。 以前にも述べたが、私は隣の3つ下のKちゃんと朝の新聞配達をしていた。 ある日、それぞれの自転車に乗って朝の4時半ごろ、読売新聞配達店に向かう途中。目黒 通りを横断し始めたとき、普段は1台も車が通らない閑散とした大通りの遥か左先から、 1台の乗用車が轟音を響かせて猛スピードで近づいてくるのが見えた。そこで私は反対 (対抗)車線を横断するのをやめ、今までの走行車線に戻ろうと左に方向転換した。する と、スポーツカーのような猛スピードで走ってきた車は、ハンドルを切って反対車線のこ ちらに突進してきた。 あっという間だった。私の記憶はそこで途切れた。 気が付いたのは救急車の中。 私は「頭が痛いよ」と泣いて、再び意識を失ったとのこと。 意識が戻ったのは品川区大崎の救急病院の治療室のベッドだった。 後日、消防署の人も警察の人も、私が頭部打撲・腰骨損傷(骨の亀裂)で助かったのは 「奇跡」と言っていた。 まず即死しているところだった、とのこと。 一緒に離れて自転車に乗っていたKちゃんは、私が自転車ごと高く、「100メートルぐ らい」(注・Kちゃんの証言)跳ね飛ばされたので、すぐ近くの新聞配達店に飛び込み、 店長に「トモちゃんが死んじゃった!」と泣きじゃくったとのことだった。 だが。 当時(昭和36年春)は朝の車は殆ど無く、ましてや目黒通りに駐車してる車など、皆無 に等しかった。 しかし、あの広い大通りに、たった1台の車が駐車していたのだ。それも「道交法」で今 も駐車が禁止されている「消防署」の前に。 そのたった1台の違法駐車のボンネットに、私の身体が命中し、ワンクッションして道路 に落ちたのだ。 その時、宿直の署員が激しい音に驚き、シャッターを上げてみると私が意識を失って倒れ ているのに気づき、すぐに救急車を出動させ、私を病院に運んでくれたとのことだった。 後日、追突してきた車はフォルクスワーゲンと知った。 ボンネットがカブトムシ(ビートル)のように、フロントがなだらかな曲線を描いている ので、その傾斜角が幸いし、自転車ごと身体が高く跳ね上げられ、遥か先のたった1台の 車に、命中したのだ。 奇跡的に救われた。 幾つかの偶然に救われた。 特に目黒消防署員の機敏な初動に救われた。 だから、目黒消防署員のことは、一生忘れられない。 3つ目の思い出。 昭和55年5月6日のこと。 私が32歳の春。 GWも終わり、また仕事が始まる日だった。 私は2年度目に入った係長の業務が面白くなってきた時で、朝からの気分も爽快に、庭先 の向こうの隣家の景色を眺めながら、ネクタイを結んでいた(注・当時は親宅の脇に小さ なプレハブの我が家を建てていた。敷地は400坪で南隣の家はだいぶ向こうに眺められ た) 時刻は8時半前。 すると、向こうに眺める2階建ての家の窓から、なにやら白い煙が立ち上がっているのが うかがえた。初めは湯気かと思っていたら、二階の屋根の庇(ひさし)の裏から、黒い煙 が吐き出てきた。 家内を呼んで、「おい、Sさんの家の煙を見てみろよ。あれは火事じゃないか?」と聞く と、「そうだね!」と。 私は即座に119番に電話した。 目黒消防署の署員に状況と場所を伝え、すぐにネクタイを外し、下駄をつっかけて飛び出 し、庭を横断し、石の塀を下駄で乗り越えて、老夫妻だけのSさんの家に飛び込んだ。 (下駄は高校時代から日常生活で使用。背丈よりはるかに高い塀でも駆け上がっていた) すると、老妻がオロオロしながら台所でバケツに水道水を入れていた。私が二階に駆け上 がると、部屋から煙が噴き出していた。高齢の主人が口にタオルを当てて、バケツの水を たどたどしく奥のほうにかけていた。 私は「どんどん水を運んで。私がやるから」といって、バトンタッチした。どうも部屋は 夫婦の寝室で、ツインベッドの片方の枕元が出火元のようだった。 部屋中に立ち込めていた黒煙の奥に火柱が上がり始めていた。老妻がバケツに水を入れ、 老夫が階段の半分まで運び、私がそれを素早く受け取って部屋に飛び込み、放水する。神 経も何もが全て停止しているが、身体だけは本能的に動いている感じだった。 だが、黒煙が充満し、廊下に吹き出てきたので廊下の窓もすべて開け放ち、私は鼻と口を タオルで覆い、身をかがめて部屋に入り、水をぶっかけ続けた。 だが、眩暈がして倒れそうになった。 喉がしめつけられ、息が出来ない。 私は廊下の窓から顔を出し、目からこぼれる涙を拭いながら呼吸が通じるのを待った。 一瞬死ぬかと思ったが、外の空気に触れ、生気が戻った。 「煙はやばい」と気を付けながら、再び消火を続けていると、少し火の勢いが衰え、黒煙 も薄くなってきたと感じられた。 その時、消防車のサイレンの音と共に、我が家の庭を通ってホースを握った署員が駆けつ けてくれた。 「あとは私たちがやります」という署員の声にホッとし、私はまた下駄をつっかけ、塀を 乗り越えて家に戻った。 周囲は何台もの消防車と幾人もの署員、近所の消防団の人などで溢れていた。 私は煤だらけのワイシャツを取り換え、顔を洗いなおして、またいつものように「元競馬 場」のバス停まで向かった。 その17日後、職場から帰宅すると、立派な額縁が玄関に置いてあった。 家内に訊くと、消防署の人が御礼に来たとのこと。 それは感謝状だった。 「 感謝状 あなたは昭和五十五年五月六日八時二十八分ごろ 目黒区下目黒五丁目十四番八号に発生した火災を 早期に発見し消防機関へ通報するとともに適切な初期消火を行い 被害を最小限度にとどめた功労は顕著でありますので深く感謝します 昭和五十五年五月二十三日 東京消防庁目黒消防署長 根村 榮 」 額縁の裏に、100円玉が5つ、セロテープでとめられていた。 今までに色々な表彰状や感謝状や叙勲などの賞状を貰ったが、殆どがいつの間にか消失し、 残ったものは全て押入れの天袋に押し込んである(本当は廃棄したいのだが、そうもいか ず) しかし、この目黒消防署の感謝状の1枚だけは、この42年間、私の部屋の壁の片隅から、 私のことを静かに見つめ続けているのだ。 それでは良い週末を。良いゴールデン・ウイークを。 |