東井朝仁 随想録
「良い週末を」

中学時代(1) 

今まで、この「良い週末を」と題した拙いエッセイを、約1000篇ほど書き記してきた。
テーマは時間や空間(場所)に関係なく、自分がその日その時に強く感じていることだっ
たら「何でもあり」だった。
お読みの方は既にご承知のことだろう。
しかし、改めて振り返ってみると、私が卒業した「目黒区立第4中学校」時代の話に、殆
どふれていないことに気が付いた。
高校時代の3年間や大学時代の4年間での出来事は随分述べてきたし、写真集「良い想い
出に」では、小学校時代を含めて懐かしい写真をあれこれ掲載してきたが。
なぜ、中学時代のことを述べないのか。
その理由は簡単。
中学2年の頃の出来事を、意識的に忘れ去ろうとする内因からきているのだ。

中学時代の最大の出来事は、中学1年末の「春休み」中に発生した交通事故。
新学年の到来を間近に控えた春の日の早朝。
私は、新聞配達に行く途中に猛スピードで走ってきた自動車に激突された。自転車ごと高
く遠くに(注・相棒の目撃によると、約100メートル)跳ね上げられ、広い目黒通りの
道路脇に駐車していた、たった1台の車のボンネットに命中し、九九死(注・九死という
10%の生存確率ではなく、1%。後日、警察の人がそう説明してくれた)に一生を得た
交通事故のことだけは、何回か書いてきた。
だが、これは中学時代の想い出を語っているものではない。
私の今までの人生における最大の出来事として、まさに「奇跡の生還」という極めて稀な
体験を話しただけで、想い出と言う言葉を使うのには違和感がある。
私にとっての想い出とは、今でも心に鮮やかに蘇る「過去の楽しいこと」だから。

今までの75年の人生を振り返っても、中学時代の印象は、極めて薄い。霞のかなたにあ
る。
中学1年の時は毎日が充実していた。「小学校時代も楽しかったが、中学校も面白いな」
と思って、のびのびと過ごしていた。
だが、交通事故に遭ってから、目黒区立不動小学校1年から目黒区立第4中学校1年まで
の7年間、ずっと続いていた「楽しく明るく、皆と仲良く過ごす学校生活」は途絶えてし
まった。
中学2年から、自分の世界が180度暗転してしまったのだ。

私は「稀に早い退院だ」と担当医師に言われ、救急病院の外科病棟を1か月弱で退院し、
5月の連休明けに初めて新2年生として目黒区立第4中学校に登校した。
担任の先生と一緒に教壇に立ち、先生は一言「今度、この組に入ってきた東井君です。み
んなよろしく」と簡単に紹介し、私はペコっとお辞儀をして席に着いた。
何か空白地帯に飛び込まされたような、空疎な気持だった。
見慣れない50名ほどのクラスの者が、こちらを興味なさそうに見つめていた。内心「不
動小学校の時だったら、みな、もうちょっと明るい眼差しを向けてくれただろう。いや、
中1のクラスでも、多くの生徒がフレンドリーな表情を見せてくれただろう」と思いなが
ら、自分を取り巻く状況の激変を痛感した。
また、私が病み上がりで気弱だったせいか、誰もが私より一回り身体が大きく、顔つきも
大人びて、人相の悪そうな連中が多いと感じた。
私の席は教室のど真ん中だった。
授業中にちらっと四方を眺めてみたが、クラス替えで1年の時の級友や不動小の仲間の顔
は殆どなく、みな知らない者ばかりだった。
その見知らぬ者たちは、きっと油面小学校の卒業生だろうと推察したが、数日でそれが正
しい見立てだとわかった。

半月ほどが過ぎた。
私は、休憩時間にぼんやりしていることが多くなった。
頭と腰を強打・挫傷した程度で済んだから、交通事故の後遺症は特に出てこなかった。
幸い担当医師からは「脳内出血はないので、心配ない」「腰の骨にヒビが残っているから、
2週間はギプスをはめて寝るように」「時間と共に回復する」と、外科医らしい指示をさ
れただけで、禁忌行為は特に言われてなかった。
しかし、気分が常に沈んでいた。何もする気が起きない。
1か月のブランクを置いての授業は、どの科目もわかりずらく、どの先生も感情を表さず、
機械的に教科書の説明を喋り続けるだけで、さっぱりわからなかった。教室内の雰囲気も
沈滞していた。当然、質問をしたり議論したりすることなどなかった。
体育の時間では、自分でもがっかりするほど、他の連中に劣っているように感じた。また、
学力・体力の低下と共に、クラスの中に普通の話し相手は出来ても、親しい友達がまだ出
来なかった。
小学1年生からずっと続いてきた「クラスのリーダー」的な存在は、全く喪失していた。
それは当然のことだった。
勉強はできない。運動はパッとしない。他の者に無い特技もない。これではクラスの者に
リスペクトされる要素がないので、人も寄ってこない。
だが、そのようなことは問題ではなかったし、そんなことを気にする余裕もなかった。
朝から怠い。つまらない。何事にも身が入らない。
そして、授業中に居眠りすることも多くなってきたのだ。

原因は自分でもわかっていた。
それは、学校に通うようになってから再び新聞配達を始めたからだった。
それまでの読売新聞販売所には、事故で途中で辞めたから働けない。仕方なく、私を知っ
ていた東京新聞の配達員の誘いで、そちらでバイトすることにした。
だが、東京新聞は配達部数が読売や朝日より少ないが、それだけ配達先が広くまばらなの
で、配達の道のりが倍になった。
読売の配達をしていた時は、3階建ての社宅の1階にある郵便受けに、一度に十数軒分を
投函できたが、東京はせいぜい1、2軒だった。
現在は電動自転車や単車での配達だが、当時は、柔道帯のような固い帯を右肩にかけ、身
体の左側の腰骨に肩帯で結んだ分厚い新聞の束を乗せて担ぎ、それを崩さないように走り
続けて配達していた。
早朝に販売所に行き、人や車が動き出す頃に疲れ果てて帰宅し、ご飯と味噌汁と漬物で朝
食をすぐに済ませ、走って登校する。
雨や風の日の朝は、新聞の束にカバーをかけ、降りしきる雨の中を合羽を被って配達に回
った。泣きたい気持になる以前に、ただただ必死で駆け回った。
そうした日々が続いた。
身も心も疲弊してきたのだ。

これを読んで「病み上がりなのに、それも新2年生の新学期なのに、何でわざわざ新聞配
達をするの?静養第一、勉強第一だろうに。ちょっとおかしいよ」と、疑問を呈する方が
おられると思う。
そう思うことが至極当然のことだろう。
(その理由は、次回に)

1か月ほどが過ぎた。
「中学1年の時のクラスでは、身体の大小や、運動や勉強の出来・不出来は生徒それぞれ
であったが、弱そうな者・大人しそうな者をイジメたりする者は、一人としていなかった。
自分達が目立とうとして、くだらないことをやって、クラス内で大騒ぎするような連中も
いなかった。誰もが穏やかな性格で、男も女も休み時間は快活に過ごしていた。
クラスのまとまりも良く、1年生のバレーボール大会では、経験者のS君と私が中心にな
り、優勝を勝ち取ったりしていた。
チームワークが抜群に良かった。
自分はさほど勉強はしなかったが、勉学・運動・友達付き合いにおいて、クラスのリーダ
ーの一人だったはずだ」
そんな詮無いことを、遥か昔のことのように思い浮かべることもあった。

しかし現実は変わった。
2年のクラスでは、油面小の卒業生のKという、いわゆるワルがいた。Kはクラス内の弱
そうな者をからかったり、周囲が寄ってこなくて遊び相手がいないので、他の組の学年で
1番のワルと連れ立って校舎内を闊歩し、めぼしい者に因縁をつけたり、怒鳴ったり、学
生服の胸元を締め上げてイジメたりしていた。
だが、誰も彼らを諫める者はいなく、我関せずだった。
だから、ほんの数人のワルたちが「腕力」「暴言」で他の生徒を威嚇したり「暴力」をふ
るうことが、まかり通っていた。
先生たちも生徒たちも無関心を装い、クラス内も校舎内の雰囲気もすさんでいた。
当時は、他校でもこのような風潮がまん延し始めていたようだ。
まさに昭和22年生まれの団塊の世代が、大挙して中学生となり、生徒で教室が膨れ上が
るほどのクラスが幾つもできた。だから学校側も、生徒の指導監督がおろそかになったの
だろう。
今思うと、相対的に生徒数に対して教員の数が少なく、さらに日本の高度経済成長が始ま
った頃なので、教職を選ぶより大企業等に人材が流れ、指導力のある質の良い教員の確保
が困難だったのかも知れない。
校庭で誰かがワルたちにいじめられている時、教員室に急報しても、駆けつけてくれる先
生は殆どいなかった。
止めに行くとしたら、二人の男性体育教師のどちらかだけだった。
授業中も、まともに彼らを叱る教師はいなかった。
そうしたワルや、それに追随した者たちは、私が通っていた不動小学校の卒業生ではなく、
私の主観では殆どが隣町の油面小学校の卒業生だった。

公立校の目黒区立第4中学校は、原則的に不動小学校と油面小学校の卒業生が入学する。
また、それらの学区内に居住する者が編入する。
幹線道路の「目黒通り」を境にして、南側の地域は不動小学校の学区で、北側は油面小学
校の学区だった。
当時、南側は目黒区下目黒の地域名で、殆ど住宅街だった。
そして北側は目黒区中町などの、主に商店街だった。
この地域の違いが小学校の(校風の)違いとなり、結果、生徒たちの気質の違いとなって
いるように、当時の私には思えた。
善し悪しの問題ではなく、それは地域文化の違いなのだろう。
不動小を卒業する間近に、何人かの級友が「油面小学校の生徒は、ガラが悪いらしいよ」
と話していたが、全く気にならなかったが。現に、中学1年のクラスでは不動小と油面小
の卒業生はほぼ半々だったが「ガラが悪い生徒」は一人もいなかった。
クラスの雰囲気は親和的で、みな仲間意識が強かった。私は授業も遊びも小学校の時以上
に楽しい日々を送っていたのだが。

2学年の新たなクラスは、みんなが共に仲良くするなどという雰囲気は微塵もなく、それ
ぞれがバラバラで、自分のことしか考えていないふうで、殺伐としていた。
その頃、父に連れられて東京の下町を歩いたことがあった。
行き交う大人たちの顔は鋭く、身なりも汚れ、私と同じぐらいの子供グループも、ませた
口の利き方をしながら通りの真ん中を闊歩し、一人が勢いよく私の身体にわざとぶつかり
「へん!」と叫んで、笑い声を出して通り過ぎて行ったことがあった。
私は子供心に「ガラが悪いところだな」と不快になったが、2年の新クラスで、その時の
嫌な感覚が蘇っていた。
それらは13歳で知った、カルチャー・ショックだった。

今から考えると、当時の中学生の男も女も、ちょうど第二次性徴(成長)期(注・現在で
は、男は11歳頃、女は10歳頃から始まる)に入っている年齢だったから、かも知れな
い。
小学校高学年から高校3年生頃までの人生の思春期にあるので、同じ学年でもマセた者と
オクテの者、大人びた者とそうでない者とで、心と身体の差が出てくる。
身体は大人っぽくなっても、頭はガキのままで常識外れの乱暴をする者もいる。
当時から、どこの地域でも「荒れる中学校」が問題になっていたが、マセた子供、心と体
の成長バランスが崩れている子供に、家庭や学校や社会のバイアスがかかって、どこかで
キレたりするのかも知れない。
現在では、飲酒・喫煙はおろか、男子中学生の半ぐれ的恐喝や、女子中学生の媚びた化粧
や水商売でのバイト、売春など、大人顔負けの行為をする生徒の例を上げたら、枚挙にい
とまがない。
第2次性徴の年齢も、徐々に早まっているのだろう。

いずれにしろ当時の私は、毎日の歩みを止めるわけにはいかず、さりとて何の希望もなく、
ただただ日々を黙々と過ごしていたのです。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。

(追記・目黒区立第4中学校の在籍者には、歌手の水前寺清子さん及び伊藤咲子さん、俳
優の石田純一さん等が。油面小学校には脚本家・小説家の向田邦子さん等が。不動小学校
には石田純一さん等がいた。向田さんの随筆には、随所で、油面や祐天寺や、私が以前に
住んでいた目黒の元競馬場などの話が出てきます)