東井朝仁 随想録
「良い週末を」

いつの時も歌があった(5) 

目黒区立不動小学校の入学式は、4月初めの花曇りの、穏やかな天気の日に行われた。
前回、母の短期間の指導で「音楽に自信がついてきたと感じていた。
しかし、その考えは甘かったことに、入学式の日に気づいた」と述べたが、気づいたのは
入学式が終わり、組み分けがされた生徒がそれぞれの教室に入ってからだった。
私は1年1組。約50名ほどのクラスの担任は、山本先生という、眼鏡をかけた、優しい
品のある表情で、いつも笑顔を絶やさない女性の先生だった。
HP写真集・ 2023年3月14日{あの時(48)7歳(1954年)不動小学校1年1組(右から2
番目が担任の山本先生。私は前列左の旗持ち}
)を参照ください)
年令は母親(注・当時35歳)と一緒ぐらいに見えたが、もしかしたら30歳前だったか
もしれない。戦後9年目の昭和29年当時では、ある程度の経験を積んだ中堅教師だった
と思える。

山本先生は、クラスの名簿を見ながら一人一人の名前を丁寧に読み上げ、名前を呼ばれた
生徒は「ハイッ」とその場で挙手をする。先生はその度、その生徒の顔を優しい笑顔でし
っかりと見つめて、頷くのだった。
クラス全員の点呼が終わると「1組の人はみんな友達です。明日から、みんなで仲良くし
て、楽しいクラスにしましょうね」と、再度笑顔で語りかけてくれた。
そして、通学時の持ち物や学校内の日常の規則などを簡単に説明し、「何かわからないこ
とがありますか?」とたずねられたが、みな緊張した感じで黙っていた。
私もずっと緊張していたが、これで帰れるとホッとしていた。
だが。

先生が「それでは、今日はみんなで歌を歌ってから、帰りましょうね」と言い、古い木造
の教室内の隅にある、立派な黒いピアノの前に座って伴奏を始めた。
(注・当時から高校卒業までの間、音楽教室以外にピアノが置いてある教室は、私は見た
ことがない。後日、山本先生が音楽好きなことは知ったが、ピアノとの関係は知らずじま
いだった。オルガンが置いてある教室もあったが、なぜ当時、1年1組だけピアノが置い
てあったのか。)
そして先生の「ハイッ!」という掛け声で、何人かが小さな声で歌い始めたが、まだ少数
で合唱にはならなかった。
先生はピアノを弾きながら「この歌は、幼稚園で習っていたでしょ。さあ、思い出して大
きな声で歌いましょうね」と誘うと、教室内に徐々に歌声が響き渡ってきた。私は驚いた。
全然知らない歌だった。それを多くの生徒が歌っていることに、私はとても驚いた。そし
て動揺しながら、みんなと同じようにしなくてはと、口を開けたまま歌っている真似をし
ていた。歌が終わった。これで終わると思ったが、先生は2曲目の伴奏を始め、また教室
内に新たな歌声が溢れた。今度も私が全く知らない歌で、私は口をつむり、机に視線を落
として身を固くしていた。
この時の、いたたまれない「疎外感」は、生まれて初めて知るショックだった。
歌はこれで終わった。母から教わった「春の小川」も「チューリップ」も「春がきた」の
歌も全く関係がなく、学校で初めて聞く歌は私にだけ無関係で、私だけクラスの人達と別
の世界にいるような気持に陥っていた。
「幼稚園に行ってなかったから、僕だけわからなかったんだ・・・」
そんなふうに考えながら、悄然として一人で帰路を辿った。

翌日。人生で初めて受ける「授業」の日。
私は「お腹が痛い」といって学校を休んでしまった。
仮病だった。自分でも説明がつかない、どうしても行きたくない気持で、あとは何も考え
ていなかった。身体を動かすのが嫌だった。
母は「学校に行けないほど痛いの?」と私のお腹をさすりながら心配したが、無言でうな
ずく私に「仕方がないね・・。今日はよく休んで明日行くのよ」とぽつりと言って、私の
枕元から離れた。
次の日。
また私は休んでしまった。
今度は「頭が痛い」と言って。
母は「広田さん(注・2軒隣の内科クリニック)で診てきてもらったら?
入学式が終わったばかりだというのに、初めから2日も休んだらどうするの・・」と、布
団から起きない私の額に手を当てて困った顔を私に向けていた。私はそれでも頑固に「頭
が痛いから嫌だ」と言って布団に潜り込んだ。
母は、「困ったわね・・」とため息をつきながら離れて行った。
その後、さすがにじっとして寝ているのも辛くなり、誰もいない茶の間に行ったり、庭に
出たりして時間をやり過ごした。
3日目の朝。
布団の中で、またも仮病で休むか、それとも登校するか迷っている時、母が来て掛け布団
をはがし「いい加減にしなさい。今日は学校に行くのよ。お母ちゃんが校門までついてい
ってあげるから、起きなさい」と有無を言わせずに、私を布団から叩き起こした。
結局、私は入学式後の3日目にして、初登校したのだった。

今から考えると他人事のような、自分でも良くわからない単純な出来事と思えるが、当時
7歳だった私は「負けず嫌いで、それでいて神経質な性格」だったから、小学校での授業
が不安になり「嫌な思いはしたくない」と先案じをして、学校に行く気にはなれなかった
のだ。
私以外にも幼稚園に行かなかった生徒が10名弱はいたのだろうが、きっと私のように過
剰反応を示す子はいなかったと思う。
「ずっと学校に行かなかったら、勉強もできないし、友達もできないし、大きくなっても
何も出来ない人になってしまうよ」と私が親の立場だったら言うかもしれないが(注・私
の父母は、そうしたことは一切言わなかったが)、私はそういう諭しなど、たとえあった
としても「今日は学校に行きたくない」という感情が一途で、他のことなどアレコレと考
えている隙間もなかったと思う。

しかし、そうした一時の感情も、2日間でだいぶ冷めたのだろう。
送ってくれた母と校門で別れると、何も考えずに教室に入って着席していた。
先生が出席名簿を見ながら、生徒の名前を読んでゆく。
「ハイッ」「ハイッ」と元気な声が教室に響き続ける。そして私の名前が呼ばれた。私は
遠慮がちに「ハイ」と返事すると、先生は何も言わずに笑顔で頷いてくれた。
その時、3日間の心のモヤモヤが、少し晴れた気分になった。

授業は国語からだった。
休んでいた2日間の授業でおこなわれていたのは、平仮名の五十音の読み方と、暗誦のよ
うだった。
この日はまず、みんなで五十音の読みを何度も繰り返した。
次は、順に当てられた生徒が立って、ア行から出来るところまで、教科書を見ずに復唱し
た。
言い淀んだり、途中で忘れたりする生徒もいたが、それが恥ずかしいことでも何でもない
ような教室の雰囲気だった。
私も当てられた。その際、先生に「東井君は、きのう休んでいたので、まだ覚えていない
かもしれないわね。わかるところだけやってみましょうか。やれる?」と言われたので、
「ハイッ」と言って立ち上がった。
そして、母から鍛えられて諳(そらん)じていた、ア行から「ン」の最後までを一気に発
声して、着席した。
胸の動悸が高鳴っていたが、夢中だった。
先生が「良くできたわね!」と驚いた表情でほめてくれた。
この言葉は、子供心に本当に嬉しかった。
今までの何とも言えない鬱屈した重い気持が、一気に吹き飛んだ感じだった。

次の時間は算数だった。
やはり数字の読み書きからで、これも入学前に母から教えられていたことのイロハのイだ
ったので、私は安心した。
足し算引き算などは先の話で、「こんなことをするの?」と、なんだか逆に気抜けさえし
た。
でも、ホッとした。
この日はこれで授業が終わって、昼前に下校した。
家に帰ると、心配していた母から、いち早く「どうだった?」と尋ねられた。私は機嫌よ
く「面白かった!」と答えると、母も山本先生のようにニッコリ笑ってくれた。
それからの日々は、不動小学校を卒業した1960年(昭和35年)3月末までの6年間、
良き先生と級友たちに恵まれた「人生最高の学校生活」を送ることが出来た。
長じてから「案(あん)ずるより、産むが易(やす)し」という格言が身に沁み、私の人
生指針の中の一つとなった。

社会や理科の授業も面白かった。
当然、見ること・読むこと・聞くこと・書くことなど、知ることや習うことはすべて初め
てのことばかりで、7歳の子供には興味津々だった。
体育は走ったり、投げたり、跳んだりの体操や競技。これらの何もかもが得意だったので
気分がよく、放課後の遊びのように先頭になって汗を流していた(特に徒競走はクラスで
1、2番の速さで、1学年から卒業するまで、毎年の運動会の全校紅白リレーの選手だっ
た)
図画工作では、生まれて初めてクレヨンやクレパスを購入して絵を描いていたが、写生以
外は「自由課題」で、私はこれが一番好きな図画工作だった。
画用紙に想像と描写を織り交ぜ、常に青空のある山や川や海や街並みの風景絵を描いて楽
しんでいた(後日、私が描いたリンゴの静物画が、目黒区の小学校美術展に出展され、金
賞となったことがあった。この絵の仕上げ段階で、山本先生が指導してくれた。家庭訪問
の時、母は先生から「才能があるから、将来は絵の勉強をされると良いですよ」と言われ
た、とのことだった。余談だが、晩年の父に「若い頃、何になりたかったの?」と聞いた
ら、父は沈黙の後、ポツリと「画家」と答えたが・・)

そして音楽。
初めての授業では、「ちゅーりっぷ」か「ちょうちょう」だったような気がする。勿論、
山本先生の弾くピアノで、4小節ほどをみんなで合唱し、次に進んでいた。ともかく初め
の頃は、今から思えば童謡のような歌が多かったと思う。それでも歌は年齢・学年をさほ
ど問わない。
現在の「小学校音楽教科書掲載曲」を見ると、小学6年生本には「ふるさと」があるが、
小学2年生、いや1年生でも歌えないことは無いだろう。
同様に1年生本には「こいのぼり」があるが、これも6年生が歌っても違和感がない。そ
もそも現在の音楽の教科書には、1学年から6学年まで全学年で掲載されている、あるい
は選択されている歌があるのだから。それは国歌の「きみがよ」(注・3年生本からは、
君が代)
この歌は、相当に難しいと私は感じるが。

山本先生は、音楽に精通されていた。
まず、1年1組の教室内の天井に近い廊下側の壁には、クラシック音楽の著名な作曲家の
大きな肖像画(ポスター紙)が、何枚も貼られていた。
先生は給食の時間に、生徒と一緒に給食をとりながら、それぞれの名前や代表曲をわかり
やすく説明してくれた。
だんだんとわかって馴染んできたのは、例えば「トルコ行進曲」のモーツアルトや、「別
れの曲」のショパンや、「菩提樹」のシューベルトや、「エリーゼのために」のベートー
ベンや、「G線上のアリア」のバッハといった作曲家の写真と曲だった。
これらの写真が貼られた68年前の教室の風景が、今でもほのかな安らぎを持って、懐か
しく脳裏に浮かんでくる。

先生は、時には蓄音機を持ってきて、クラスのみんなと給食をとりながら、ベートーベン
の「月光」などのレコードを掛けて聴かせてくれた。
私は、山本先生が翌年転校していってから、クラシック音楽を聴くことはほとんどなくな
ってしまった。それでも、好きな作曲家というより好きな曲、例えば「トロイメライ(子
供の情景)」(作曲・シューマン)とか、「家路」(作曲・ドヴォルザーク)とか「ピア
ノ協奏曲第一番」(作曲・チャイコフスキー)といった、小学校を卒業するまでに音楽の
時間に聴いたポピュラーなクラッシックは、好んで聴いていた。
こうした音楽に対する嗜好の原初は、担任の山本先生の日常のピアノ演奏と、わかりやす
い音楽指導、音楽に親しめる教室環境にあったと思う。
そもそも音楽のスタートがクラッシックからという生徒は、あまりいないのではなかろう
か。親の教育でバイオリンとかピアノを幼少時から始めていた人もいるが、殆どの人はそ
うではないだろう。
1年生の時に、教室でベートーベンなどのクラッシック音楽を聴いていたクラスが、ある
いは自分たちのクラスの教室内で、本格的なピアノの伴奏で唱歌を歌っていたクラスが、
当時からどれほどあっただろうか? そんな想像を今しているのだが、キリがない。

入学して2か月ほどが経った6月初旬のある日。
初めての保護者の授業参観があった。
私は気恥ずかしいので、事前に「お母ちゃん、忙しいだろうから別に来なくてもいいよ」
と母に伝えたら、「わかったわ」と答えていた。
当日。
教室の前のほうに座る私が、さりげなく後ろを振り返ると、入りきれないほどの多くの女
性が立っていた。すると一番窓際のあたりに父の姿が見えた。
男性は父一人だった。
私は急に胸がドキドキしてきた。
「お父ちゃんが来たのか・・・」
授業は担任の山本先生らしく「音楽」だった。
先生は挨拶をされたあと、ピアノの前に座り、授業が始まった。
まず、先生が歌のイントロ(歌の導入部)を伴奏し、「これは何の歌ですか?」と生徒に
問いかけ、わかった者は手を上げて答えるのだ。
歌の早あてクイズ。
教室内は50余名の生徒以外に、父母や親族などの保護者が参観しているので、膨れ上が
っていた。
だが、室内は緊張感が漂って静まり返っている。その中を山本先生の巧みな伴奏で1曲目
の綺麗なメロデイが流れ始める。それもほんの序奏部分が。
「さあ、何の曲ですか?今までに習ったことがありますよ」と質問するのだが、誰も答え
ないでじっとしている。
先生はすぐに、「それではこの歌は?」と2曲目の伴奏を始めるが、この時も誰も声を出
さず、教室内はさらに緊張を増して静まり返っている。
「今日はお父さんやお母さんが来られているから、恥ずかしいのかな?」
と笑顔で教室内を見回した。
私は1曲目も2曲目もわかっていた。だが、手を上げられなかった。
先生は少し困ったような表情をして「それでは、この歌はどうでしょうか?」と言って、
ピアノを弾き始めた。
その時、私はピンと閃いてすぐに「ハイッ!」と手を上げた。
山本先生は「はい、東井君!」と元気良く私を名指しした。
私は「うさぎとかめ」と答えた。
「そうですね。ウサギとカメ。それでは前に出て1番を歌ってみましょうね」と言って、
前に出るように促され、私はピアノの脇に立った。
後ろを埋め尽くした参観者の顔が一斉に私に注がれていたが、私は無我夢中で「 ♩もしも
しカメよカメさんよ、世界のうちでおまえほど・・」と大きな声で歌った。
歌い終えると、先生が「良くできましたよ。すばらしい!」と言って、ホッとした笑顔で
拍手をしてくれた。すると教室内の全てからも拍手が沸き起こり、私は真っ白な頭で席に
戻った。その瞬間、チラッと一番隅の窓際に立つ父の笑顔が目に入った。
私は着席した後、全力を出し切った爽快感と安堵感に包まれ、無心のままみんなと合唱を
していた。そして、授業はアッという間に終わった。

帰宅すると、父が「ともひと、今日は良かったよ」と嬉しそうな顔でねぎらってくれた。
私は照れくさくなり、台所に行った。洗い物をしていた母も手を休め「お父ちゃんから聞
いたわ。良かったね」と私の肩に手を置いてほめてくれた。
私は「遊んでくる!」と言い残して、家を出た。
夏草の生え始めた原っぱを歩きながら「お父ちゃんもお母ちゃんも喜んでくれた。こんな
こと初めてだな・・。でも、お母ちゃんに来なくていいよなんて言ったのは、悪かったか
な。お母ちゃんに僕が歌っているところを見てもらったほうが良かったかな・・」
そんなことを考えながら、夏草を踏みしめて歩いていた。

いま振り返ると、小学校から中学校の9年間で、私の授業参観に親が来たのは、あの1年
生の時の父の参観だけだった。
母は一度もこれなかった。
でも、学校で歌を歌っている時は、いつも母がどこかで見ている気がした。
「そうよ。♩もしもし、かめよ、かめさんよ、は4分の2拍子よ・・・」

いつの時も歌があった。
嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も、楽しい時も・・。

今年も春がやって来た。
別れの季節がやって来た。
あの山本先生は、翌年、他の小学校に異動されていった。
いま、「良き恩師に恵まれた人生は幸せ」と、つくづく思う。
小学校の音楽教科書の6年生本を見ると、幾つかのテーマ(目的)ごとに歌が掲載されて
いるが、「音楽で思いを伝えよう」というテーマの曲目に「あおげばとうとし」が入って
いた。
この曲は昔から好きで、今の季節になるとカラオケで一度は歌っていた。
今年も歌う。
山本先生、中島先生(小4~6年のクラス担当の女先生)に。 そして人生の師だった亡き
父と母に。思いを込めて。
「♩仰げば尊し、我が師の恩・・・」

あと何回、この季節にこの歌を歌えることだろうか。
それでは良い週末を、良い年度末を。
(表題のエッセイは、とりあえず今回で終了します。後編はいつかまた)