東井朝仁 随想録
「良い週末を」

旅の途中で(2) 

私は42歳の時、天理教という宗教組織(厳密には、単一の宗教法人である私共のB分教
会を管理・包括する、上部組織に当たるA大教会)から、離脱した。
それまでに至る3年間余は、民事裁判(A大教会と、原告の私共のK分教会との係争)な
どで、一日たりとも心が休まることがない、辛い日々が続いていた。

たが、その長期間の泥沼化した係争も、私の敬愛する老師や某大学教授や古くからの誠実
な信者さんなどの協力があり、急転直下、双方の和解が成立したのだ。
「日本の宗教界で、この様に大教団と原告の個人(東井家)間で、対等和解が成立した事
例は、きっと初めてだろう」と地元の税務署長が感想を漏らしたように、まさに奇跡的な
結末だった。
その和解条件の一つが、原告の実質的当事者である私の母と兄と私が(父は既に逝去)、
A大教会の教籍(所属)から離脱することだったのだ。

私は、この和解の文書を確認した時、「これは神の配剤なのだ」と瞬時に思った。
さらに時が経過すると、あの出来事と結果は「神の恩寵(おんちょう)だったのだ」と、
得心がいった。
そして、今までの自分の既成観念や、狭い功利的な人間思案から脱皮し、広い視野で物事
を捉えられるようになった自分を、ある程度客観視できるようになっていた。
係争の和解とその後の経験は、私にとって、中学2年の時の交通事故に遭遇したが、奇跡
的に助かった出来事と同様な体験だった。
交通事故に遭ったが九死に一生を得て退院した時、私は子供心に、うっすらと「神様」と
いうものの存在を感じた。それを自己の人生における「原体験」だとすると、係争の不思
議な和解は、その原体験の追加体験となって、私の心に刻み込まれた。

あれから33年。
その間、私は既に教団組織を離れた立場だが、時々、今回の旅のようにフラリと天理を訪
れ、本部神殿の千畳敷の畳にぬかずく。
そして大宇宙の創造の神と、私の命に連綿と続いてきた、今も宇宙に瞬く先人の御霊に拝
礼をしてきた。
宗派・教団などの組織を介さず、一人で直接に神仏(いかなる神仏でも)に向かい、心か
ら深い感謝の念を捧げる。
それが、今を生きる私の一つの喜びでもあり、安らぎでもあった。
そしてそうした行為こそが、本質的に私が望む「純粋な信仰の姿」なのだ。
私はそう確信している。

勿論、個人と神仏の媒介となる宗教団体=信者の組織集団に帰属することは、結構なこと。
信者同士が集団内でお互いに協同して事に当たることが、安心と励みになる人も多いだろ
う。
布教の原動力にもなるだろう。
信教の自由は憲法第20条で「信教の自由は、何人(なにびと)に対してもこれを保障す
る」と規定され、その教理に基づく信者の団体は、宗教法人法に基づき、宗教法人として
認められている。
そして、こうした宗派・教団に帰依することは、信仰の第一歩ともいえる。

しかし。
入信した当初は、神仏を信じ、教えに素直に共感する信仰心に満ちていた者も、徐々に宗
派・教団組織の指導的立場の人の「教条」(ドグマ=独断的な説)により、容易に変貌し
ていく人が多い。
組織の維持・運営・拡大に寄与する様々な活動(御供、寄進、集会・祭典等への出席、機
関誌(紙)の購読・販促、広報活動、推薦候補の選挙活動等々)に励むことこそが、信心
を高めることと教えられ、少しでも組織に貢献することこそ「信仰の本質」と洗脳されて
しまう者も、少なくないだろう。
また、宗派・教団の幹部たちも、そうした貢献者こそが信者の鏡と称え、そうでない者は
信心が足りないと説教する。そのような宗教団体も、少なくはないだろう。
いつの間にか「信者のための宗教団体」が、「宗教団体のための信者」になってしまって
いるのだ。

どこもここも、信者を増やし教勢を拡大することに、狂奔してきた。
信者を増やし宗派・教団を拡大させることは、組織の幹部にとっては収入の増大と社会的
影響力の確保になる。組織の専従的な立場の人は、宗教が生業なのだ。
「数は力」は、資本主義社会・議会制民主主義の国にとって、政治の世界や産業界のみな
らず、宗教界でも一緒。
人類の平和と幸福を希求する人道的な宗教といえども、いつの間にか開祖・教祖の理想か
らかけ離れ、現実的な一般社会と同様に、ヒト・モノ・カネと権勢に重きを置いて、世俗
的な生存競争に明け暮れてきた。
そして、教勢拡大を図るためには、時として国家権力に迎合し、国家の戦争に加担してき
たこともあった。

今も悲惨な状況にある、ロシアのウクライナ侵略戦争。
「専制・独裁国家と民主主義・自由主義国家の戦争」とか、「プーチンのロシア帝国復活
の野望による侵攻」とか、色々と表現されているが、もう一つ「ロシア正教(ロシア)対
ウクライナ正教及びカトリック教(ウクライナ)の宗教戦争」という見方もある。
正教はキリスト教の一派であり、正教会はそれぞれの国の名を冠している。

鵜飼秀徳氏(浄土宗僧侶・ジャーナリスト)によれば。
「プーチン大統領が帰依しているロシア正教のトップの総主教は、この戦争を支持し、正
当化する発言を繰り返している。また、ワシントンポストによれば、モスクワ大聖堂での
礼拝で戦勝祈願を実施し、ロシア国家親衛隊の将軍に聖火を手渡し、祈りを捧げた。
また、ロシア正教はウクライナに侵攻する戦車や兵士らに聖水を浴びせるなど、聖戦を強
調する動きが目立っている」

色々複雑な歴史が背景にあるが、宗教の違いからくる民族間、国家間の対立は根深い。
イラクやアフガニスタンでの紛争をはじめ、イスラム教とキリスト教の対立も後を絶たな
い。
いつの時代も宗教は、時の権力に迎合し、その庇護を受けて国策に協力するか、あるいは
弾圧されるかの歴史を刻んできたことは事実だ。

日本でも同様。
先の鵜飼氏が、こうも述べている。
「明治維新以降、日本は国家神道の道を歩みだす。神道が国家と一体化し、「神の国」の
もとで日清・日露・日中・太平洋戦争が繰り広げられた。この国家神道体制に付き従うよ
うに、仏教やキリスト教も戦争協力の姿勢をみせていく。
日清戦争が始まると浄土真宗は軍隊慰問・戦死者追弔をうたい文句に、大陸に従軍僧を派
遣した。この動きに同調し、他の仏教宗派も富国強兵策に参画していく。
日露戦争時にはエスカレートし、浄土真宗を筆頭に多くの宗派が大陸に進出した。
植民地の拡大に乗じて、中国・満州・朝鮮半島・台湾などの極東アジアに、寺院や布教所
を次々と開設していったのだ。
その背景に、各仏教教団の教線は日本国内では飽和・限界状態になっていたことがうかが
える。仏教教団もまた、侵略戦争は無限の大陸へと布教を広げる好機だった。
国家と宗教界が、互いに互いを必要とする関係にあったのだ。
つまり、国家の側から見れば、領土拡大を進め、最前線に寺院が建立されることは、そこ
が我が国の主権の及ぶ地であることの既成事実が成立することになる。政府にとって、仏
教界の大陸進出は実に好都合、というわけだ。
植民地政策には、決まって宗教が関わる。
太平洋戦争時、仏教は、戦闘機や軍艦の献納運動などを積極的に展開していった。日本が
敗戦を宣言した直後、ロシアは北方4島に侵攻。
今度は日本人が追い出され、寺や神社はことごとく壊された。その代わりに、ロシアが真
っ先に建立したのがロシア正教の教会だった。
国家権力と結びついた宗教は暴走を始め、人民救済という本分を忘れてしまう」

私は、大阪の梅田から天理に向かう車中で、こんなことを考えていた。
「人類の平和と幸福を希求する宗教が、なんでこうも戦争に加担してきたのか。なぜ、宗
派教団内に、戦争に反対する声を上げる指導者が、あるいは多くの信者がいなかったのか。
国家の弾圧を避け、組織内でそうした声を圧殺していたのか。権力に迎合して自分たちの
庇護を第一に考えるのが得策と考えたのだろうか。
今の日本の宗教団体の動きを見ても「戦争反対!即時停戦を!」と大きな声を上げる団体
は、見当たらない。
今こそ、宗教団体の平和運動が熱望されるのに、動かない。
いま動かずしていつ動くのか。今を逃したら、きっと日本のいや人類の将来に、取り返し
のつかない大きな禍根を残すことになるだろうに。
宗教団体とは単なる互助会で、自分たちの利益と安全を守ることが目的なのか。国家権力
の意向に従って、いずれは憲法も改正し、国教の地位を確保する意図が根底にあるのか。
各宗教団体は、日頃の確執、教理の相違を乗り越えて共同し、宗教界が一つになって、平
和への行動宣言を発するべきではないだろうか。
それが宗教としての原理原則の行動ではなかろうか。
軍事増強による悲惨な殺し合いで、何も解決はしない。誰も幸福にはならないことは自明
だ。

国は、日本国憲法の前文の理念「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支
配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し
て、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」に基づき、今こそ紛争当事
者と世界のあらゆる国々に対し、戦争を止めるための対話外交を「全力をあげて」すぐに
行うべきだ。
そのために全ての国会議員を班割し、可能な限り世界中の国々に特使として派遣し、「日
本は武力によるいかなる国家間の紛争の解決も、反対」という趣旨の日本の意思を伝える。
根気強い対話による平和的解決が唯一の道だと。その外交団派遣の経費は、国内の些末な
案件にかける膨大な補正予算を考慮すると、どれほどでもないだろう」

そして話は戻り。
私が天理駅に到着し、神殿に着いたのは午後6時半ごろ。
平日の夕方のせいか、神殿を取り囲む広大な玉砂利の境内にも、粛然とした神殿内にも人
影はほとんど見当たらず、正座して黙想する私の耳に、時折、遠くから勇んだ拍手(かし
わで)の乾いた音が、おごそかに響いてきていた。
私は畳にぬかずいて拝礼し、心を静めて拍手を打った。
そして、神殿から教祖殿、さらに祖霊殿というそれぞれが単独に建てられた大きな木造建
造物をつなぐ木造の回廊を、ゆっくり踏みしめながら歩いて回った。
この幅広の回廊は、1周約800メートルある。
長く続く廊下は、どこも磨き上げられて光っている。
それは長年にわたり、多くの者が四つん這いになり、両手の雑巾で乾拭きしながら前に進
む、拭き掃除を行ってきたからだ。
ほんの数メートルでも何メートルでも良い。いつでも誰でもが、その人の身体と心のまま
に自由に行えば良いのだ。
神殿は一日中、いつでも誰でもが自由に入れる。

私は、今から56年前の初春、卒業式が間近に迫ってきた高校3年生の3学期の1月から
2月末までの期間、毎日夜中の零時から、この回廊の一周掃除を行った。
その動機は、未成年の未熟な自分が、新たな東京生活へ向かって行くための覚悟を固める
ためだった。
それは自らに課した、高校時代最後のミッションだった。
夜気が冷たい回廊の始点で、東の遠方の暗闇に見える給食センターの電気時計が「0時」
を点(とも)したらスタート。休む(拝礼する)のは、教祖殿前と祖霊殿前の2回だけ。
1時間ほどかかって終点の神殿西側の廊下に立った時は、真冬の深夜で、水桶の表面が凍
っているほどの厳寒だったが、ワイシャツ一枚の身体から湯気が立ちのぼり、私は額から
滴る汗を拭いながら深呼吸をした。
この瞬間は、たとえようのない爽快感が身体中に満ちた。
漆黒の夜空には冬の星屑が、ため息が漏れるほど綺麗に煌めいていた。

「あの感覚が、生きている喜びを教えてくれた」
そんなことを想い出しながら、神殿の廊下から西の夕空を眺めた。
古い瓦屋根が続く街並みや、その遥か彼方の暮色は、高校時代と全く変わっていなかった。
私は、陽が落ちてもまだ薄い茜色に染まっている旅の空を、じっと眺めていたのです。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。