東井朝仁 随想録
「良い週末を」

晩夏に想う 

一昨日の夜、NHK・TVのドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」を観ていた
ら、思わず「おおっ!」と驚きの声をあげてしまった。
その画面には、私が23歳の頃から通っていた、新宿3丁目にある「洋風居酒屋 どん底」
が映し出されていたからだ。

新宿「どん底」は1951年に創業。場所は、寄席の「末廣亭」の近くの路地を入ったと
ころ。
「あれ?こんなところにロシア料理かスペイン料理の店がある」といったたたずまいで、
周囲や隣の店などとは異質ながらも、特に目立つ主張も無くぽつねんと建っている。
唯一の目印は店頭につるされた1メートル四方ほどの看板一枚。
こげ茶の板に赤い字で「どん底」と書いてある。この字体がとても素敵で、洒落ていた。
木造3階建て・地下1階の、外壁にツタが絡まる小さな洋館風建物。
狭い間口の重厚な木質ドアを開ける(いつも、ギイイと大きな音が出る)と、すぐに1階
カウンターの端の部分に当たる受付がある。
そこで、どん底の店員の制服であるロシアの民族衣装・ルパシカ(色は紺だった)を着た
マスター兼会計担当に人数を伝え、左に行く階段を上る。

すると1階(道路からの入口を1階としたら、実質2階になる)の6畳ほどのフロアに
(もう少し広いか?)、数人が座れるカウンター席と、4人用テーブルが2つ置かれてい
る。カウンターの後ろは厨房。
さらに階段を上がって2階に行くと、その階段の踊り場から馬蹄型(U字型)のようなカウ
ンターが左右に広がり、自然とどちらかのオープン・ルームに分かれることになる。
この馬蹄型のカウンター内は広く、夥しい数の洋酒瓶や酒類、グラスなどが置かれ、2人
の店員(バーテンダー)は左右どちらの客に対してもカクテルを作り、下から上がってき
た料理を配膳したりしていた。
左は、カウンターが3席と、4人用テーブル席が2つ。
右はカウンターが6席と、4人用テーブルが2席だったと思う。
私は、この2階の左側のカウンターによく座っていた。

さらに3階に上がると、4人用テーブルが幾つかあった。
このフロアは開店当時から「歌声喫茶」「歌声酒場」的な場所で、当時、三島由紀夫、小
林旭、丸山明宏(美輪明宏)、越路吹雪、杉浦直樹なども常連客として訪れていたとのこ
と。
私もこの店に通い始めた1970年代は、この3階でドンカク(注・この店の名物カクテ
ル。焼酎にレモン、ガムシロップを加え、炭酸水を注いだサワー味)を飲みながら、「ト
ロイカ」や「ステンカラージン」などのロシア歌曲やダークダックスの「銀色の道」など
を合唱していた。他方、同様に新宿の歌声喫茶「ともしび」でもロシア民謡や労働歌、学
校唱歌などを、珈琲を飲みながら合唱することもあった。
だが、どうも私には性に合わず、3階には上らなくなった(歌うなら独唱。それもフォー
クかムード歌謡を。その願望はほどなくカラオケの普及で解消したが、結局、この歌声酒
場的なフロアは、消防法の関係で1988年に廃止された)

どん底の魅力は、酒や料理(注・つまみには、ピザが最高に美味い)はともかく、建物の
造りと店内のインテリアが醸し出す、セピア色の落ち着いた雰囲気。
ログハウスのような太い丸太の柱や梁がむき出しになっており、カウンターもテーブルも
椅子もすべて、重厚な木材で造られ、歳月を増すごとに渋みのある色合いを醸し出してい
る。
照明をやや抑えた薄暗い店内には、随所に柔らかなランプの光が灯り、人の弾んだ会話も
周囲の木々に吸収されているように、全体に落ち着いた大人の雰囲気が漂っていた(久し
くいっていない現在は、わからないが)

また、客層も好きだった。
ここの店の常連には、前述した有名人のほか、黒澤明監督、青島幸男、岸恵子、愛川欽也
などの映画や演劇関係の者が多かったそうだ。
特にこの店の創始者が、舞台芸術学院で演劇を学び、本人もゴーリキーの演劇「どん底」
の舞台に立った経験があったせいか、新劇関係の人が多いと聞いていた。
私は店に通い始めた頃は、友人ら数人とあれやこれや口角泡を吹いて議論しながら、ふっ
と階段のほうを見て「誰か有名俳優が来るかな?」などと、気になったりしていた。
するとある日、劇団・俳優座の河内桃子らが3階への階段を上っているのが見えた。誰か
が「加藤 剛もいたぞ」とボソッと言ったので、私は3階を覗いてみようかとの衝動にか
られたが、やめた。
当時は、ミーハー的な態度はみっともない、という思いが強かった。
(注・私より9歳上の俳優・加藤剛氏は、私と同じ早稲田大学第二文学部を卒業し、在学
中にはテレビドラマの超大作「人間の條件」の主演のため、1年間休学している。他のタ
レントなら中退しているだろうが、彼の真面目で真摯な性格が見て取れて、私は彼が好き
になったのだ)

私が「どん底」に足繁(あししげ)く通っていたのは、1972年(昭和47年)頃から
1987年(昭和62年)頃までの、約15年間。
私が25歳から40歳頃まで。
沖縄返還・日中国交正常化・列島改造と石油ショック(原油の大幅引上げ・狂乱物価の始
まり)の昭和47年から、バブル経済が始まり日本中に札束が乱舞した昭和62年頃まで。
今から振り返ると、日本中が燃え上がり、全てに旺盛な時期だった。
また、私の年齢も、一番脂が乗ってきた時期だったと痛感する。
私は、人生の四季を春(~24歳)夏(25~49歳)秋(50~74歳)冬(75歳~)
と、大雑把に25年ごとに分けて考えている。

徐々に「どん底」への足が遠のいていったのは、私の気力・体力、酒力、感応力の年齢が
「晩夏」に入り、一方、盛夏で熱く燃えた日本経済も晩夏の様相を呈し、1990年代に
入ると、バブル経済も弾け、平成不況が始まってしまったのが遠因だろう。
今年は日本の戦後77年。
私の年齢はこの10月で75歳。
自分も日本も冬の季節に入っていく。

話を一昨日のNHKのドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」に戻すと。
今回の主人公は、俳優の大森 南朋(なお)氏。
その家族の系譜が面白い。
大森氏は、現在NHKの朝ドラ「ちむどんどん」に出演しているそうだが、私は観たこと
がない。
彼を知ったのは、同局の土曜ドラマ「ハゲタカ」(原作:真山 仁)という経済ドラマで、
彼が主演。冷徹な企業買収で「ハゲタカ」の異名を持つ敏腕ファンド・マネージャーの役
だった。
言葉からではなく、表情と雰囲気だけで相手を威圧する、何を考えているかわからない凄
みを出していた。この一作だけで強い印象を受けていた。

その彼の父は、俳優で舞踏家・演出家の鬼才「麿 赤児(まろ あかじ)」氏。
なるほど、大森氏の得体のしれない凄みは、この父親や母親の影響と、父が主宰する劇団
の活動生活の中に、大森家の家庭が溶け込んで生きてきた幼少期の影響から、滲み出てき
たものなのだろう。
母親は、当時の新宿の喫茶店で有名だった「風月堂」に奇抜な服装でしょっちゅう出入り
し、常識にとらわれない性格から、規制の秩序と常識を否定するダダイズム(あらゆる社
会的・芸術的伝統を否定し、反理性・反道徳・反芸術を標榜する)の言葉を取って、周囲
は彼女を「ダダ」と呼んで愛していたそうだ。
23歳の時、新宿3丁目の雑居ビルで「ダダ」という名のバーを経営し、「23歳のヒッ
ピー族のママ」とも呼ばれていたとのこと。
テレビでは、夫が主宰する劇団の団員や大森南朋やその兄などの子供たちが、雑居して畳
に座って食事をとっているシーンが出ていた。
彼女はすっぴんで、昭和30年代にどこでも見られた地味なブラウスとスカート姿の普通
の母親として、大勢の世話を焼いていた。
私は一瞬で「すごい人だな」と直感した。
そのダダさんについて、テレビではもう一人に感想を聞くため、カメラが「どん底」に入
っていったのだ。
そして、昔ながらの店内の風景の中から出てきた人は、古くから店にかかわってきた、元
マスターの相川氏だったのだ。

冒頭に述べた「思わず、おおっ!と声を出して驚いた」のは、この相川氏(注・私より2
歳年上だったが「相川ちゃん」と呼んでいた)が登場したからだった。
たまに「どん底も久しくいっていないな。最後に顔を出したときは、彼はマスターを降り
ていたが、今でも元気かな」などと思い浮かべることがあった。
しかし、「相川ちゃんがいなくなってしまったし・・今は昔のように政治や文化や社会の
ことなどでお喋りをする者もいなくなったし・・」と考えてしまい、新型コロナのまん延
もあり、随分ご無沙汰している。
それがテレビで観る相川氏は、当時と全く変わらず、背筋がピンと張った丈長の体と薄く
なった頭髪も当時のまま、ふっくらとした顔をにこやかにして、大森氏の母についてこう
一言語っていた。
「このあたりでは、新宿の女王とみんな呼んでましたね。
知らない人はいないですよ」

彼の雰囲気は、数十年前の「相川ちゃん」そのものだった。
何よりそのことが、嬉しかった。
久し振りに心が覚醒させられたようだった。

今日は8月17日。季節は晩夏。
昔から「好きな季節は?」と聞かれたら、躊躇なく「晩夏あるいは初秋」と答えていた。
灼熱の太陽も光をやわらげ、暮れなずむ坂道を歩くと街路樹の葉が 、涼やかな夕風に揺れ
ている。
ただそれだけで、センチメンタルな気分に満たされ、乾いた心が豊潤になってくる。
それが晩夏。
暦年齢は初冬に入ってきたいま マインド年齢は私の好きな「晩夏」にある。
そして、こう呟く。

「おもしろきこともなき世をおもしろく
 住みなすものは心なりけり・・・」

それでは良い週末を。