旅の途中で(4) |
旅の帰りの車中で読み始めたのは、「猪木と馬場―燃える闘魂と東洋の巨人の終わりなき 物語」(斉藤文彦著・集英社新書)という長い副題の本。 「日本のプロレス界が生んだ」ではなく、「日本のプロレス界を生んだ(隆盛たらしめた)」 偉大なプロレスラー、アントニオ猪木とジャイアント馬場の、両軸を中心としたノン・フ ィクションだ。 私は、猪木の「燃える闘魂!」「やる気さえ出せば、何でもできる!」のキャッチフレー ズをそのまま体現していく、スピーデイでガッツのある多彩なプロレスの技、あるいは彼 の天衣無縫な生き方が好きだった。 それで、この新書を読む気になったのだ。 この本は、非常に興味深い日本のプロレス史でもあった。 そのプロレスという、戦後のアメリカ仕込みのスポーツ興行を国民的な人気に高めたのは、 昭和28年に国内民放テレビ局として最初に開局した日本テレビ。 その日テレが翌年の昭和29年(1954年)、私が小学校に入学した年に、力道山と木 村政彦(元柔道日本一)対シャープ兄弟の試合を実況生中継した。私はその試合を、近所 の遊び友達の家のテレビで観た記憶がある。兄や他の近所の子と一緒に、夕食後に観せて 貰いに行ったのだ。その後も何回か、テレビのプロレス中継だけを目当てに観に行った (余談だが、当時のその邸宅は、現在でも十分に見栄えのする、立派な洋風建物だった。 シュロの木やポプラの樹が植えられた広い芝生の庭、瀟洒な絨毯が敷き詰められたリビン グ。生まれて初めて座る大きな輸入(?)ソファ。そして当時では滅多になかったテレビ (勿論、まだ白黒)。これまた広いフローリングの子供部屋。 どれもこれもが、私の家とは異次元のもの。 心底、そこの友達が羨ましかった。 しかし、その数年後、朝日新聞の朝刊1面に、その家の父親の名前と住所が掲載された。 何事かと読むと、彼は総会屋で、恐喝かなにかの事件で逮捕されたのだ。数日後、家の前 に行ったら、すでに引っ越していて人影はなかった。数か月後、その邸宅は取り壊されて 新たな建築が始まった) 当時はまだ、庶民の垂涎の的はテレビ、テレビと言えばプロレス、プロレスと言えば「力 道山」だった。 巨漢の「悪役」外国人レスラーに打ちのめされ、額から血を流してダウン寸前に追いやら れても、最後に伝家の宝刀「空手チョップ」をさく裂させて、力道山が勝利する。 当時は、敗戦から10年ほどしかたっていない時代。 多くの国民は日々を生きて行くのに精一杯で、欧米への羨望とコンプレックスが心にわだ かまっていたと思う。 だから一層、力道山のワン・パターンの奮闘にも、毎回ハラハラドキドキし、そしてテレ ビ中継終了間際に勝利する力道山に、日本中(?)が、少なくともテレビの前の国民は大 喜びをしていたのだ。 私には、そうした大人の感情は全くなかったが、テレビを観られるということ、それもプ ロレスという相撲や野球にはないファイト溢れる肉弾戦は、この上なく子供心を高揚させ るものだった。 日本人のプロレスラーは、力道山以外に東富士(元横綱)、遠藤幸吉、豊登などがいたが、 話にならなかった。 やはり当時、プロレス中継を野球に次ぐ「国民的番組」にし、プロレスの面白さを一気に 日本中に広めたのは、力道山のスター性と、何よりもテレビの力だった。 しかし、力道山が昭和38年(1963年)に急逝すると、プロレス人気も停滞し始めた。 昭和35年(1960年)に力道山の下に馬場(22歳・元読売ジャイアンツ投手)と猪 木(17歳)が同時に入門したが、まだ二人が名実共にビッグになるには早かった。 それでも日本テレビのプロレス中継は続き、昭和40年代に入ると、いよいよB(馬場) I(猪木)コンビがプロレス中継の主役に躍り出てきた。すると平均視聴率も20%を超 え、プロレスの黄金期を迎えるようになったのだ。 これには、野球中継とは異なるプロレス中継ならではの、実況アナウンサーの個性(魅力) も大きく貢献していたことを、私は後になって気が付いた。 プロレスの実況中継アナウンサーとしては、日本テレビの徳光和夫氏やNET(現・テレ ビ朝日)の古舘伊知郎氏が有名だった。両者ともその後は、バラエテイ番組や報道番組な ど幅広い分野で活躍されてきたが、プロレス中継の経験により、多彩な表現力と滑舌能力 が向上し、アナウンサーとしての実力もレベルアップしたことは、間違いないだろう。 前置きが長くなったが、前述の本に話を戻すと。 著者は、そのプロレス中継にかかわった徳光和夫氏に色々と取材して、貴重な話を聞いて いた。 <徳光氏がプロレス中継に配属されたのは、入社2年目の昭和39年(1964年)。 本当は母校・立教大学の先輩である長嶋選手(読売ジャイアンツ)のプロ野球中継をした くてアナウンサーを志したのが、プロレス中継担当との辞令に「正直、がっかりしました。 私自身は当初、プロレスにはアレルギーというか嫌悪感を持っていました。 プロ野球をやりたかったので、プロレスはやりたくなかった」と語っていた。 そんな徳光さんの心を揺さぶったのは、尊敬する先輩アナウンサーの清水一郎氏(注・力 道山時代の昭和32年から、全日本プロレス中継に移行後の昭和53年まで約20年間に わたり、「プロレス中継の声」として活躍した)から受けたレクチャーだった。 清水氏は23歳の新人アナウンサーだった徳光さんにこう語りかけた。 「なあ、徳光、そもそもスポーツはショーだろ。プロレスは最高のショーだぞ」 「プロレスというものは受け身のスポーツだ。いかに技を大きく見せるかだ。そのために 選手たちは体を鍛えている。その鍛え方はハンパじゃない。それを八百長だどうだという のはおかしい」 その後、徳光氏はこう語っている。 「清水さんの「2メートル9センチ、134キログラム、世界の巨人、ジャイアント馬場 がいま最上段のロープをひとまたぎして入場であります!」という実況を聞いて、カッコ イイなあと思いましたね」 「レスラーの強さは、技を受ける強さなんだ。しっかりとした筋肉、真綿のような筋肉で 全身を覆っているんだ。だんだんとそれが理解できるようになり、技を仕掛けられた選手 の受け身、受ける選手の痛さを喋ったほうが観ている人たちに伝わる。それを心がけまし た」> 本の冒頭の文章にこうある。 <「全国2000万人のプロレスファンのみなさん、こんにちは」 昭和40年代前半の金曜日午後8時のテレビ番組といえば、ジャイアンと馬場とアントニ オ猪木が主役のプロレス中継(日本テレビ)だった。 実況の清水一郎アナウンサーによる「全国2000万人のプロレスファン」というオープ ニングのあいさつは、いまとなってみるとずいぶん大げさなキャッチフレーズではあるけ れど、その背景にはこの番組の平均視聴率がつねに20%超だったという、驚異的な数字 の力があった> 私は、旅の帰りの新幹線の車中で、この本の冒頭のこの文章に触れ、前回述べたように懐 かしい名前を目にして驚いたのだ。 清水一郎氏は、私共の「とわ会」という厚生省所管の保健医療関係の公益法人等の有志に よる親睦団体の会員である清水禧子氏(当時、(株)富士製薬創業社長、(財)羽根田天 然物化学研究会専務理事)の夫だった。 禧子氏の父上(和風高級旅館等を経営する石亭グループの会長、当該法人の理事長)とは、 私が厚生省保健医療局で所管公益法人の許認可・監督指導業務の係長当時に知り合って、 意気投合した。 その父上に休日に誘われ、迎えの会長所有のキャデラックに乗って、会長の馴染みの店に 向かう車中「長女です」と清水禧子氏を紹介された。 以降、禧子氏は「とわ会」の常連となり、皆で飲んで歌ってゴルフしてのご縁が出来た。 清水一郎氏に初めてお目にかかったのは、確か傘寿を迎えたばかりの羽根田会長が、渋谷 の「文化村」近くに新規に開業した「タイ料理・パタヤ石亭」の店でだった。 私はこの店の開店祝いの時に招待されて以降、たまに誰かと一緒に訪れては、トムヤンク ンを食べながらタイのシンハ―ビールを飲んでいた。 そんな何度目かの夜「あれっ?」と感じた時、清水一家(夫婦・子供2人)が入店されて きた。そこで禧子氏から「夫です」と一郎氏を紹介された。 「清水一郎です。義父と家内がお世話になっております」とにこやかな顔で丁寧に挨拶さ れた。私は、感じの良い、折り目正しい人だと感心した。 清水一郎氏は、現役アナウンサーを退いた後、確か日本テレビ名古屋支局長を務めてから 退職。その後日本テレビの関係団体の事務局長になられたが「最後まで現場にいたかった」 一郎氏は事務局長のポストも嫌がって早々に退職され、念願のフリーの身となり、毎日自 宅の自室で、大好きな英文の書籍を読んで、夜はこれまた大好きなウイスキーのストレー トを嗜んでおられたとのこと。 よく力道山に誘われ、一緒にあちこちで遅くまでウイスキーを飲んでいたとのこと。前述 した力道山の急逝(クラブで飲んでいる時、トイレに行った力道山が暴漢にナイフで刺さ れ、病院に行かずにいて数日後、亡くなった)の際も一郎氏は一緒だった。そして力道山 の看護に付き添って帰宅されていなかったとのこと。 その清水一郎氏も、64歳で亡くなられた。 食道がんだった。 禧子氏は連日、世田谷下馬の自宅から入院先の東京医科歯科大学まで、愛用のベンツを運 転して見舞いに行っていたとのこと。 診断した担当医は「ウイスキーを飲まれているでしょ?それもストレートで」と即断した とのこと。 その時、禧子氏は「力道山に毎晩のように付き合っていたからだ、と思った」と、後日語 られた。 葬儀は渋谷の寺で盛大に執り行われた。 ジャイアント馬場を始め、関係者が続々と弔問に訪れていた。 私も通夜の席でお清めの酒をしみじみと飲んでいたが、隣のグループがやけに賑やかなの で睨みまわしてみたら、日頃から日テレの番組に良く出てくるアナウンサーばかりだった。 それにしては品のない連中だと呆れ、対照的に一郎氏の律義さが改めて蘇ってきた。 通夜の前日、徳光和夫氏が下馬の清水氏の家を訪問され、禧子氏にお悔やみの言葉を捧げ て、涙を拭いながら帰られたとのこと。 「夫は、ウソ泣き上手の徳光と言っていたので、本当だったのかしら」と、後日、禧子氏 は笑いながら述懐されていたが。 新幹線は名古屋を超えていた。 私は本を置き、しばし、そんなことあんなことを思い浮かべながら、窓外の流れる風景を 眺めていた。 そして、「人生で一番大切なのは、ご縁だ。それもよき縁だ」と改めて思った。 「とわ会」が発足して、今年で35周年。 ちなみに厚生省(現・厚生労働省)本省の野球クラブ・厚生ブルーバッカスが結成されて から40周年。 人とのご縁は移ろいやすく、時のたつのは早い。 今年は、個人的にも国内外の社会的にも、色々な意味で「節目の年」 だと痛感する。 窓外には、浜名湖の水面が静かに広がり、やや西に傾き始めた陽射しを浴びて、きらきら と光っていた。 時計を見ると午後5時頃だった。 今回のミニ旅行も、もうすぐ終わる。 人生の時間は、いま午後5時頃なのか? わからない。 でも、もう少し人生の旅は続くだろう。 そのためには、浜名湖の水面の輝きのように、もう少し「心に光を」与えてあげなくては。 まだ、人生の旅の途中なのだから。 それでは良い週末を。 |