東井朝仁 随想録
「良い週末を」

夏 休 み

今日は7月21日(木)。
朝から曇り空。「すっきりしない空。にわか雨が心配。最高気温は30度だが湿度が高く、
蒸し蒸しとした一日になる。熱中症に注意を」の予報。
昨日は、晴れ時々曇りの天気。久しぶりに猛暑日(最高気温35度以上)に近い34.5度
の気温を記録したが、湿度が低くてカラッとした空気は例年の真夏のそれだった。
私は表参道駅から青山通りに出て、それから骨董通り(アンティーク通り)沿いにある歯
科クリニックに診察に向かっていた。
街路樹の上の空は見事に青く、強い日差しが容赦なく半袖の腕を焦がす感じだった。
しかし、その何日ぶりかで顔を出した灼熱の陽光は、何となく歓迎できる心地よいものに
感じられた。

歯科クリニックで歯石除去等をしたあと、私は青山通りの裏道にある「だるま屋」という
和風ラーメン店に行き、その古民家風のひんやりした店内で昼食をとった。
この店は、以前から私の好みなのだ。
重厚な木製のテーブルと椅子が並ぶ、奥行きのある静謐な店内はすでに満席だったが、開
け放たれた出入り口に近い6人席の大きなテーブルが空いていた。
私はそのテーブルの、一人の先客の対角線の席(つまり出入り口に一番近い席)に座り、
冷やし中華とビールの小瓶(昼食時は小瓶がベスト)を頼み、小皿のザーサイをつまみに
冷えたビールをゆっくりと飲んだ。
出入り口の間から外を眺めると、影一つない路地は強い日差しを乱反射させて白く輝き、
時折、何枚かのプラタナスの落ち葉が微風に流されていた。そして、路地の遠方に聳える
建設中のビルのクレーンが、青天に光っていた。
真昼の昼食時なのに、時間が止まったように静かな空間。

私は「ようやく本格的な夏が到来したのだろうか。明日からは学校も夏休みだ。いまの生
徒や学生は、夏休みが来たからって、はしゃいでいるのだろうか。コロナの第7波も急拡
大している状況だし・・・」そんなことを考えながら、私は「それでもここは吉田拓郎の
『夏休み』を聴くべし!」と、スマホのワイアレス・イヤホーンをポケットから取り出し
て、耳にしていた。

「♩絵日記つけてた 夏休み
  花火を買ってた 夏休み
  指折り待ってた 夏休み

 ♩スイカを食べてた 夏休み
  水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 蝉の声

  姉さん先生 もういない
  きれいな先生もういない
  それでも待ってる 夏休み」

単純な言葉のくりかえしだが、メロデイに乗るとその一つ一つの言葉の味わいが感じられ、
夏休みの情緒があふれ出してくるから不思議だ。

1947年。終戦の2年後に私が生まれた、疎開先の滋賀県甲賀郡水口町。
小学生の頃の夏休み、東京から汽車を乗り換え乗り換えして行った父の故郷、甲賀郡水口
町。
兄と地元の従弟と3人で、歩いて野洲川に川遊びに行き、浅瀬で泳いだり石囲いを造って
清流を泳ぎ回る鮎を追い込んで捕まえたり。
森の奥の沼に鯉釣りに行ったら、イモリばかり釣れ、最後に大きな鯉を仕留めて喜んだり。
琵琶湖の一番下(南端)にある大津市の叔父の家に泊まり、湖岸から糸を垂らしてモロコ
を数十匹も釣って帰り、それを叔母が夕食のおかず用に甘辛く煮ている間、木造二階建て
の大きな家の縁側で、湖面を渡ってきた涼風に吹かれながら食べた甜瓜(まくわうり)の
おいしさ。
そんな滋賀県も、今では父の家も無く親類の家に行くことも無く、残るは懐かしい60年
ほど前の、夏休みの想い出ばかり。

時は1965年(昭和40年)。
私が奈良県私立天理高校3年の夏。
当時、天理高校の生徒は男女共学で1学年800名ほど、全体で2400名ほどのマンモ
ス校だった。勿論、昭和22年~24年生まれの団塊の世代が1~3学年を占めていたか
らだ。
そこで教室が足りず、校舎は北(旧校舎)と南(新校舎)の二つとなった。
私共は南校舎に。本校舎に当たる北校舎からは、砂利を敷き詰めて野原をぬうように造ら
れた小道を、5分ぐらい辿るところにあった。
道の周囲は広く続く野原や田畑で、校舎の窓からは遠方に大和のなだらかな山なみが眺望
できた。

そんな爽やかでのどかな野道を、夏休み直前の日の夕方に歩いていた。部活が終わり、部
員を全員解散させた後、一人で色々と整理をしていたので下校が遅くなったのだ。
校舎を出ると、丁度、H先生も校舎から出てきた時だった。
それで一緒に肩を並べて野道を下校した。
肩を並べるといっても先生は女性で、小柄で、私の肩口ほどの背丈だった。その年の春、
大学を卒業して天理高校の教職に就いた新人先生で、社会科の担当だった。
それまでの天理高校にはいなかった、可愛らしい先生という印象が強かった。
二人で話すのも、二人だけでいることも初めてだったが、全く違和感がなかった。自然に
親し気な言葉を交わしながら歩いていた。
すると、途中で先生が足を止め、しみじみとした口調でこう言われた。
「東井君は、私のお兄さんのように感じるの。すごくしっかりしているし、堂々としてい
るし・・・。お兄さんのような存在・・・」そんなことを言って私を見上げた。
「そうかなあ。全然しっかりしていないですよ」
そう苦笑して再び歩いていたら、北校舎の前まで来ていた。
何となく名残り惜しかったが、そこで別れた。
そして、高校生最後の夏休みに入り、その後、二人で話す機会はないまま、私は翌春に帰
京した。
夏休み前の時季がくると、ふっと、あの野道の夏草の青い匂いと、先生の可憐な表情が浮
かぶ時がある。

吉田拓郎の「夏休み」の歌を聴くと、そんなこんなを想い出す。
ちなみに、本籍を滋賀県から東京都目黒区に移してからは、滋賀県にはあまり縁がないが、
「県人会」の一員として、今でも「滋賀県立芸術劇場・びわ湖ホール」から、催しの案内
状が届く。
この9月中旬には東京文化会館で、声楽アンサンブルの定期公演が開催されるが、その招
待状が先日届いた。
また、母校天理高校の野球部やラグビー部の活躍ぶりは、今でも地元の級友から連絡が来
る。
若き頃の夏の想い出は、いまだ消え去らぬ。
ありがたいことだ。

そして21日の今夜は、今年限りで引退する(?)我らが吉田拓郎の最後のテレビ出演の
様子が、フジテレビで放映されるとのこと。
時代と共に「生きる喜びと悲しみ」を歌い上げ、人々を元気づけてきたフォーク歌手の盟
主。現役を退いても、彼の歌は残る。

人生で二度とこない今年の夏。
お互いに、老いも若きも「自分の夏休み」を楽しみたいものです。
それでは良い週末を。