いつの時も歌があった(3) |
私が生まれて初めて「大人の歌」というものを知ったのは、幼児の頃。 その歌の名は、美空ひばりが歌った「あの丘越えて」だった。 いま調べると、美空ひばりが出演した同名映画が1951年(昭和26年)11月1日に 公開されていた。歌はその後にヒットして、NHKラジオなどからお茶の間に流れるよう になったのだろう。 当時の私は、映画が公開されたちょうど1か月前の10月1日に、4歳になっていた。 だからこの歌を耳にしたのは、1951年(昭和26年)11月から1952年(昭和 27年)の春先ぐらいまでの時期だったと思う。 記憶にあるその日は、寒い季節だったが風のないポカポカ陽気だった。 私は3歳上の兄と一緒に、お茶の間の広いガラス窓を開け放ち、その低い窓枠に両肘をつ けながら、庭木の向こうの何も植わっていない野菜畑や、その先にぽつぽつと建ち始めた 木造住宅などの遠景を、ぼんやりと眺めていた。 その時に、お茶の間のラジオから流れてきた歌が、「あの丘越えて」だった。 兄はこの歌を知っていて、歌が始まると「♩山の牧場の夕暮れに 雁が飛んでるただ一羽・・」 などと軽く合唱していた。私は何にもわからず、美空ひばりの歌声をウズウズしながら聴 いていたが、歌の1番の終わりに「イヤッホー、イヤッホー」という叫び声が入ることを 知り、2番になっても最後に「イヤッ・・」という声が流れたので、私も慌てて「イヤッ ホー、イヤッホー」と声を出すのだが、全く合わずに置いてけぼりを食らった。 それで3番になって「今度こそ・・」と待ち構えていたのだが、「イヤッホー」と叫んだ 時には、もう歌は過ぎ去っていて、又しても駄目だった。 これが大人の歌というものを、初めて知り初めて歌った(?)経験だった。 当時、戦後6年目に入っていた社会は、何とか戦災の復旧期から復興期へと歩みを進めて いた。そして目黒や世田谷などの「山の手」と言われる地域にも、新たな家々が建ち並び 始めていた。 だが、まだまだ原っぱや空き地も多く、道路は泥道や砂利道ばかりで、家々を囲む溝(ド ブ)は住宅排水で澱んでいた。 街灯も所々にポツンと灯っているだけで、住宅地の夜道は真っ暗だった。 そして目黒駅前を通ると、白衣を着た片足の傷痍軍人や、色々な寄付を募る人達の姿があ った。 子供の目にも、どこの家もどこの子供達も生活は大変なように見えた。 我が家でも、母親が隣の家にお米や味噌を借りに行ったりする姿を、よく見かけた。 それでも今だからしみじみと思えるのだが、昼の空はどこまでも青く広がり、夜空には息 を吞むほど美しく星屑が煌めき、空気はいつもすがすがしくて心地良かった。 大人たちはみな、あの「悲惨な戦争」を超えて、美空ひばりの「あの丘越えて」の歌声に 癒され励まされながら、必死に生活していたのだろう。 歌詞は必ずしも明るい内容ではなく、どちらかといえば孤独で清貧な歌だった。 だからこそ、聴く人に「私もこれしきの事に負けないで辛抱しなくては。独りぼっちでも ひばりちゃんのように、明るく頑張らなくては」という勇気を与えていたのかも知れない。 (注・この年(1951年)、日本はアメリカとサンフランシスコ平和条約を締結し、戦 争の終結と主権の回復(1952年4月)を実現。同時に日米安全保障条約を締結し、日 米軍同盟を結び、今日に至っている。 この前年(1950年)、朝鮮戦争が始まり、日本は特需景気に湧いた。皮肉にも、戦争 が経済復興の礎にもなっていった) あの時の美空ひばりの歌声が、72年後の今も心に蘇ってくることがある。 でも、「歌は世につれ、世は歌につれ」という諺(ことわざ)があるが、私は「歌は世に つれ」という言葉は頷けるが、「世は歌につれ」は全く的外れと思っています。 社会の状況が人々の心に影響を与え、その人々の心情を反映して歌というものが出来るの であって、歌につれて世の中の状況が変わるのであれば、こんな素晴らしい天賦の文化・ 芸術は無いといえるでしょう。 一度、国の政府広報の一環として、全マスコミを活用し、今の日本社会に毎日「いつでも 夢を」(橋幸夫・吉永小百合の歌)の歌声を流し、世の中の雰囲気をガラリと変えて貰い たいものと、心底思っているこの頃。 ビタミンMは、人の心を明るく元気にさせる、貴重で手軽な配剤。 だから私は、今日もビタミンMを何錠か服用して、気分良く生きているのです。 それでは良い週末を。 |