東井朝仁 随想録
「良い週末を」

宰相の妻(2)

私が、ほんのちょっと会話した「想い出の首相夫人」は、橋本竜太郎氏の妻・久美子さん
と、海部俊樹氏の妻・幸世さん。
今回は、そのあたりの話を。

1979年(昭和54年)4月1日付で、私は厚生省生活衛生局指導課の組合振興係長に
異動した。31歳だった。
この人事異動の決定も面白かった。
面白いというのは、後年、私の人事異動は殆どが、新しい部署、新しい職務のポストへの
異動だったからだ。

その前に。
私は、奈良県にある私立天理高校を卒業後、昼の大学には行かず、とりあえず早稲田大学
の第二文学部に入学し、昼の務め(バイト)として厚生省統計調査部に入省した。そして
昼夜兼行で、仕事(診療報酬請求明細書の診療行為別点数分類等)と学業(社会学専攻)、
そして職場のバレーボール部や文化サークルや労働組合の活動と、大学でのクラス委員活
動や様々な仲間との談論風発そしてガールフレンドとの疑似恋愛にうつつを抜かしていた。
そして4年生の時に、もう少し厚生省に留まってから将来の進路を確定しようと、これま
た便宜的に中級職任用資格を取ったのだが、上司に「中級職に受かったのだから、来年の
春の異動で霞が関の本省に行ったらどうか?」と打診された。
だが、その頃はバレーボール部の主将(首相ではない)として、これまた練習と対外試合
にうつつを抜かしていたので、やんわり断った。
日本一の(と、今でも私は思う)素晴らしい労働環境で働いていたからだ。

9時から5時の勤務時間。5時半以降の残業には、必ず満額の残業手当がついた。年次有
給休暇20日間。それに、病気休暇も容易に取得できた。これ以外に当時は特例的な夏期
休暇もあった。また、福利厚生は万全で、庁舎の前にはバレー・バスケットコートと、テ
ニスコートが設置されていた。400名ほどの職員には若い者が多く、スポーツや文化サ
ークルが幾つもあり、明るく活気がある職場だった。統計調査部の労働組合の組織率は、
確か70%以上あったと思う。
私は、この職場環境をフルに活用して青春を謳歌し、それで当時の人並みの給料を貰って
いた。だから日曜日の夕方になると、月曜日に登庁するのが楽しみだった。午前の休憩時
間は文化サークルの打ち合わせ、昼休みはグランドでバレーの練習、午後の休憩時間は組
合事務所で青年部主催のレク行事の打ち合わせ。何より多くの若い連中と会うのが楽しみ
だった。
何人かの可愛い年下の女の子に声をかけて、退庁後、早稲田や四谷の喫茶店でデートの約
束を交わすこともしばしばだった。
とにかく毎日がワクワクして躁状態にあった。
だが結局、何度か上司から転勤を勧められ「そろそろ潮時だ」と感じ、霞が関に異動した
のだ。

大学を卒業して3年が過ぎた1973年(昭和48年)4月。
私は統計調査部から環境衛生局「企画課指導係」へ異動した。
霞が関の本省は、市ヶ谷にあった統計調査部とは180度真逆の、最悪の労働条件だった。
着任早々、零時近い国会待機が続いていた。といっても、残業中の私の任務は、課長への
お茶出しや、課内全員のそれぞれの夜食のメニューを聞いて店舗への注文したり、配達さ
れた食事を配るなどという雑用が主だった。
号俸(給与)が一番安い若造だった私はまだしも、国会や予算待機にかかわらず、課内や
局の他の課を見ていても、何をして遅くまで残っているのか、全くわからない職員ばかり
で、いつまでも机に向かって黙って何かをしていた。本省全体に「上司が残っていたら、
それ以上に遅くまで残っているのが本省の常識だ」というような「暗黙の掟」が支配し、
重くて暗い雰囲気が職場を覆っていた。特に局の筆頭課である、将来の事務次官候補の一
人だった企画課の課長は、4人いるキャリア(課長補佐・法令係長・係員)の後輩にあれ
これ大きな声で指示をし、その度に課内に緊張が走っていた。課長に何かを指示された年
配のノンキャリアの総務係長は、おどおどして、部下の係員にせわしなく色々と小言を言
っていた。二人とも常に胃が痛いような青白い表情をして、気の毒だった。他の課も大同
小異。
この本省の「士農工商的身分制度」=「官僚制度」社会の雰囲気は一種異様で、世間には
わからない闇のようなものだった。
現在はわからないが、当時から私が退職するまでの間を振り返ると、世間は「本省は遅く
まで大変だろう」と思っているようだが、それは違う。
文書主義で位階秩序(職位と職能の上下格差)が組織をしっかりと貫徹しているので、決
裁文書一つとるにもやたらと時間がかかる。権威主義、見栄、セクショナリズム、排他的。
そうした伝統的な官庁の体質から、何でもない文書一つの決済でも、なかなか進まずに遅
れるのだ。再説明、追加資料の作成、さらに新たな他局への合議、文書の書き直し・差し
替えてのやり直し。それで仕事が遅れる。些末な欠点を見つけて文句をつけた人が優秀。
遅くまで作業している人が勤勉。自分の係には関係なくても付き合いで残業する者が愛
(う)い奴に。実態はこんなものなのだ。
AIをどんどん活用したら、昔の仕事はあっという間に処理できる。今でも無駄は多いと
思う。

話を戻して。
私は労働条件を改善するためのアジビラを出そうと、私が作成した藁半紙大の原稿を組合
役員に見せて相談したが、やんわり断られた。それは想定内だった。組合の機関紙として
出すとしたら、定例的な「人事院勧告で給与の〇%アップの勧告を!」とか「標準職務表
(注・職員の格付け表)の見直しを」「水曜日を定時退庁の日にせよ!」等々で十分だし、
そうした事項も一朝一夕で成就できる問題ではない。それはそれで正解だが、職場を変え
ていくには根本的な理念「国民のためにやりがいのある仕事を、働きやすい明るい風通し
の良い職場を!」ということを職員皆で考える時だ、と私は痛感していた。
結局、左遷・退職覚悟で「本省の職場環境は劣悪。それを誰も何とも言わずに奴隷のよう
に従っている本省の職員。それはキャリア・ノンキャリアの言葉に象徴されている封建的
官僚主義制度にある。官僚システムは組織には必要悪で仕方がないにしても、もっと公務
員制度改革を、男女・職種・資格の相異による昇給昇格の極端な格差を是正すべきだ。恒
常的残業を改め、労働環境を改善しよう」という主旨の個人ビラを、本省全局の職員(約
2000名)に配付した。

しかし、課内・局内はおろか官房筋からも、誰も文句を言う人はいなかった。これは想定
外だった。
課内の課長などや局の筆頭補佐とか、人事課の幹部に呼ばれたら「訓告でも戒告でも、ク
ビでもいい。地方への配転ならもうけ。黙って受けるよ」という覚悟だったが。
逆に、昼休みにビラを配付し終わって午後1時前に課内に戻り、そっと平職員の身分にな
って自席に着くと、書類に埋もれた奥の席から、年齢は私より数年上の法令係長から、
「東井さん、読んでますよ。頑張ってください!」と声をかけられて驚き、恐縮したこと
もあった。

思い出すと今でも痛感するのは、私の様な者の組織上の本当の敵は、入省してほぼ将来が
ある程度約束されたキャリアや医師等の技官ではなく、ごく少ない昇進の機会とポストを
多数で奪い合う、ノンキャリアの中の一部の人々だ、ということ。
民間も含めて人間社会では、同じような部類(年令・学歴・資格等)の人々は、往々にし
て上の者には優しく(忖度し)下の者には冷たい人が多い。そして同世代同士では、幾つ
になっても嫉妬心や自己顕示欲を内包しながら、表面上で接している人も少なくないよう
だ。

さらに話を戻して。
本省に異動してきて3か月後の7月。
今度は企画課内に新設された「家庭用品安全対策室」の「調査総務係」に異動した。関係
法律が制定され、新たな省令室(注・課は政令室)の設置が認められたからだ。室の業務
目的は、有害な化学物質を含有する家庭用品(赤ちゃんのおしゃぶりから、下着、衣服、
食器、家具等々、人が触ったり着たり口に含んだり、そのものから発する物質を嗅いだり
することにより、人体に害を与える家庭用の品物)の指定や、それに含有されている有害
物質の指定。
この新設なった室は、本館に直結した旧館ビルの屋上に急ごしらえされた、プレハブ造り
の建物の中にあった。
まさに夏の真っ只中に居を構えたのだが、クーラー1台では執務中に汗をかくほど蒸し熱
く、もう1台設置された。
労働組合の役員は「東井君、左遷されたんじゃないか?!」と興味深そうな表情で聞いて
きたが、私は苦笑してすませた。
この室の職員は、室長以下7人が企画課や薬務局の事務官や薬剤師が集められて構成され
ていた。

以前にもこのエッセイで書いたが、調査総務係といっても雑用ばかりで暇だった。前例が
ないので、検討委員会の設置関係や当面の予算要求ぐらい。それでも私は室内の誰かれな
く「コピーがあったら行きますから、言ってください」と言い、局内にたった1機しかな
いゼロックスの器械がある部屋まで、階段を降り、渡り廊下を歩き、エレベーターに乗り、
そして器械のところに行き、コピーをしていた。室にこもってじっとしているより、はる
かにコピー取りのほうが良かった。知っている男性職員や女の子と出会うと(注・本省の
殆どの課室には女性正規職員はおらず、唯一、庶務係に1年契約・継続ありの若い女の子
がいる程度。その子たちも廊下を行き来することが多いので)他愛のない話をして楽しん
でいた。
室に戻って手渡すと、誰もが「ありがとう」と言ってくれるし。
また、下着メーカーのワコールからの招待状で、帝国ホテルで開催された下着のファッシ
ョンショーを、薬剤師の係長と一緒に見学にいったりしたこともあった。
そこで初めて、ペチコートというものを知った。

そんな日々を過ごしながら年を越した、1月のある日。
事務官のM課長補佐に呼ばれ、「4月に新しい課ができるのだが、そこに行ってくれるか?
僕もそこに行く予定だが」と聞かれ、私は、すぐに「行きます」と答えていた。
M補佐は、私が統計から本省に異動してきた時からの上司で、「東井君は字が上手いから、
頼むよ」と、厚生省の事務用紙に清書の手伝いをさせられたり、公衆浴場確保対策検討会
の資料作りを頼まれたり、残業が早く終わった時には新宿のションベン横丁の飲み屋に誘
われて、酒を飲みながら賑やかに談笑したりしていた。中央大学法学部を出た、優秀で信
頼のできる人だった。

1974年(昭和48年)4月。私は結局、企画課と室の勤務は通算1年で終了し、新設
なった指導課調査係に異動した。
新課長は、当時の公衆衛生局・環境衛生局の中で、初めてのノンキャリア(事務官)ポス
トで、私の知らない、よく勉強する紳士的な人だった。その下にM補佐を筆頭に、法令課
長補佐・総務係・指導係・調査係の総数9名からの出発だった(以降、増員されている)
法令補佐以外は全員、一般事務官だった。
課内の雰囲気は和やかな中に、前例のない新たな行政に取り組む緊張感と、道しるべがな
いところを切り開いていく覇気もあった。(注・厚生省で民間業界の監視のみならず、国
民生活に密着した営業の経営指導や業界の地位向上を図ることを業務としている課は、指
導課しかなかった。(薬務局に経済課があったが、これは医薬・化粧品関係だけ)

調査係の主たる業務は、「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」(注・現在は
名称が環境衛生→生活衛生、適正化→適正化及び振興、に改正)に規定されている、理容
業・美容業・クリーニング業・旅館業(ホテルも含む)・公衆浴場業・興行場営業・飲食
店営業(すし店・ソバうどん店・中華料理店・バーなどの社交店・料理屋・レストラン等
の飲食店)・喫茶店営業・食肉販売業・食鳥肉販売業・氷雪販売業の経営実態調査。
これら16業種について毎年2業種ずつ、各都道府県を経由して全国調査(サンプリング
調査)を行い、クロス表(集計表)に基づいて統計調査部で集計する。
その数十枚に及ぶクロス表(タテとヨコ欄)の作成と、調査票の作成(承認統計であり、
総理府との協議がある)そして集計表の解析が、私の任務だった。
クロス表を何度も見つめ、年次別・従業員数別などから売上高や借入額や経営上の問題点
などを、円グラフや棒グラフや帯グラフや折れ線グラフや表にして明示し、それにそって
客観的に解析するのである。
いつも定規とコンパスと電卓を常備して、手作りで書いていた。
これは面白かった。全作業を1年がかりで行い、調査結果報告書を製本して都道府県・関
係団体等に送付した時は、達成感に満ちていた。
多めに印刷し、業界や民間企業・団体などが貰いに来たら差し上げていた。
また、事業所統計、家計調査、毎月勤労者統計、賃金統計など各種の統計調査報告書や、
世論調査、民間リサーチ・センターの調査結果、中小企業の経営指標や原価指標の本など
を取り寄せ、各種の統計表を作り、行政資料として関係者に配付していた。

結局、この仕事を1978年(昭和53年)3月までの、4年間行った。
この時に実感したことは「やり甲斐のある仕事をしている時は、時間の経過を忘れ、課内
のメンバーに恵まれていると、変な威圧感や気苦労も無く、仕事もはかどる。そして日々
を明るく気分良く過ごせる」ということだった。

そして4月の人事異動。今度は公衆衛生局の保健情報課予防係に異動した。
今でいう感染症対策の課で、その年の11月には「コロナ」ではなく「コレラ」が上野の
池之端センターで集団発生し、大騒ぎになっていた。
私の係は気さくな係長と私の二人で、性病予防対策やフィラリア・コウ虫対策の補助金を、
都道府県に交付するのが業務だった。
この課の「面白味」は、私には全くなかったが、係長が良い人で、帰りには、しばしば有
楽町のガード下の居酒屋で「ホッピー」(注・焼酎をビール様の炭酸水で割ったもの。ホ
ップが効いているからホッピーか?)を飲みながら駄弁っていた。

そして、年が変わった1月。
ある日、誰もいないトイレで用を足していると、隣に私と同じぐらいの背丈の、年配の職
員が立った。
顔をちょっと向けたら、私が転出した昨年の春に、指導課長に就任したH氏だった。
課長は「よお!」と言ってから、用を足しながらこう小さな声で言った。
「東井君。今年の4月に指導課に来てくれないかな。法律の一部改正で新たな所掌業務
をスタートさせるんだが、君にその係長をして貰いたいのだが。どうかね?」
「何の係ですか?」
「組合振興係といって、業界の振興を図るんだ。適正化基準の見直しや振興指針の作成な
ど、色々とやらなくてははいけないことが多いんだ。やってくれるか?」
私は内心「これはやり甲斐があるぞ」と直感し、すぐに「わかりました」と返答した。
指導課長は「よしっ!」と言い、「これはまだ内緒でな」と言って先に出て行かれた。
連れションしながらの1分ほどの時間で、事実上、これが4月1日付の人事異動の内々示
となった。
そして1979年(昭和54年)4月。
かくして一年で保健情報課に別れを告げ、再び係長として指導課に戻った。それで話は冒
頭に戻るのです。

私は久し振りに水を得た魚のように動き回った。
前年に、「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律」(略・生衛法)の一
部改正が行われ、今年度から種々の新事業が施行されるのだ。
私の係の業務は、16業種ある生活衛生同業組合(各都道府県単位で設立。中央に全国を
束ねる、それぞれの業種ごとの連合会がある)の振興を図ること。
具体的には①業界が料金のダンピング(採算を無視した低料金の設定)競争に陥り、経営
が破綻する店が続出しないよう、特例として行政が最低料金を定めた「適正化基準」の策
定。
②営業の振興の計画的推進を図るための基本的事項を定めた「振興指針」の策定。
私はまず、美容業とクリーニング業の適正化基準の策定と、すし店とクリーニング業の振
興指針の策定に取り組んだ。

ここで付記すると。
そもそもこうした中小企業対策は、通産省・中小企業庁が所管として行う政策。それが厚
生省の所管となっていたのは、生衛業の全ての店が「衛生施設・設備を設置し、衛生的な
店内で、衛生的なサービスを提供する」ことが、公衆衛生の向上・国民生活の安定を図る
上で重要。
「衛生水準の確保・向上」がキーワード。それは厚生省の役目だからだ。
しかし、規制ばかりでは中小・零細店は衛生設備の設置・更新もままならない。衛生的サ
ービスの提供も図れない。しっかりした収入がないと。
そこで生衛業各店の「営業振興」を図り、経営の維持向上を支援する施策を行うために、
法律の一部改正が行われたのだ。

当時は、そうした施策以外に「分野調整法」(主務官庁は通産省)という法律の施行もあ
った。
これは「大企業」が新たに当該業種に事業参入することによって、周囲の「中小企業
(店)」の経営の安定に、著しい悪影響を及ぼす事態が生じる恐れがあると厚生大臣が認
める時、同業組合の申し出により厚生大臣は「調査」「調整勧告・一時停止勧告」「指導」
「調整命令」という行政措置を行えることになっている。勧告とは、新規参入する大企業
の事業開始時期の繰り下げや、事業規模の縮小など。
要するに、一つの大企業(例えば大手建設業)の新規参入によって、多くの中小企業店
(例えば、理・美容店・クリーニング店・飲食店)の経営が著しく悪化する事態を回避さ
せること。同業組合はその間に自力を増進させる努力をすることが眼目。

この分野調整法に基づく「調査の申し出」があった。
それは私が指導課に着任してから数か月後(?)に、石川県旅館環境衛生同業組合からの
調査の申し出だった。
内容は、「アメリカの大企業が、金沢市に『ホリデイ・イン金沢』という大規模ホテルを
つくる計画をしており、県は認可(旅館業法上の営業許可)しているが、分野調整法でな
んとか規制して貰いたい。これでは金沢の旅館は大きな痛手を食う」という主旨だった。
私は下調べをして、T専門官(指導課が創設されたときの総務係長だった)と一緒に金沢
に向かった。進出するホリデイ・インの経営側と、組合の理事長等を呼び、県庁の講堂で
会談に入った。進出企業からは当社の概容やホテル計画の内容など、組合側からは金沢市
内の旅館・ホテルの実情などを訊いた。
会場はマスコミも結構入っていて、その日のテレビ・ニュースで報道され、翌朝の日経新
聞には「厚生省、初の分野調整法による調査実施」という見出しの記事が載っていた。

数日後、いわゆる双方の話し合いで「ホテルは営業開始から2年間、24室の部屋を閉鎖
する」という主旨の覚書を交わして、この件は落着した。
その後も、クリーニング業で、タカケンという多くの取次店を有する大企業の調査に福岡
や名古屋に行ったりしたが、一回も「調整勧告」には至らなかった。
そうした時期、今度は「食鳥肉販売業」の分野調整業務で、岡山県の倉敷市に出かけた。
この案件は、岡山県庁を経由しての調査の申し出ではなく、1980年(昭和55年)に、
当時、前年まで厚生大臣を務めていた橋本竜太郎氏の事務所からの招請だった。
私は、すぐに単身で倉敷市の事務所を訪問した。
事務所を訪ね、そこの秘書に一通りの説明を受け、現地の商店街を視察して回った。
しかし、出店予定の場所もたいして広くなく、そもそも「既存の相当数の食鳥肉販売店」
の経営に、「著しい悪影響を与えるおそれがある」かどうか。その2つの要件に該当する
とは言い難い、と私は判断した。

この案件は、橋本氏の地元後援会の同業組合員が、元厚生大臣の橋本竜太郎氏に陳情した
のだろう。橋本氏も一応話を受け、事務所を通して厚生省に判断を委ねたのだと思った。
「ここまでやりましたよ」という実績を伝えることは、政治家としては当然。
私は事務所の人に、分野調整法に規定されている、組合と進出企業双方の当事者同士で
「自主的な解決の努力」を図るように指示した。
それでも叶わない場合は、連絡してほしいと。
事務所の人も心得ていて、納得した表情で頷き、すぐに「すいませんが、もう一か所ご同
行していただけませんか。この報告を橋本先生の久美子夫人にお伝えしたいので」と言っ
て、恐縮しながら車を呼んだ。
私は、これから駅前のホテルに泊まり、明朝に帰京するだけだったので構わないし、直接
に案件の評価を伝えたほうが齟齬(そご)が生じないと考え、快(こころよ)く同乗した。

着いたのは瀬戸内海の水島灘の海ぞいのところにある、落ち着いた雰囲気のバーだった。
店内はカウンターと4人席のテーブルが4つ。地元では老舗のバー(注・社交業同業組合
にあたるのだろう)と推察できた。
先客はカウンターに座っている二人だけ。橋本夫人らしき女性と、もう一人は初老の貫禄
がある男性だった。
あとはカウンター内のバーテン一人だけ。
私が近づくと、夫人と男性がサッと席を立ち、お互いに名刺を交換しあいながら挨拶を交
わした。
品の良い男性は、地元(水島)の川崎製鉄の専務だった。
私と事務所の人も、カウンターに同席して、ビールで乾杯し、今日の報告を簡単に済ませ
た後、あれこれと雑談に花を咲かせながら飲んだ。
すると、夫人が「東井係長はカラオケをおやりになりますか?」と聞くので「大好きです」
と答えた。
そして私が(東京から来たし、この夜の店の雰囲気に合う歌)と考え、西田佐知子の「東
京ブルース」を歌った。
私が夫人にマイクを渡し「奥さんも何か聴かせてください」と微笑みながら依頼すると、
「それでは、デュエットしましょう」といって席を立たれた。私もワイアレス・マイクを
持ち、二人で店のカラオケ・スクリーンを見ながら「銀座の恋の物語」を歌った。
内心、「夫人は、地元後援会の人や関係団体の人などとの接待や会合で、連日ご苦労され
ているんだろうな」とチラッと思ったが、和気あいあいに歌っているうちに、すべてが儀
礼的ではなく嘘っぽくないので、こちらの心が和らいできて楽しかった。

夫人は、1964年3月に聖心女子大学英文科を卒業したあと、同年の東京オリンピック
の選手村で電話交換手のアルバイトをしたとのこと。
お会いした時、背筋が通ってスラッとした淡い色のワンピース姿だったが、人柄の良さそ
うな誰にでも優しく、それでいて何となく、強い信念を密かに貫いている感じがした。

夫の橋本龍太郎氏は、数々の要職をこなし、1995年(平成7年)に国民の圧倒的な人
気を支えに自民党総裁選に勝利し、1996年(平成8年)1月に総理大臣に就任。自社
さきがけの連立による橋本内閣が発足した。
しかしテレビなどの露出が増えてその人気も増した半面、女性とのスキャンダルも絶えな
かった。
(ここで余談だが。私もかって、長い間の朋友である同年齢のF氏(元・ラジオ関東報道
課長、元・某テレビ局営業部長)に誘われ、赤坂の小さな料理屋に行った時に、そうした
話を聞いた。和風の落ち着いた部屋で二人で飲んでいる時に、女将が挨拶に入ってきて、
少しの間、F氏と会話していた。「龍ちゃんの彼女は、まだ働いているの?おろしたのか
な?」「そうらしいのよ。可哀そうにねえ・・」
女将が退室した後、F氏に尋ねたら、やはりリアルな話だったので、驚いたことがあった
が)

いずれにしろ、橋本・元首相は人気者だったし、女性スキャンダルで沈没するようなこと
はなかった。それには夫人の極めて大きな配慮と忍耐による支えがあったからだと、容易
に推察される。
あの夜、ホテルまで送ってくれた事務所の人が、しみじみと「久美子夫人が地元で努力さ
れておられるから、今の橋本先生があるんですよ。
選挙でも、毎回、奥さんが一人で奮闘されていますからね。だから当選できるんですよ」
と言っておられた言葉が、今でも忘れられない。
国を問わず、良き宰相の陰には、良き妻がいるのだろう。

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。