東井朝仁 随想録
「良い週末を」

いつの時も歌があった(2) 

今月の12日(日)。
私は昼前に、神田神保町の古書店街を散策していた。
特に探したい書籍があったわけではない。
わざわざ神保町に行ったのは、自宅の最寄り駅である三軒茶屋から、田園都市線(渋谷か
ら半蔵門線に)1本で気軽に行ける学生街風の場所で、まさに散歩するのに適当だからだ。
この日の目的は、古本屋巡りと昼食でカレーライスを食べること。神保町で名を馳せるの
は、古本屋や喫茶店ばかりではなく、今やカレー店の激戦区としても有名。

新刊や話題本は、前回で触れた三茶・キャロットタワー内にあるTSUTAYAの書店に行けば
足りる(注・レンタルショップは閉店)。
しかし、昨今、芥川賞とか直木賞受賞作といっても、満足な読後感に満たされることは、
全くなくなった。
また「本屋大賞」など色々な賞も出てきたが、これは売れ筋で決まるのだろうから、書籍
業界はこの賞の受賞作をあおることで、本の売上増を図る算段だろうが、相対的に伝統の
芥川賞・直木賞受賞作の影が薄くなっている感がある。

例えば2000年以降、芥川賞又は直木賞受賞作品で「まあまあ、良かったかな」と、私
が思い出せる本を上げてみると。
芥川賞では、お笑いの又吉直樹の2015年の「火花」が、話題作としてまあまあ。あと
はわからない。
直木賞では、重松清の「ビタミンF」(2000年)、角田光代の「対岸の彼女」
(2004年)、池井戸潤の「下町ロケット」(2011年)そして門井慶喜の「銀河鉄
道の父」ぐらい。
それも「もう一度読み直したい」と思えるほどではない。
直木賞の作品は、ストーリー重視なので1回読めば十分なので仕方がないが、それでもか
っては同じ直木賞作家の司馬遼太郎氏の著書「竜馬がゆく」を、私は文庫本で全8巻を3
回は再読してきた。この作家の著書は、年代を超越して幾つの年の時でも、心が奮い立っ
てきて感動した記憶がある。
また、1949年に「闘牛」で芥川賞を受賞した井上靖。氏の本の現代小説の全作品を読
んだが、「氷壁」を筆頭に、どの作品も清廉な気分に浸れるので、良く再読してきたもの
だが。
近年、こうした作品に出会ったことがない。

今回(第168回)の芥川賞受賞作「この世の喜びよ」(作・井戸川射子)が出版された
ので、先月、買ってきて読んでみた。
だが、半分読んでも全く興趣が湧いてこないので、疲れてやめてしまった。しっかりした
装丁の1500円(税別)の新刊本だったが、残念。
他の人達が読めば、新たな文章に魅入って深い感動を得られる著書なのだろうが、私には
何も感じられないのだが・・。こればかりは人々の感応の差で、仕方がない。

やはり人の脳幹は、その人が色濃く生きた「青春期から壮年期」の時代が生んだ作家・作
品にしか、強い共鳴音を発しないのかも知れない。私自身はそう思っている。
そこで、かっての「我らの時代」に共生した作家の本を優先的に探し、その中から相性の
良い1冊に巡り合う縁を求めて、古本屋を自由に探索しているのだ。

私はこの日、駿河台下の交差点から、靖国通り沿いに専大前の交差点辺りまで続く古書店
街の歩道をのんびりと歩きながら、店先のワゴンや棚にある本の背表紙を眺め、気の利い
た店があれば中に入ってあれこれと書棚の本を引出し、物色を楽しんでいた。
だが、興味が湧く本には当たらず、あと1軒のぞいてから昼食にしようと、最後の古本屋
に入った。
専門書や色々な全集が詰まった棚が幾つも並び、その狭い通路の左右を丹念に眺めながら
店の奥まで入ったが「無いな・・」とあきらめて、踵を返した。その時、ちらりと奥の隅
の棚の二段分に、この専門書店では珍しい文庫本が身を小さくして並んでいた。その棚を
一応眺めると、何となく他の本から浮き出たような異彩を放つ、1冊の本が目についた。
それは宇野千代氏の「雨の音」という、6つの短編小説が収められた文庫本で、1996
年に講談社から発刊された古本だった(あとで、その本が発行されたのは宇野氏が98歳
で逝去された年であることがわかった)

氏の著書は、先月に購入した「98歳まで生きて分かった、超ポジティヴ思考がいちばん!」
(幻冬舎)という本を読んだだけだったが、これが結構面白かったので、今度は小説を読
んでみたいと思っていたところだったので、「これは奇遇!」とばかりに買い求めた。
購買した理由は、それだけではない。
私の敬愛する老師だった「石亭グループ会長」の羽根田武夫氏(享年93歳)は、父親が経
営する「本郷菊富士ホテル」で生まれ育った(注・大正~昭和の文壇史に良く登場する高
等下宿屋。ホテルは本郷三丁目の交差点を東大赤門前方向に向かってすぐの左側から続く
菊坂を下ったあたりにあったが、戦災で焼失し、今は記念碑が建てられている)
そのホテルには坂口安吾、谷崎潤一郎、宮本百合子、真山青果、石川淳、大杉栄、直木三
十五、宇野浩二、竹久夢二・お葉、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代等、早々たる人々が逗
留していた。
羽根田少年は、殊更、広津和郎に可愛がられていたそうだ。
大正11年頃、懸賞小説で一位の宇野氏と二位の尾崎氏は相愛の仲になり、当時、人妻だ
った宇野氏は菊富士ホテルに投宿するようになり、二人の愛は深まっていったとのこと。
その縁で、後年、中央公論の専属カメラマンだった羽根田氏は宇野氏のポートレートを撮
影している(注・「表紙の写真集」2022年12月7日付を参照)
余談になるが、私が生まれて初めて読んだ本格的な小説が、尾崎士郎氏の代表作「人生劇
場・青春篇」。私が18歳の時、早稲田の古本屋で20円で買った角川の文庫本だった。
そうした興味からも、宇野氏の本に手がいったのである。

「雨の音」の裏表紙に刷り込まれた27年前の定価は、940円。
古本屋での売値は800円だった。
ちなみに、昨年初めにTSUTAYAで新装版で買った三島由紀夫の文庫本「午後の曳航」(新潮
社)は、「雨の音」と同じぐらいの頁数だが、520円だった。
私が最近古本屋で買った文庫本は、どれもが100円か200円(注・去年、他の古本屋
で買った、高橋和己氏の「邪宗門」の上・下巻がそれぞれ約600頁と巨編で分厚いが、
各200円)だったので、やはり800円の値付けは、日本の女流作家の大家・宇野千代
氏の貫録勝ちだろうか。

さて。
私はこの古本屋で代金を払うと、1枚のコインを渡され、二階に上がった。
二階も書棚で埋まっているが、広い窓際に高い脚のテーブルと椅子が3組あるだけの小さな
喫茶コーナーがあった。
そこで自販機から好きな飲み物を飲めるのだ。
誰もいない室内だが、ガラス窓から光が入り、外の春めいてきた風景が目に柔らかく映っ
た。
私はブラック珈琲のホットを紙カップで飲みながら、靖国通りを行きかう車や人をぼんや
りと眺めていた。
本来は、1本裏道にある「喫茶・さぼうる」にでも入る予定だったが、日曜日で閉店。明
大通り沿いの「古瀬戸珈琲店」まで足を運んでも同様の気がしたので、ここで少し休憩す
ることにした。

私の20代から30代半ばまでの頃は、いつも都内の色々な地域の喫茶店やスナックやパ
ブに通っていたが、この界隈ではJR(国鉄)お茶の水駅のすぐ南側裏手にあったクラッ
シック喫茶「ウイーン」も良かったが、駅前の交番角の通りを入ったあたりにあった「舟」
という開放的で明るい喫茶店が、一番好きだった(注・1970年代に流行ったフォーク
の中に、1972年に発売されてヒットした(1973年の日本有線大賞)GARO(ガ
ロ)の「学生街の喫茶店」という歌があるが、このモデルになったのが「舟」ではないか
と言われていたが、定かではない)

「舟」では、通りに面した大きな一枚ガラスの窓側の席に座り、珈琲を飲みながら、ある
いはバドワイザーのビールを飲みながら、季節ごとに微妙に景色を変化させていく街路樹
の並木道を眺めているのが、好きだった。
そして何より、この店にジューク・ボックスが置いてあったのが魅力だった。店の選曲で
流れるBGMではなく、自分の好みの曲があれば、それを聴けるのだ。
確か100円で2曲(200円で4曲?)かけられた。

時々当時の「舟」を思い出す時がある。若き頃の灼熱の夏の季節を回想したい時や、かっ
てのガールフレンドとのデートを懐かしみたい時などに・・・。
その時、決まって脳裏に流れてくるのは、ジューク・ボックスでかけた歌。いつもいつも
かけていた歌。
それはフォーク・グループ「アリス」の「さらば青春の時」と、ロック歌手・矢沢永吉の
「時間よ止まれ」なのだ。
今、こうしたことを書きながら調べてみると、「さらば・・」が発売されたのは1977
年3月で、「時間よ・・」が1978年3月だった。すると、私が一人で店に行って聴い
ていたのは、1977年の夏頃から1978年の夏頃に間違いない。
私が30歳の頃。

私は1974年10月1日に27歳になり、その10日後に結婚。
しかし子宝に恵まれず、「仕方がないよ」と配偶者に言いながら3年が経とうとしていた。
内心、諦めかけていた。妊娠したら退職する予定だった配偶者は、変わらずに外務省に勤
務し、毎晩10時頃に帰宅。私は風通しの悪い巨大官僚組織の中で、変化のない日々を送
っていた。
そして1977年10月1日に、30歳になった。
「もう30歳だ。そろそろ職場を辞めよう。来春までに決めよう」と、それからは決断の
時を探っている毎日だった。
そして、1978年の早春の日。
朝から微熱があった配偶者は、それでも出勤した。
私が8時頃に帰宅すると、彼女は珍しく私より早く帰宅していた。私が体調を訊くと、ポ
ツリと「妊娠だと言われたの・・」と答えた。昼間、気分が悪くなり外務省の医務室で診
て貰ったところ、「今から虎ノ門の産婦人科に行って診て貰いなさい」と言われ、診て貰
ったら、妊娠しているとのことだった。
私はてっきり風邪だと思っていたので、驚いた。
「そうか!それは良かった・・・」私は感慨の余り、その一言を言うのが精一杯で、涙を
こらえながら黙って着替えをしていた。
半畳ほどの小さな玄関の、小さな下駄箱の上に、一輪の沈丁花の花が活けてあり、甘い芳
香が漂っていた。
私が沈丁花の花が好きだったことを、知っていたのだ。

そして夏の終わりに長男が誕生し、配偶者は産休明けに退職した。
その時期、時々、私は職場の帰りに一人で「舟」に行き、バドワイザーを1本飲みながら、
前述の「さらば青春の時」と「時間よ止まれ」の2曲を聴いてから、すぐに帰路について
いたのだ。

「さらば青春の時」の歌詞の一部。
「♩振り向かないで歩いて行ける
  そんな力を与えてほしい・・
  遥かな夢を捨てきれないままに
  熱い血潮は胸を焦がして・・・」(谷村新司作詞・作曲)

そんなことを古本屋の2階で珈琲を飲みながら思い出していた。
「それにしても、谷村新司は天才だな。さだまさしや、井上陽水や吉田拓郎もいいが、チ
ンペイ(谷村)さんの詩が、俺には一番だな」と頷きながら、私は古本屋を出た。
だが、目的のカレーライスの昼食を摂ろうと思っていたが、なぜか食欲が無かった。カレ
ーは重たいと。
どうしようかと考えながら歩き始めたら、古本屋の3軒隣に かって2回ほど入ったことの
ある古い蕎麦屋があったので、そこに飛び込んだ。
奥行きが広い店内に、日曜日のせいか客は一人だった。
私は、券売機で「かけそば」(400円)と「ちくわ天」(150円) と「生ビール・中」
(250円)を注文し、店の奥の壁際の4人用テーブルに一人で座った。
ここは、食券を厨房カウンターに置き、お盆の出し入れやお茶も全てセルフ。

がらんとした店内で、一人で飲むビールは美味かった。
すると、一人のマスクをした年配の客が入ってきて、私の横の4人用テーブルに座った。
4人用テーブルは4つあり、あとは壁側のカウンター席のみ。日曜日でサラリーマンの姿
は無く、店はガラガラ。
だからどこに座ろうが、気を使う必要はない。
隣のテーブルの男も、私と同様に入り口に向かって座っている。
チラリと見ると、ベージュのジャンパーに紺のトレーパン、そして白のウオーキング・シ
ューズ。
「近所の店の老人だろう。古本屋か金物の職人さんかな」と想像した。
またチラリと覗くと、モリソバをすすっていた。
マスクを外した横顔に「あれっ?どこかで見た顔だな?谷村新司に似ているな」と思った
が、「まさか、こんなところでこんな時に、1杯400円のモリソバを食らっているかな?」
と考え直した。
いっそ「失礼ですが、谷村さんですか?」と声をかけようと思ったが、やめておいた。プ
ライベートでのんびりとソバをすすっている時に、それこそ失礼で野暮なことだから。
すると、中年の男と小学生ぐらいの男の子が入ってきて、一つ向こうのテーブルに父子が
向かい合って座った。その時、父親が私の隣テーブルの男と目が合い「ああ、どうも!」
と笑顔で会釈した。男も「ああっ」という風に会釈した。町内会の仲間同士かなと思い、
改めてまた隣の男を見ると、席を立ち、セルフでソバ湯を汲んで飲んでいた。
そしてセルフで盆を片付け、また先ほどの父親に軽く会釈して出て行った。
私も食べ終え、後片付けをして出口に向かう際に、さりげなく父親に「さっきの人は、谷
村新司さん?」と聞いたら「そうですよ。気さくな人で、このあたりの喫茶店で良く会い
ますよ」とのことだった。
私は頷いて、軽く会釈して店を出た。

谷村氏の薄くなった白髪と、丸くなった背中の印象が、いつまでも私の目に残った。
彼は今、私より一つ下の74歳のはず。
「♩安らぎの時が青春ならば、今こそ笑って別れを言おう・・」
この「さらば青春の時」を作詞・作曲して歌ったのは、彼が28歳の頃だろう。
やはり30代を前にして、考えるところがあったのだろうか。

私は古書店街を帰りながら、口笛でアリスの「ジョニーの子守歌」(作詞・谷村新司)を
口ずさんでいた。
この歌も、私が好きな歌の一つ。
「♩風の噂で聞いたけど 君はまだ燃えていると
  オーオージョニー それだけで
  オージョニー ただ嬉しくて・・・」

確かに後ろ姿や顔立ちは老いてきたけれど、君の心は老いていない。
まだ燃えているはず・・・。
きっとそうなのだろう。
神保町は「古きを訪ね、新しきを知る街」かも知れない。
そんなふうに思った日曜日だった。

それでは良い週末を。