中学時代(3) |
再び新聞配達を初めてから2週間ほどが流れ、季節は6月の梅雨の時季になっていた。 身体も心も重い毎日が続いていた。 そんなある日。学校から直帰し、日課となっている家の掃除を始めようとした。 だが、やる気が全くわかない。それでも掃除と買い物と炊事と寝布団の上げ下げと、何枚 もあった雨戸の戸締りは、私と小学6年生の妹でやらなくてはならなかった。小さな弟二 人には、何か軽いものを運んだりすることは頼めても、他はまだ無理だった。 私は、本を読んでいた妹に、「ミーコ(妹をそう呼んでいた)も掃除を手伝えよ」と声を かけた。 だが、本に夢中で答えない。そこで本を取り上げ「家の事ぐらいしろよ!」と怒鳴った。 すると「やっているじゃない!何よ!」と本を持っている私に突っかかってきたので、私 はカッとなって妹の頭をはたいた。 すると、妹はうずくまって泣き始めた。 私が「何だよ、泣いたりして・・・」と驚いて見つめていたら、たまたまその日は書斎で 用務をしていた父が、すぐに飛んできた。 そして、いきなり私の頬を平手で強く叩いた。 「トモヒト!お母さんのいない時ぐらい妹や弟の面倒を見たらどうなんだ」と、私を強い 口調で𠮟りつけた。 私は頬を打たれた痛さも感じず、私をぶった父の行為に愕然とした。 私は切ない表情をした父の顔を一瞬見つめ、胸が締め付けられるほどの悲しみに襲われ、 返す言葉もなく家を飛び出した。そしてあてどもなく道を歩いていると、急に眼がしらが 熱くなり、思わず嗚咽した。涙がとめどもなく流れた。 救いのない絶望感が心を震わせていた。 それまで、父は家族にも他の人にも、怒鳴ったり言い争いをして激高するなどということ は、全くなかった。ましてや子供を叩くという行為など、一度もなかった(注・私の今ま での人生で、父にぶたれたのはこの時が最初で最後になった) お供物の日本酒を1合ほど晩酌で飲む時や、神事の月例祭後の直会(なおらい)の席で、 信者さんたちと歓談しながらご神酒を飲んだりしてる時も、どの様な場面でも父の酔った 姿を、私は終生見ることがなかった。 争いを好まず感情をあらわにせず、終始にこにこしているのが父だと感じていた。信者さ んたちに対しても、非行を犯して保護観察中の青少年が、保護司の父を訪ねてきた時も、 いつも優しく穏やかに接していた父。 その父に、事の成り行きも聞かずに一方的に叩かれた。 それが悲しくてショックだった。やるせなかった。 兄は奈良に行っていて不在、母は入院中。 当然、残りの4人兄弟の中で、年長の私が責任を果たさなくてはいけないことは、重々承 知していた。 だからこそ必死になって家事や新聞配達をやって来た。 何とか妹や弟に寂しい思いをさせず、教会を預かる家族の責務として、信者さんたちにも 安心して喜んで貰える、明るい生活を送らなくてはいけない、という思いに駆られながら 頑張ってやってきたつもりなのに・・・。 私は様々な思いを錯綜させながら、茫然として歩いていた。 しかし、だんだんと心も落ち着いてきたら、ハッと気が付いた。 「分教会の土地の名義変更(大教会長個人名から宗教法人名に)が長年頓挫して苦悩して いる中、母は入院し、私の突然の交通事故もあり、そしてさらに最近の嫌がらせ事件があ ったりで、父も疲れているのだ」と、父の心情を察する余裕が出てきた。 その数日前の日曜日の朝、こんな出来事があったのだ。 私が新聞配達から帰宅し、ラジオを聴きながらぼんやりとしていたら、「キャーッ」とい うおばちゃんの叫び声が聞こえた。 何か落っことして割れたのかなと思っていたら、父が急いで玄関を出て行った。 何事かと思って私も外に出ると、隣の住み込み夫妻のおじちゃんとおばちゃんが入れ替わ り立ち替わり、バケツに汲んだ水を門の前の汚物にかけ流していた。 私が近寄ると、父が「お前は家に入っていなさい」ときつい口調で言った。 周囲に物凄い悪臭が漂っていた。家の長い灰色のセメント壁を見たら、そこに「邪教!」 「仏敵」という文字が、白ペンキで大きく書かれていた。 広い門前には、人糞が大量にまかれていたのだ(注・当時はどこの家でも汲み取り式の便 所だった) おじちゃんとおばちゃんは、「何てことをするの・・」と言いながら、悲し気な表情で一 生懸命に清掃していた。 時折、近所の人が気の毒そうな顔をして、遠慮がちに無言で通り過ぎていた。 私が「僕も手伝うよ」といったら、おじちゃんは「いいから、いいから」と片手で払うよ うにして、私のそれを許さなかった。 字のペンキが何とか掠れ落ちたのは、陽が沈む頃だった。 私は、この数日前の出来事を即座に思い出していた。 夕方、妹や弟と家にいたら、玄関の呼び鈴が何度もしつこく鳴った。私が出ると3人の中 年の男が立って、家の中を覗いた。 「親はいるか?」 「二人ともいません」 そんなことを言っている時、隣のおばちゃんが顔を出した。 すると、3人の男たちが「あんたでもいいから、聞いておいてくれ。天理教は邪教だ。人 をたぶらかして金銭をまきあげて不幸にさせる仏敵だ」「天理教を信仰するものは、地獄 に落ちるよ」「自分だけでなく、子供や孫など末代まで不幸が起きる。 早く天理教をやめて、ここから出ていくように、そう会長に言っておいてくれ」と、かわ るがわる激しい言葉を吐いて帰っていった。 おばちゃんは「なんて恐ろしい人達だろう・・」と青ざめた顔で震えていた。 私は中学に入学するまで、いわゆる「宗教」の各宗派のことは関心もなく殆ど知らなかっ たが、それでもこの昭和30年代半ばになると、様々な「新興宗教」が機関紙やパンフレ ットの配布などを積極的に展開するようになり、私も否応なくだんだんと知るようになっ ていた。 だから、この嫌がらせ行為は、某・新興宗教団体の者の仕業であると、ピンときた。 当時、この宗教団体が、「他の宗教や他の宗派の信仰は全て『謗法(ほうぼう・仏法をそ しること)』である」という教えに基づき、強引な手段を使ってでも改宗・入会させるこ とを目指していることは、当時の多くの人が知り始めていた。 人糞ばら撒き・壁への白ペンキでの落書き誹謗・・・。 こうした嫌がらせ行為(注・私は当時から犯罪だと思っていた)についても、彼らはきっ と「毒を食べようとしている者を見つけたら、見過ごすわけにはいかない。だから、どん なことをしてでも毒を奪い、地獄に落ちる人を救ってやるのだ。それが正法だ」と強弁す るだろう。 私は、子供心にも独善的な考えをする彼らの仕業だ、とすぐにわかった。 勿論、父も、おじちゃんもおばちゃんも、先日の3人の男の口から彼らの信仰する宗教団 体名を告げられていたので、彼らの仕業だと唇をかみしめていた。 (注・殆どの宗教が独善的・排他的。それを良しとしても、相手の考えも尊重する姿勢と、 万人への慈愛の精神があってこその宗教ではないだろうか。自分たちが正義で他は悪だ。 悪魔は皆殺しにしても構わない。我々の戦いは「聖戦」だ。このように一方的に唱えてい る宗教が多すぎるのではないだろうか。 そして常に国家権力にすり寄り、自分たちの庇護と権勢拡大を図る。国家権力は宗教を利 用し『大日本は神国なり』と国民をたきつけ、自国や他国の無辜の民を殺してしまう。 世界では戦争・紛争が絶えない。国内では宗教団体同士の醜い争いが絶えない。苦しみ、 悲しみ、犠牲になるのは国家中枢の者や宗教組織の幹部ではない。名もなき多くの一般信 者や、日々を必死に生きている多くの国民なのだ) こうした教会への嫌がらせに対して、それでも父や、おじちゃんおばちゃん夫婦たちは 「人がなにごと言おうとも、神が見ている気をしずめ」という、お勤めの御神楽歌の一節 の言葉通りに、日々を勇んで過ごしていたのだ。 だが、父は内心、色々な問題が重なっていて辛かっただろう。 みな、自分の心の内に納めて、絶対に不平不満を言わない人だったから。 一番の身内の子供同士の喧嘩は耐えられず、思わず年長の私を叱って叩いたのだろう。 私は涙が涸れた後、そのように父の心情を察し、夕暮れの道を肩を落として帰っていった。 帰宅すると、妹が作った夕食(ジャガイモとさつま揚げを甘辛くした煮物、白菜の漬物、 ご飯と味噌汁)を、電球の薄暗い灯りの下で、一つの卓袱台を父と子供4人で囲んで食べ た。 その頃はみな畳の上に正座して食事をしていた。 妹も弟たちも、普段通りにお喋りをして食べていた。 私が何も言わず黙って食べていると、父が箸を止め「トモヒト、新聞配達はやめて、自分 の勉強に集中しないか。そして家のことも手伝うように。間もなくお母さんも退院してく る」と、静かに言った。 私は「うん・・」と、少し救われた気持で、小さくうなずいた。 そして、私の印象の薄かった中学2年の想い出の後半が、梅雨が明けきらぬ7月に入ってか ら始まるのです。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |