東井朝仁 随想録
「良い週末を」

中学時代(2) 

(前回からの続きです)

私は、中学1年末の春休みに、新聞配達を始めた。
しかし、4月に入って2年の新学期が始まる直前に、配達所に向かう途中で「まず100
%即死していただろう」(注・事故担当警察官の後日談)という激しい交通事故に遭った。
だが「九九死に一生」という奇跡を得て生還。新学期が始まって1か月余後、目黒区立第
4中学校の2学生として初登校した。
そこで待っていたのは、クラスの殺伐とした雰囲気だった。
中学1年のクラスでは、みんなの仲が良く、明るい雰囲気で毎日が活気にあふれていたが、
それとは真逆の環境に置かれた。
信じられなかった。今までの学校生活で初めて経験することで、ショックだった。

当初の半月ほどは「まだ、通学し始めたばかりなので仕方がない。そのうちに慣れてくる
よ・・」と期待していたが、状況は悪化するばかりだった。
自分の学力の低下(授業が分かりずらい)、他の生徒と比較しての身体の見劣り(身長は
中ぐらいだが、痩せていて腕力不足)、運動力の低下(以前より球技も走力も落ちていた)。
これらと共に、親しく話せる友達が誰もいない孤独感を、日増しに痛感していた。
朝から怠い。授業中も眠くて辛い。楽しいことなど何もない。
そんな日々が続いていた。
その原因が、再び早朝の新聞配達を始めていたことにあることは、十分に承知していた。
それでも「やらざるを得ない」という一念が先走り、来る日も来る日も、何も考えずに早
朝の新聞配達に出かけていたのだ。
その一念とは。

話が回りくどくなるが。
私の家は代々からの天理教の信者で、父は、ピラミッド型の教団組織(注・本部→大教会
(全国で約160か所)→分教会(約1万数千か所)→布教所→信者)の一つである、実
質信者数30~50名ほどの分教会の会長だった。
だが、中野区にあった分教会は昭和20年春の東京大空襲で焼失。一家は一時、父の実家が
ある滋賀県に疎開。私は終戦後の昭和22年にその家(普段は空き家)で生まれ、昭和
24年に一家4人で帰京した。
住居は、父が以前から懇意にしていた資産家S氏の計らいで、目黒区下目黒の広い敷地に
建つ大きな住宅の2階部分を借り受け、そこで両親は分教会としての布教活動を行ってい
た。
2年後の昭和26年。
S氏家族は、その目黒の今の土地建物を売却し、世田谷区に移転新築することとなり、父
はS氏から「折角だから分教会で購入されたらいかがか」と勧められた。しかし、「その
ような資金は無いので困難ですよ」と、父は返答した。
すると数日後、天理教の信者だったS夫人が参拝に来られ、
「代金〇〇〇万円の3分の2は私共がお供えさせていただきますので、たちまち見せ金と
して作ってください。後日必ず、私共がお供えにしてお返しします。残りは分教会で理づ
くりして下さい」と話された。
(注・後年、私はその400坪の土地と大きな家の売買代金を知って驚いた。即座に、日
頃から両親が懇意にお付き合いしていたS夫人の、励ましのこもったご配慮の金額だと推
察した)
同年6月。
分教会の事情を知った、埼玉県に住む信者のNさん夫妻が、自分たちの土地・住居を売却
し、その売却金を分教会の土地代の一部としてお供えし、目黒の分教会敷地内に簡素な木
造平屋の家を建て、一家6人で住み込みで来られた。
同年11月。
父は金策のため、北海道の母の実家を訪ね、送金の承諾を得て帰京。そして母が急遽、滋
賀県にある大教会に報告に上がった。

だが、ここからおかしくなった。
大教会幹部は即座に、「それらのカネは無用。おたくの教会にそんな理はない。北海道か
ら用立てする筋合いはない。大教会が全額出す。これから分教会は、その借金を大教会に
毎月返済すること。完済するまで、土地名義は大教会長の個人名義にしておくこと」と厳
命された。
両親は、やむなく承知した(注・大教会=親、分教会=子の関係で、子は親の意見に素直
に従うことと教えられていたからだ。
なお、そうした形式的な諭し(さとし)は信仰上間違っているとの議論が、昨今ではある
ようだが)
以降、分教会の信者さんたちは、分教会への真正な名義変更を実現するために、日々尽力
した。
そして昭和30年頃。
父は、大教会のA会計から「S夫人より、代金の3分の2の額のお供えがあった」との報
告を受けた。
また、分教会の信者さんたちの努力で、残り3分の1の借金も完済し、父はB会計役員か
ら「分教会の借金は済んだ」との報告を受けた。
しかし。
それ以降、どれほど名義変更のお願いをしようが、どれほど借金返済ではない御供えをし
ようが、幹部たちはノラリクラリで話を回避し、名義はそのままの状態が続き、挙句に、
昭和51年に個人名義の大教会長が亡くなった後も、名義変更は放置され、故人の名義の
ままという異常状態が続いていた。
そうした経緯を、私は生前の父から聞いていた。
(※その後、話の場は延々と無く、病気に伏せた父は「他の一切の人間思案を交えず、法
律的処理が宗教法人の運営に次善の方法」と決断。友人の弁護士に代理人を依頼し、昭和
62年春、父の名前で東京地裁に「所有権移転登記手続請求」の訴状を提出。その年の秋、
父は病没した。足掛け丸3年後の平成元年12月、和解が成立した。そして東井家は大教
会から離脱した)

私が中学2年になった昭和36年(1961年)は、まさに分教会としては宗教法人とし
て先が見えない状況にあったのだが、私の家族とN家族は、お互いに同じ家族のように
「共助」しながら生活していた。まさに「互い立てあい、助け合い」「世界一列みな兄弟」
の教理実践が試されていたと、私は今になってそう回顧するのだが、二つの家族は自然に
身内同然の共同生活をしていたのだ。

当時の私の家族は、両親と子供6人(翌年生まれた五男を含む)の計8人。
兄弟は、兄・私・妹・三男・四男(翌年の五男)の5男1女。
N家族は両親と子供9人の計11人で、住み込み時の6人から5人増えていた。
兄弟は、長女・長男・次女・次男・三女・三男・四女・四男・五男の、5男4女。
面白いことに、両家の子供達が総勢15名いたが、全員、1年ずつの差で、真珠のネック
レスのように、一粒一粒が繋がっていた。
例外は私だけで、兄との学年差が3つあり、N家の長男とは2つの差があった。それ以外
はみな、1年差だった。

当時。
N家では。
N氏(私は、おじちゃんと呼んでいた)は川崎の電線会社に勤務。
私より4歳上の長女(エッコちゃん)は、中学卒業と共におじちゃんの会社に勤務し、両
親を支えていた。
私より2歳上の長男(ショウちゃん)は、奈良県にある天理高校二部(夜間)に入学し、
昼は本部の営繕の仕事をしていた。
また、ショウちゃんは中学の3年間、朝夕の新聞配達をして家計を助けていた。
(注・現在は京都在住。日本を代表する日本庭園の造園家)
そして、私より3歳下の次男(キヨシちゃん)は小学校5年生となり、やはり朝夕の新聞
配達をしていた。私が交通事故に遭った時、自転車で後方を走っていたため、すぐに配達
所に駆け込んで事故を知らせてくれた。
私より1歳下の次女(スミちゃん)は、姉の不在の日中は、家事や子守を手伝っていた
(私のHPの表紙写真集の、先週掲載の「たき火」をご覧。真ん中のおんぶした女の子が
スミちゃん)
私が交通事故で入院した日から退院する日まで、下校するとすぐに病院にきてくれ、39
度~40度の高熱が続く私の額に、水で冷やしたタオルを何十回と交換したりして、遅く
までベッド脇で看護してくれた。

一方、10畳ほどの畳敷きの小さな神殿がある私の家では。
父は毎日、都内や埼玉・千葉に散在する信者さん宅に出かけたり、目黒区の保護司連盟や
天理教の社会福祉研究会の役員として、保護観察中の青少年の更生指導にあたったり、
種々の会議に出かけたり、月に一度は、滋賀県にある大教会と奈良県にある天理教本部の
神殿参拝に出かけたりで、ほとんど家にはいなかった。
また、北海道紋別郡(オホーツク海沿い)出身の母は、分教会の月例祭などの行事におい
て、裏方作業の一切を取り仕切り、買い入れ・料理・配膳、種々の来客接待などを差配し、
全ての信者さんへの気配り・相談・指導などに驚異的なエネルギーを発揮していた。だが、
私が事故に遭った当時は、三鷹市にある病院に心労で入院していた。
私の3歳上の兄は、天理高校2年に進級し、ショウちゃん同様東京には不在だった。
2歳年下の小学6年生になった妹は、母に代わって家事全般をこなしていた。

このような状況で、私は家でも教会の子供たちの中でも、実質的に一番の年長者として、
目に見えない漠然たる責務を負っていた。

両家での収入は、信者さんのお供えと、おじちゃんとエッコちゃんの月給しかなかった。
勿論、東井家としては「お供え」しかなく、そのうちの何割かは大教会にお供えしていた。
広い敷地の大きな家に住めることは、当然恵まれたことだが、生活費は困窮していた。
それでも、みんな結構朗らかに、賑やかに暮らしていた。

私が中学1年生だった、冬のある朝。
まだ暗い4時ごろ、トイレに入ると、外の声が聞こえた。
トイレの窓を少し開けて覗くと、背丈の小さなおばちゃんが、キヨシちゃんに「気をつけ
てね」と声をかけていたのだ。
キヨシちゃんは眠たそうな顔で小さくうなずき、白い息を吐きながら出て行った。
朝の新聞配達に出かけたのだ。
私は眠気が覚め、布団の中でまんじりともせずに天井を見つめていた。
そして「自分も新聞配達をしなくては・・・」と考えていた。
「たとえ100円でも、自分の力で得て、お菓子の一つでも妹や弟に買ってあげなくては。
住み込みで教会の御用をしている信者さん家族の子が、一生懸命素直に新聞配達をしてい
るのに、分教会長の子供は何もしていない。信者さんたちにどう思われているか、、、」
と思い、すぐに「よし、春休みからやるぞ」と決断し、布団から飛び起きた。

そうした気持から勇躍開始した新聞配達だった。
だが、2週間弱で思いがけない事故で頓挫してしまった。
それでも「奇跡的に生還し、怪我も回復したのだから、もう一度、新聞配達をしなくては。
このままでは駄目だ。自分は何もできていない・・」という一念にかられ、再び東京新聞
の配達を始めたのだった。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。