続・旅の途中で(3) |
6月15日(水)のこと。 午後3時に、渋谷駅前のバス停から「日赤医療センター」行きのバスに乗った。 正式病院名は「日本赤十字社医療センター」(708床) 住所は渋谷区広尾4丁目になる。 地下鉄・日比谷線の「広尾駅」から徒歩でも行ける。 だから、タクシーの運転手に「広尾の日赤病院」でOK。 「日赤病院」だけでは、乗車場所によっては「大森、武蔵野」などの病院に直行される間 違いもある。「日赤医療センター」といえば間違いない。ただし、まれに「医療センター に行って」だけだと、新宿の医療センター(国立国際医療研究センター)や、駒沢の「東 京医療センター」と間違われる場合がある。渋谷界隈からだと、やはり「広尾の」と言え ば問題ない。 広尾駅の近くには「東京都立広尾病院」(426床)がある。 住所は渋谷区恵比寿2丁目。 さらに少し進むと「北里研究所病院」(329床)がある。 正式名称は「北里大学北里研究所病院」 住所は港区白金5丁目。 この様に、広尾駅周辺には名だたる病院が3つあるので、事情がわからない人がタクシー に乗り、運転手に「広尾の病院に行って」などと指示したら、必ず「どこの病院ですか?」 と返される。返さない運転手は新参者だろう。 日赤病院と早合点し「わかりました」と慌ただしくスピードを上げ、「着きましたよ」と カネを払って降ろされたのは良いが、乗客は「えっ?ここが都立病院?」「北里病院だっ け?」というトホホの状態になってしまう。 だから運転手も乗客も「日赤か、都立か、北里か」を確認しなくてはいけない。 余計な話から始まったが、私はバスで終点の日赤医療センターに向かった。 予約した面会時間が、午後3時から3時半に変更になったので、そのぶん予定より30分 遅くバスに乗車したのだ。 前夜、島田さんは「午後3時にお待ちしています」と言っていたが、当日の昼過ぎになっ て電話が入った。 「東井さんですか。私は島田のお世話をしておりますMと言いますが、急に担当医師の説 明が午後3時に入りまして、本日の面会時間を午後3時半に変更していただきたいのです が。勝手を言って恐縮ですが、よろしいでしょうか?」と、冷静な物言いの男性の声が聞 こえた。 私は「了解しました。まず1階にある面会受付窓口でチェックを受ければいいのですよね。 失礼ですがMさんは島田さんのマネージャーですか?」と尋ねたら、初めは少し言いよど み「リスクマネージメントを担当しているものです。まあ、島田さんのマネージャーとい うことにもなります。よろしくお願いします」という返答だった。 私がバスに乗った時も、再度、島田さん本人から電話があった。 「東井さん、時間を変更していただいて、すいません。お待ちしています」 「わかりました。構いませんよ。Mさんからも先ほど電話を貰いましたが、彼がマネージ ャーですか?」 「ええ、、、。よくやっていただいています」 「わかりました。それでは時間通りに伺いますので」 予想通り、医療センターは新型コロナ対策で入館規制が厳しかった。 私は6階フロアに辿り着き、閑散としたナース・ステーションで受付をし、そこにいた看 護師に病室の場所を指示された。 私が「中村陽子さんに面会したいのですが」と言ったとたん、ナース・ステーションに居 た数人の看護師が、私を一斉に見つめたのに、気づいた。島田さんは本名の中村で入院し ていた。 6階フロアは緩和ケア病棟だった。 病棟全体が、静かで沈んだ雰囲気に満ちていた。 他の病棟と違い、職員や患者が廊下を行きかう姿はなく、ましてや見舞客の姿は皆無で、 静まり返っていた。 その非日常の非現実的世界のやるせない空気を、少しでも切り裂いて現実の日常を取り戻 そうとするかのように、角の個室から島田さんの声が響いていた。 そこが島田さんの病室だった。開放されたままのドアから中をのぞくと、島田さんが45 度ほどの角度に起こしたベッドに寝たまま、ベッドサイドに立っている二人の看護師に向 かって、一生懸命に声を嗄らしながら、何か喋っていた。喋るというより訴えている、問 いただしているという感じだった。 私は中の会話が済むまで、部屋の前の廊下に立っていると、一人の看護師が「あちらのコ ーナーにソファがありますから、そこでお待ちください。終わりましたらお呼びします」 と言ってくれた。 呼び込みがあったのは、それから15分ほどたってからだった。 その時「これが時間変更の原因だったのか。担当医の回診ではなく、きっと、緩和ケア病 棟の看護師長と担当看護師に対し、島田さんが何かを必死に要望していたんだ」と、推察 した。 その内容は、私が入室して二人になってから、はっきりした。 彼女は、看護師にこう訴えていたのだ。 「すぐに退院させてください。私はこんなふうに、毎日何も治療をしないで、死ぬまでじ っとこうしているなんて、出来ません。何も治療をしてくれず、『明日死ぬかもしれない。 外出したら死ぬかもしれない。手術したら術中に死ぬかもしれない』と言われ、寝かせら れているだけ。 私は、このままここで、死ぬのを待っているしかない、ということなのですか?! 明日と明後日に、現在進めている映画製作の件で、キューバから大事な人が来日するので す。日本大使館の人も来られ、非常に重要な会議をしなくてはならないのです。私がいな かったら駄目なんです。私はいつ死んでも構いません。だからここから少しの時間でも、 私を退院させてください」 そういう主旨のことを、訴えていたとのことだった。 昨日深夜の電話で、「心筋梗塞でなかったら、貴女の病名は何だったの?」と尋ねたら、 「肺の病気です。非結核性抗酸菌症とか・・・。呼吸が苦しくて入院しました」と掠れた 声で答えていた。 この日、病室のベッドサイドの椅子に座りながら、詳しく病状を聞いた。 「緊急入院して呼吸器科で診察をしたのですが、非結核性抗酸菌症という肺の病気なんで す。それも末期ということで、手が付けられない状態ということなんです。・・・。1年 前の検診で、『早い時期に薬を飲むと進行を抑えられるから、専門病院でよく診てもらう ように』と、言われていたのですが。日本とアメリカの往復などでバタバタしていて・・・」 とのことだった。 そしてこうも続けた。 「ここの呼吸器内科では、手の施しようがないと言って緩和ケア病棟に私を移したのです。 でも、緩和ケア病棟の担当医師は、『非結核性抗酸菌症の患者さんでも、手術で直した例 がありますよ』と、おっしゃっていたんです。でも呼吸器内科に問い合わせても、埒が明 かなかったそうなんです・・・」 「貴女は呼吸器内科の担当医に、診療方針をちゃんと聞きましたか?」 「聞きました。でも、薬の投与も効果ないし、手術も出来ないと言うだけなのです。こう して病状を緩和しながら様子を見るしかないそうなんです。私はいつ死んでもいいと思っ ています。 しかし、いま私がプロデューサーとして手掛けている「チェ・ゲバラ」の映画製作を成し 遂げたいのです。せめて明日以降来日するキューバの映画関係者にお会いし、日本のキュ ーバ大使館の人も参加する会議に出席したいのです。私がいないと駄目なのです。でも病 院は出してくれないのです・・・」 それに続けて「私・・・肛門にもガンができているのです」と、少し気恥ずかしそうに小 さく笑ってみせた。 (注・逝去後のマスコミの報道によると、島田さんは、手術=人工肛門も抗がん剤の服用 も拒否されていたとのこと) 私は島田さんの命を賭した願いも、病院の医療担当者としての責任感も、痛いほど感じて いた。 私は面会制限時間をオーバーしていたが、何かいい方法はないかと考え、最後の方法とし て「セカンドオピニオン」を受けることで退院、そして再入院かセカンドオピニオンによ っては転院を図る。 それしかないと考えた。 私は彼女の見舞いに行く前に「島田さんは、病院に不満を抱いていて、先行きに希望が持 てなく絶望的になっているだろう」と、推察していた。 現状維持するだけでは悪化の一途で、悔いが残る死を待つのみの日々になる、と。 私は、予め「非結核性抗酸菌症」に関する情報を得るため、ネットで色々と検索して見た。 例えば、結核予防会複十字病院の臨床研究アドバイザーは、HPでこう語っていた。 「非結核性抗酸菌症は、結核と異なり他人に感染することは無いが、長年放置しておくと 重症化する(血痰や喀血が続き、呼吸困難になると入院措置となる) しかし、数種類の薬を服用しながら時間をかけて完治する例が多い。治療法はまだ確立し ていないが、3~4種類の薬を用いて治療を行う(手術を行う場合もある) この病気の患者の死亡率は、年約1%以下」 この「手術を行う」ということに着目した。 そして、複十字病院には「非結核性抗酸菌症・気管支拡張症専門外来」 があった。 また、国立国際医療研究センターの呼吸器内科には、「結核・抗酸菌指導医」や「日本結 核・非結核性抗酸菌学会認定医」が何人もいた。 しかし、日赤医療センターの呼吸器科には、それらの資格者は見当たらなかった。 この時、マネージャーのM氏は日帰りで大阪に行っているとのことで、病室にはいなかっ た。 私は、島田さんに「セカンドオピニオン」、他の医療機関の医師の意見を聞く方法を勧め た。 そして至急、担当医に「紹介状(診療情報提供書)や検査記録やCT・MRIの画像検査 結果やフイルムなどの資料一式」を頼んで、用意して貰っておくことを指示した。 彼女は「セカンドオピニオン」のことは百も承知で、「わかりました」とうなずいた。 それから最後に「私の気を入れてあげます。元気になるようにね」と言って、目を閉じた 彼女の額に、1分ほど手を当てていた。心の中で「神様・・・」と祈りながら。 「東井さん、私、希望が湧いてきましたわ。こんな気分になったのは本当に久しぶり。さ っそく担当医に頼んで、資料をそろえてもらいます。受け取りましたらご連絡いたします ので、その時また来ていただけますか」 「また伺いますよ」 「ありがとうございます。明日にでも貰えると思いますが」 「私はこれで帰りますが、Mさんにもよろしく言っておいてください。それではまた」 そう言って、立ち上がった。 彼女は「ありがとうございました」と言って微笑んだ。 久々に見る笑顔だった。 私が入室した時から、彼女は鼻にチューブは通しておらず、マスクもしていなかった。 すっぴんの顔は少し痩せて青白く見えたが、唇に薄く紅をさしているのに気づき、私には それが女優としての最後のプライドのようで、哀れで悲しく愛おしく感じられた。 部屋を出るときに振り向くと、彼女は上半身を前にして、すがるように私の目を見つめた。 私は黙って何回も頷き、「大丈夫!」と答え、「元気になったら、おいしいワインを飲み ましょう」と言って去った。 それが、島田さんに会った最後となった。 その見舞いの日の夜、私が床についてウトウトし始めた時に、スマホの電話が鳴った。 気が付いたのが遅かったのか、受話器を当てた時には切れていた。 着信履歴には、見慣れない番号が残っていた。 島田さんの場合は登録されているので名前が表示されるが、着信履歴には見慣れない番号 だけが表示されていた。 「マネージャーか?それとも変な電話か?」 私は疲れていた上に、何となく返信する気になれず、そのまま眠りについた。 翌朝、その番号に電話をしたが通じなかった。 島田さんに電話をしてみた。 しかし、何回かけても呼び出し音が聴こえるだけで、応答がなかった。 「セカンドオピニオンの資料一式は、すぐには出来ない。数日から1週間はかかるだろう。 資料が出来たら連絡があるはずだ」そう考え、待つことにした。 一方で、セカンドオピニオンを求める医療機関として、私は複十字病院と国際医療センタ ーを考えていた。 しかし、複十字病院は清瀬市にあり、いざとなると遠い。 国際医療センターは新宿にあり、広尾からも近い。 いずれにしろ私とマネージャーが出向くことになるが、センターのほうが良いと思ってい た。そこは私が敬愛し、30年間親しくお付き合いしてきた高久史麿氏(元日本医学会長) がセンター総長をしていた病院であり、先の6月26日(日)にホテルニューオータニに おいて「高久先生お別れ会」に参列した際、高久先生のご長男(順天堂大学准教授)から、 「何かありましたらご協力致します」と仰っていただいていたので、国際医療センターに しようと考えていた。 しかし。 日々はあっという間に過ぎ、7月25日に島田陽子さんの訃報がマスコミによって流れ、 彼女の死を知った。 話は7月26日(火)に戻り。 私は佐久のセカンドハウスからの帰路、東京へ向かう北陸新幹線の車窓から、ぼんやりと 軽井沢周辺の緑を眺めていた。 すると、いつか島田さんに「私が映画に出るとしたら、どんな役がいいと思いますか?」 と聞かれたことを想い出した。 そのとき私は「そうだな。サスペンス物で国際的女スパイなんて面白いかな。それもきわ どく要人の懐に飛び込む、セクシーなスパイ役」などと、酒の酔いで適当なことを喋って いた。 その訂正をせずままに逝ってしまった。 それが残念だったと悔いた。 本当は「黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』で原節子が演じた役。戦前・戦中・戦後、 地域や社会や国家権力からの迫害・弾圧に負けず、日本の反戦と女性解放の信念を貫き通 した女性の役。やはり社会的な映画か、岸恵子が70近くで演じた、市川崑監督の「かあ ちゃん」みたいな、貧乏長屋暮らしの母親役。たくさんの子供の世話や長屋の人達への思 いやりにあふれた庶民的な人情話。こうしたものに尽きると思う」と言いたかった。 そういえば、岸恵子は「卑しい女、権力に媚びる女は、私には恥ずかしくてできない」と 語っていた。 そんなあれこれを考え、偲んでいるうちに、電車は東京駅に着いたのだった。 今日もテレビや新聞から、暗い、気が滅入るニュースが伝わってくる。 そんないつの時代でも、庶民は少しの楽しみに心を和ませながら生き延びてきた。 そして今こそ、人々の心に明るい光をともす映画や音楽や文学が求められている。 島田さんには、その一端を担ってくれることを願っていたのだが。 さて、今度はどこに旅に出ようか。 日本の日が暮れないうちに・・・。 それでは良い週末を。 |