続・旅の途中で(2) |
7月25日(月)の夕方、「女優の島田陽子さん急死」という訃報がニュースから流れて いた。私は十分に予測していたことだったが、やはりショックだった。 「逝ってしまったか。遅かったか・・」 そう考えた瞬間、それまでの様々な思考や感情や周囲の全ての事象が目の前・身体の中か ら消え失せ、時間の流れが停止した真空の空間に立っているような、そんな無感覚の状態 に陥った。 私は首をゆっくりと3回まわして椅子から立ち上がり、自室の窓を開け、熱気を含んだ外 気を大きく吸い込み吐きだし、しばし西の空をぼんやりと眺めていた。 すると「やはり仕方がない・・」という思いが腑に落ち、人知れずに頷いていた。 島田さんから電話があったのは、先々月の6月14日の夜だった。 亡くなる1か月ほど前だった。 私の枕元の、マナーモードにしてあるスマホが、闇の中でブーブーと嫌な振動音を出して いた。 入眠してすぐだった。時計を見たら午前零時前。 以前なら「まだまだこれからだ」と気勢を上げながら、新宿のスナックなどで飲んでいる 時間だっただろうが、今は午後11時前には床に就く。 半睡状態でスマホを握ると「東井さんですか・・・。夜分にすいません。島田です・・・。 ご無沙汰しております・・・」 私は島田陽子さんからの深夜の突然の電話に驚き、眠気が飛んでいた。 「えっ、島田さん?こんな時間にどうしたの?」 「すいません・・・。いま日赤の広尾病院に入院しています」 その声は掠れていたが、言葉遣いはしっかりとしていた。 いや、しっかり喋ろうとしているようだった。 「どうしたの!?心筋梗塞?」 「いえ。先週、呼吸ができなくなり・・・気を失って救急車で担ぎ込まれたのです・・・。 その前の週にも急に苦しくなって、救急車で入院していたんですが・・。 肺の機能がすごく悪くなっているそうなんです。今は少し楽になっていますが・・。 いま、病院の個室に一人でいるんですが、夜は気が変になるほど不安になってしまって・・・ それで東井さんの声を聴きたくて・・・ お電話してしまいした。こんな時間にすいません・・・」 「そんなこと、気にする必要ないよ。そうか・・・入院していたのか。 夜の長話は身体にさわるから、とにかく明日お見舞いに行きます。 確か予約してないと面会が出来ないから、明日でも予約して行きますよ」 「いえ、私のほうで明日の午後3時に予約を頼んでおきます。是非お会いしたいのです」 「わかりました。明日午後3時に伺います。今夜はゆっくり休んで・・・」 「ああ、良かった・・・。少し気持が楽になりました。ありがとうございます。明日お待 ちしています・・・」 彼女の声は、悲しいほど弱く儚かった。 翌日(6月15日(水))、私は病院へ見舞いに行った。 島田さんに会うのは、ほぼ2年ぶりだった。 (当日の話は、次回にでも) 前回お会いしたのは、2020年6月3日。 新型コロナ感染症の第二波に入った頃だっただろうか。 その日の昼に、彼女から突然の電話があった(誰の電話も、すべて電話は突然になるが) この日の夕食の誘いだった。 彼女は現在、二子玉川駅(ニコタマ)近くのタワーマンションに住んでいるとのこと(そ れまで下北沢、広尾、桜新町、軽井沢、京橋などにも居住。入院時は代官山) 私は当時、青山一丁目駅近くの賃貸マンションに事務所を設けていたので、それなら電車 で1本、急行で15分もあればいける「ニコタマ駅改札口前で、夕方4時半に待ち合わせ」 することとした。 梅雨が明けたようなすがすがしい天気で、行きかう人たちの顔は心なしか晴れやかで、マ スク無しの人もまだチラホラいた。心地よい夕風が多摩川方面から吹き抜けていく、大開 発で洒落たビルが乱立したニコタマ駅周辺。 改札前広場に立っていると、向こうから島田さんが颯爽と速足で近づいてくるのが見えた。 身長171センチ(公称:私には169と言っていたが、170の私より高く見えたので、 ヒールの差と思っていたが)のしなやかな身体にまとった薄グレー色のノースリーブのワ ンピースと、白い夏用の帽子姿が良く似合っていた。 大袈裟に例えれば、1974年(48年前)に日本テレビで放映された、青春ドラマ「わ れら青春!」での高校の英語教師、通称「陽子先生」のような、清楚で正義感にあふれた 雰囲気さえ感じられた。 私が島田陽子という女優を初めて知ったのは、テレビで観たこの青春ドラマの1シーンか らだった(注・中村雅俊主演) 劇中、島田さんはグレーのスカートに白いブラウス、紺のカーデガンという服装。そして これがポイントなのだが、カーディガンの袖口を肘までたくし上げた格好で教科書を抱え、 生徒の挨拶に笑顔で答えながら、校庭を颯爽と歩いていた。そんなシーンに惹きつけられ たのだ。 「清楚で端正な人だな!」と。 島田さんはこの時、たしか21歳だった。 さらにその年に上映された日本映画の名作「砂の器」に、主演の天才ピアニスト(加藤 剛)の愛人として、凛とした綺麗な表情の中に影がある、芯の強い一途な女性を演じて いた。 苦悩の末に殺人を犯してしまった過去を背負う男。その天才ピアニストを愛する彼女は、 逢瀬の後にアパートの2階の自室の窓から、道路を歩き去っていく男の後ろ姿を見送る。 カーテンの隙間から上半身裸の姿で、寂し気な表情で男を見送っているのだ。 そのシーンを観た時は、驚いた。 「あの清純派の島田陽子が、胸をさらしているなんて・・・」 だが、ニコタマで会った時も驚かされた。 「元気だった?」 「はい。今は元気になりましたが、昨年末は大変でしたの。 実は自宅で倒れて、救急車で病院に担ぎ込まれたんです。心筋梗塞ということですぐに手 術をしたのですよ。でも、お陰で今はすっかり元気になりましたわ」 「心臓手術をしたのか!それは大変だったな。でも、そんな風には全然見えないけど」 私が、マスクをしていない彼女の顔と身体全体を上から下まで眺めると、少し顔が瘦せた かなと言う程度で、以前と変わらなかった。 すると彼女は、首に巻いていたスカーフを取り、肩にかかった頭髪をかき上げて、首の横 をさらして見せた。 そこには直径2センチほどの傷跡が、痛々しく膨らんで見えた。 「ここから管を通して、手術したんですよ」 そう言って、「もう仕方がないんです」と割り切るように微笑んでみせた。 私は内心、女優が首に傷跡を残さざるを得ないとしたら、さぞかし無念な思いだっただろ う」と心中を察した。 同時に「この人は、強い人だ。いや、強く生きざるを得ないだけで、本当は寂しがり屋で 孤独で真っすぐな人なのだろう。すぐにでも心が折れてしまいそうな状況を、何とか必死 にかいくぐって来ただけなのかもしれない。それができるということは、やはり心が強い のだろうが」とも思った。 そんな沈黙を破るように、彼女は明るい声で言った。 「この近くに美味しい中華料理店がありますの。今からそこに行きませんか。東井さんは 中華はいかがですか」 「私は何でも好きだよ。中華も大好き。そこに行きましょう」 その店は「維新號 天心茶室」だった。 維新號の赤坂本店では「北京ダック」が売りだった。以前に私が家内と北京ダックだけ頼 んで紹興酒を飲んだが、実にうまかった(高いが)。向こうの席に、ゴルフ帰りで日焼け した俳優・渡哲也とその仲間の3人が、陽気に食事している以外は、客は誰もいなかった が。 ニコタマ店は落ち着いた雰囲気で気軽に点心を楽しめるので、居心地の良い店だった。当 時はコロナにもかかわらず、まだアクリル板の仕切りも無かったので、のびのびと話が出 来た。 私は紹興酒を飲み、彼女は軽いサワーのドリンクを1杯だけ飲んで、色々な小料理を食べ ていた。 話が弾んだが、新型コロナの感染拡大が徐々に深刻化を増していた頃なので、2時間ほど で切り上げ、私は駅前で島田さんと別れることにした。 しかし、彼女は私を家まで車で送っていくと言ってきかない。運転好きな彼女は、こうい う機会に車を運転したいのだろう。私はその親切に甘えることにした。 「あなたは飲んでいなかったよね」 「アルコールは飲んでいませんので、ご心配なく。 目黒通りを行って、環7を曲がれば上馬の交差点ですよね」 「そう。その交差点の手前で降ろしてもらえればOKです」 そんな言葉を交わしながら、近くの彼女のマンションまで歩き、広い地下の駐車場に駐車 してある、ガッチリした車体の黒い車に同乗した。 確か、トヨタの「ランドクルーザー」ではなかっただろうか。 ニコタマで会った時から、はや2年。 新型コロナは収束するどころか、まだ拡大している。 そして今年の6月14日の深夜に、2年ぶりに島田さんから電話があり、翌15日に日赤 広尾病院にお見舞いに行き、そのあと音信不通になり、7月25日に島田さんの訃報がマ スコミから流れたのだ。 話がそれるが。 私が島田さんと初めて会ったのは、私が50歳の頃。 私が懇意にしている4歳年上の弁護士の紹介で、六本木のレストランで3人で会食したの が最初だった。 厚労省の職場にいた私の電話に、弁護士のH氏が「東井さん、今夜空いてますか?もしよ かったら女優で島田陽子さんと言う方がおりますが、彼女と3人で食事をしませんか。東 井さんは島田陽子さんを御存じですか?」 「知ってますよ。テレビの『白い巨塔』に出てた女優さんでしょ」 という始まりで、お会いしたのだった。 (私はそれまで、島田さんの映画やテレビドラマは、前述の連ドラ『われら青春』の1話 のみと、映画『砂の器』、それに田宮二郎主演の『白い巨塔』しか観ていなかったが) その初対面の夜は、帰り方向が一緒だということで、島田さんが近くの駐車場に止めてお いた車で、私を上馬まで送ってくれた。 車は彼女の愛車・濃い緑のジャガーで、彼女は狭い道も巧みなハンドルさばきでスルスル と通り抜け、幹線道路は素早くスピードを上げるなど、その運転の手馴れた技術には驚い た。 (当時は、まだ軽い飲酒なら運転をして帰る人が多くいたが、ペーパードライバーだった 私でさえ、全く疑問を感じなかった。今思えば、首がすくんでしまうが) あれから25年。 その間に、島田さんとは何回も飲んだり喋ったりした。 たまに会う友人、という感覚だった。 彼女は、高価な店や名店と言われている店より、庶民的でどこにでもある居酒屋を好み、 「東井さん、おいしいお店がありますので、そこに行きませんか。普通の小さな居酒屋で すが、美味しいですよ」などと言って、煙と喧騒に満ちた店を案内してくれたりした。 本人はハラミの串焼きで安い赤のグラスワインを、美味しそうに飲んで陽気に喋っていた。 時には六本木で飲んだ後、西麻布の老舗イタリアン「キャンテイ」で軽く飲み、「カラオ ケで歌でも歌いたいな」と言うと、「行きましょう。この近くにありますから」と言って 会員制のような落ち着いたカラオケ店に入った。 入店の際は下足を預け、カラオケルームは8畳ほどの絨毯敷きのリビングルーム様式にな っていた。黒服の従業員の対応は良く、何となく芸能人ご用達の店のように感じた。(だ が、どうということは無く、今ならBIGECHOのほうが良いだろう) 大画面の前のソファに座り、色々な歌を好き放題に二人して歌って楽しんだ。 また、私が監督をしていた厚労省本省の野球チームの歓送迎会や、本省の課長補佐有志の 懇親会などに誘うと、気軽に参加してワインを飲みながら皆と歓談を楽しんでいた。 さらに、私が厚労省を早期退職し、JA三重県の厚生連本部の常務理事として勤めている 時も、傘下の病院や厚生連主催の講演会などに、特別講演の講師として出席していただい たりした。 いつでもどこでも、気取らない、偉そうにしない、気配りのある人だった。マスコミや芸 能界ではどのような評価かは知らないが、私には庶民的で優しい人だった。 そして話は再び、訃報に接した25日の翌日のことに。 7月26日(月) 私は長野県の佐久市にあるセカンドハウスに行くため、東京駅から新幹線に飛び乗った。 用向きは、ビックカメラから新規購入したミニコンポが1週間で故障したので、この日に 無償で届く新製品の受理と、旧製品の引き取りををすること。それに、家のベランダ(ウ ッドデッキ)の修繕の打ち合わせを、隣家の工務店の人と行うためだった。 二日前の日帰り京都の旅の疲れが残ったままだったが、仕方がない。 北陸新幹線の車窓から眺める佐久平駅までの田園都市の風景や、小海線に乗り換え、臼田 駅に向かう車窓から、青い田畑や遥かな山波を眺めるのも一興だ。 私はそう考えるようにした。 思えば、かって佐久病院が主催し、佐久平駅近くのホールで市民講演会を開催した際も、 私から依頼して特別講演をしてもらったことがあった。 明るくわかりやすい、親しみの持てる講演会だった。 終了後、近くの蕎麦屋の畳部屋で、病院の幹部諸氏と共に、皆で大いに飲んで歓談したこ とが、忘れられない。 「良き時代」だった。 私は東京駅のキオスクで、日刊スポーツとスポーツニッポン(スポニチ)を買い、新幹線 がスピードを上げ始めた頃から読み始めた。 どちらのスポーツ新聞も、1面と芸能欄は島田さんの記事で埋められていた。 「国際派女優・島田陽子さん 大腸がんで急死 69歳」 「『将軍』で米ゴールデングローブ賞・主演女優賞 『続氷点』『犬神家の一族』」「国 際女優からスキャンダル人生 波乱万丈の人生に幕」 「不倫・金銭トラブル・私生活に影 正直でいちずな性格ゆえに」 等々。 『仮面ライダー』で共演した藤岡 弘氏は「思いやりのある子で、会うとニコッと笑う、 優しい妹のような子だった」 『砂の器』で共演した森田健作氏は「あんなに美しく清楚な顔立ちながら、あんなに寂し そうな雰囲気を醸し出せるのは、島田さんしかいなかった」 他にもいろいろな方が、彼女の死を悼む言葉を述べていた。 新幹線の車内で新聞を読み、色々なことを思い浮かべていると、いつしか車窓から浅間山 のなだらかな山波が映り、佐久平駅が近づいてきた。 これから赤字路線の単線「小海線」に乗り換えて、佐久病院の地元、臼田駅に向かう。 現在、全国の赤字路線の廃線が検討されているが、小海線はどうなるのだろうか。 私が佐久病院と縁が出来て、佐久に通い始めて、今年で40年になる。その頃から小海線 は、私の佐久旅行の足として、得難い存在だった。 しかし。今後はどうなるかわからない。 「まさか」「想定外」は最早ない。 何が突然起こっても、おかしくはない(やむを得ない)時代に入っている。 そんな思いを乗せて、私は小海線の2両編成の小さな電車に揺られていた。 佐久の青田の美しさは、昔からまだ変わってはいなかった。 私はようやくホッとした気分に戻った。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |