東井朝仁 随想録
「良い週末を」

いつの時も歌があった(4) 

「人は環境の動物」と言われいる。
人は、家庭環境、そして社会環境、地域環境、学校・教育環境、職場環境に影響を受けな
がら生活し、成長(あるいは衰退)していく動物。
その過程で、その人の個性が出来上がっていくとも言える。
あるいは個性とまでいかずとも、例えば「好き・嫌い」の直感的な感情も、諸々の生活環
境を受けて醸成されていたことを、時々気づかされることがある。

私の場合、「音楽が好き」な感情は、持って生まれた遺伝的なものではなく、小学校1年
生の時のクラス環境が起因となっていた、と今でも痛感している。
1954年(昭和29年)の春、私が小学校に入学した1年1組のクラス。
6歳にして社会に初めて出て、これから初めて経験する未知の数々。見知らぬ先生たちや
クラスの人々との集団行動。
私は子供心に、緊張と不安に委縮していたが、そうした心配は全く杞憂だったことにすぐ
に気づかされた。まさに天の恩寵としか言いようのない、良き巡りあわせが待っていたの
だ。極めて居心地の良い、緊張感のない明るいクラスの雰囲気。
そうしたクラスの雰囲気を醸し出してくれたのは、私からしたら「人生で最高の先生だっ
た」担任の山本先生の努力の賜物、人柄の良さ、指導者としての信頼性の深さに他ならな
い。
眼鏡をかけた、いつもニコニコしてどの生徒にも分け隔てなく、親身になって指導してく
れた女性の先生だった。

もう少し時間を遡ると、冒頭に述べた「私が音楽を好きになった要因」は、小学校入学直
前の2か月ほどの家庭内環境にもあった。
その主役は山本先生同様、家計内教師の母親(お母ちゃん)だった。
私はその頃、母から家の台所で入学前の勉強として「ひらがなの読み書き」と「数字の足
し算・引き算」そして「歌」を頻繁に教えられた。
これが今にして思うと、貴重な原体験になっていた。
今の子供たちは、こうしたことは保育園や幼稚園で習っているだろうが、当時は幼稚園に
行かず(行けず)に、小学校に入学する子供が、5人に一人ぐらいはいた。
入学してから、私もその一人だったことを痛感せられたのが、音楽だった。

入学前のわずかに残された期間、尻に火が付いたように、私は事あるごとに母から「あい
うえおの50音ぐらい読み書きが出来ないと、駄目よ」「簡単な足し算・引き算ぐらい出
来ないと駄目よ」「他の子は幼稚園で習ってくるからいいけど、歌の勉強も少ししておく
ほうがいいかな」と言われていた。
そこで、台所の隅の食器受けの平台の前に座らせられ(当時は子供部屋などはなく、私は
兄と3畳一間の部屋で一つの布団で一緒に寝起きしており、机も椅子も棚も無かった)新
聞広告の紙の裏に、何度も五十音の書き取りや、100までの数字の暗記、母が作成した
簡単な足し算・引き算の練習をさせられた。
当時の私は、これこそ環境影響云々という前に、持って生まれた性格だろうが、周囲に敏
感で未知なことに強く不安を感じる子供だったと思う。
母からは「トモヒトは内弁慶だね」とか、父からは「トモヒトは織田信長みたく、こうと
決めたら絶対にきかない、強情で短気なところがある。もっと心を低く柔らかくしないと
駄目だ」と叱られていた。
だから、「小学校に行ったら、何をするんだろう。みんな幼稚園で習ってきているけど、
僕は何も習っていないから、出来なかったらどうしよう・・」などと、内弁慶よろしく実
体のない不安を募らせていた。
だから、不安を少しでも取り除くために、家事の手が空いた時の母の指導に、素直に従っ
ていたのだ。

ひらがなの読み書きはすぐにマスターしたが、母から「五十音の「あ」から「ん」までを、
そらんじるようにしなさい」と指示され、私はこれを必死になって覚えた。
すると母は、さらに「あ行、か行・・」と縦に順に覚えるだけではなく、「あ、か、さ、
た、な、は、ま、や、ら、わ」と、横列の五十音も暗記して言えるようにしなさい、と言
った。
私は「そうか。横列も覚えないと、あ行の次やか行の次が言えなくなってしまう」と納得
し、横列も覚えた。
すると、母が「アから縦に言ってごらん」「次は横に・・」と、その時ばかりは、水洗い
を終えた手をエプロンで拭きながら私の横に立ち、私の声にじっと聞き耳を立て、言い間
違いがあれば指摘してくれたりした。
この時の暗記のお陰で、「あかさたな、はまやらわ、いきしちに、ひみいりい・・」など
と、今でも五十音の横列も淀みなく、早口で言える。
算数の足し算・引き算も、自信がついた。100までの数字をどれだけ早く言えるかも、
何度も試された。

そして、音楽。
音楽が小学校の教科になっていることは知っていたが、これは体育や図画工作と同様に、
普段から家でやっていることの延長線上の、一種のレクレーションみたいな授業と思って
いた。勉強ではないと。音楽は「色々な歌を歌えるようになること」だろうと。
母は、兄の小学1年次の教科書から何曲かを選んで、私に歌わせた。
真面目に独唱することは、親の前でも、ましてや他人の前でも1回も経験がなかった。確
か歌ったのは「ひのまる」か「春の小川」か「チューリップ」だっただろう。
内心「それぐらい知っているよ・・」と思いながら、親の前でも少し照れ臭く、そらんじ
ていた歌を何の感興も無く歌った。だが母は「歌詞は教科書に書いてあるからいいけど、
メロデイとリズムを正しく歌わないと」とか、「情景を思い浮かべながら、丁寧に歌うこ
と」とか、挙句に「この歌は、ここに4/4と書いてあるでしょ。これは♩(四分音符)が
この小さな区切り(小節)に4つあるということだけど、それは学校で教えてくれるわ。
ただ、この曲は4分の4拍子ということを覚えておくようにね。
上が3つなら3/4拍子。2つなら2/4拍子。
ようするに歌のテンポなのよ。
4拍子は「ズン・チャ・チャ・チャ、ズン・チャ・チャ・チャ」というように、「1、2、
3、4」の繰り返し。
3拍子は「ズン・チャ・チャ、ズン・チャ・チャ」2拍子は「ズン・チャ、ズン・チャ」
手拍子をするとわかりやすいのよ。
「春の小川」を「は・あ・る・の、お・が・わ・わ、」で4拍子でしょ。
「チューリップ」は「さぁ・いた、さぁ・いた、チューリィ・プの・はな・が、」で2拍
子でしょ・・」
こうしたことを手拍子をしながら、熱心に教えてくれた。

そんなふうに音楽のイロハのイのことを母から教わったが、音楽は母のほうが楽しんでい
たように感じた。
といって、当時から母の歌声は一度も聴くことはなく、長じても無かった。
当時は、朝の9時からNHKラジオで軽快な音楽に乗って「堀内敬三の音楽の泉(だった
か?)の時間です」というアナウンサーの声で始まる音楽番組があった。これは嫌がおう
にも自然に毎朝、耳に聞こえてきた。
朝はいつもお茶の間のラジオが付けっぱなしで、様々な洋楽のメロディーが流れていた。
この時間帯の前には、ニュースや各地のお知らせの合間に、日本の流行歌も流れていた。
藤山一郎の「青い山脈」や岡本敦郎の「高原列車は行く」「白い花が咲く頃」、灰田勝彦
の「アルプスの牧場」、近江俊郎の「山小屋の灯」、伊藤久雄の「山のけむり」、小畑実
の「星影の小径」、江利チエミの「テネシーワルツ」、デイック・ミネの「夜霧のブルー
ス」等々。
その間に美空ひばりの「悲しき口笛」や、春日八郎の「お富さん」などもヒットしていた
が、私は前述の歌手たちの、何となく洋風で少し洒落た、哀調を帯びた歌が、耳には心地
よく聴こえていた。

すると、こんな時にでも、部屋の掃除をしている母が「ともひと、この歌は何拍子?」と
か、突然質問する。
30秒ぐらい聞いた後「4拍子・・」とか「3拍子」とか、適当に答えていた。
すると「その通りよ」と喜ぶ。
特に4拍子と2拍子が混在するのだが、適当に「ちょと早いから2拍子かな・・」とか答
えると「良くわかったわね」とまた喜ぶ。
内心「お母ちゃんは、本当にわかっているのかな?」と思ったが、嬉しがる顔を見ながら、
音楽に自信がついてきたことは確かだった。

しかし。甘かった!
そのことに気づいたのは、4月の春うららの日に行われた入学式でだった。
その話は次回にでも。

それでは良い週末を。