東井朝仁 随想録
「良い週末を」

宰相の妻(3)

本題の、二人目の「宰相の妻」海部幸世さんに至るまでには、前回に述べた橋本夫人の頃
から、10年程の歳月が流れている。
そして私の心境と状況もだいぶ変化してきた。
そこで、その間に触れた印象に残っている出来事を思いつくままに、まず述べることにし
ます。

1982年(昭和57年)4月、私は前述した環境衛生局指導課組合振興係長から、公衆
衛生局結核成人病課成人病予防係長に人事異動した。
この年の夏に「老人保健法」が公布され、翌年度からは「20世紀の最後にして最大の公
衆衛生行政」と謳われた「保健事業」が、全国の市町村が実施主体となって実施される予
定になっていた。
趣旨は「我が国の高齢化社会への移行に対応し、国民の老後における健康の保持と適切な
医療の確保を図ること」で、眼目は40歳以上の国民に対する「治療から予防」に重点を
置いた保健政策の強力な実施にあった。
保健事業の内容は「健康手帳の交付・健康教育・健康相談・健康診査(循環器及びがんの
スクリーニング検査・精密検査)・医療・機能訓練・訪問指導」の7分野(注・ただし一
般には『保健事業(医療を除く)』と表すのが通例)

この年の9月には老人保健部が創設される予定となっており、その新組織は、従来の関係
業務に携わる係や職員、例えば保健医療局の保健(成人病健診・健康教育等)・社会局の
福祉(注・主に機能訓練)・保険局の医療(老人医療)の部署の人々プラス新たな人材で
編成される計画だった。
特に成人病(注・今でいう生活習慣病)予防対策の保健分野業務が主流で、「老人保健事
業の実施要綱」の策定・通知、それに事業の実施主体となる全国の市区町村に対する国庫
補助金(負担金)の予算要求書の策定が、喫緊の課題であった。
そうしたことを前提にした、4月の人事異動だった。
そしてこの年の9月10日に老人保健部が発足し、同日付の辞令で、私は新設なった老人
保健課保健指導係長に人事異動した。

昼は所掌業務に没頭し、夜は連日の国会待機で、課長や法令補佐や私の上司の医系技官補
佐らと共に、国会答弁書づくりの手伝いをしていた。
そして年末の大蔵折衝で予算要求書どおりの内示があり、翌年2月1日に法律が施行され、
急いで保健事業の実施要綱などの主要関係通知の大臣決裁をとり、発出した。新年度から
いよいよ本格的に全国の市町村が実施主体となった保健事業がスタートしたのだ。
私の係は同時に、地方公共団体や関係法人から依頼されての講演、がん登録事業や農村保
健事業の補助金交付、特に成人病予防事業に関係する団体への「ギャンブル補助金」(注
・モーターボート=日本船舶振興会、競輪=日本自転車振興会などからの公益補助。検診
車やX線テレビ装置などの購入が補助対象)の審査・推薦業務などを行っていた。

さらに。これはしんどかったが、大変楽しい思い出になったことがある。
それは、地方公共団体における「機能訓練(リハビリテーション)」や「訪問指導」の事
業に関わるマンパワーの養成を図るための、厚生省主催の「全国保健婦研修会」の実施だ
った。
これは全国の都道府県・指定都市から推薦されてきた保健婦50名ほどによる、9日間の
合宿研修。
前半は世田谷区にある三井生命厚生事業団の教習センターに合宿しての講義。後半は静岡
県の中伊豆温泉病院での機能訓練の講義と実技。そして伊豆長岡にある農協関係保養施設
を借りて合宿した。担当係長の私と係員も主催者事務局として、全日程に同行した。
前半は循環器疾患、特に脳卒中の予防・治療に関する専門家の講義。後半は病院での片麻
痺患者のリハビリの実技指導。さらに前・後半ともに宿舎に戻ってから2時間ほど、班別
の討議をさせた。例えば「地域保健行政の今後の課題」とか、私がテーマを課し、各班の
チューターが前に出て模造紙一枚にまとめた討議結果の報告をする。
夕食後は、自由時間だった。
事務局である私共の部屋に来て、ビールを飲みながら雑談する人も結構いた。東京から伊
豆長岡に貸切バスで移動する日曜日は、途中、箱根の大涌谷を見学し、伊豆の大仁でイチ
ゴ狩りなどをして、息抜きをした。

そして研修最後の9日目の終了式。「幾つもある保健婦研修でも、この研修が一番きつい。
でも一番ためになるので、毎回参加希望者が多い」と言われていた研修会だったが、私は、
何とか全力を尽くしてやり切った手応えがあったし、彼女らのひたむきな姿勢に感銘を受
けていた。
全員への終了証書の手渡しが終わった後、私が研修会の締めの挨拶をしたのだが、話の最
後に「本当にごくろう・・・」と言い始めた時に、急に今までの日々が頭をよぎり、一瞬
絶句してしまった。
すると、誰かが間髪入れずに「東井係長、プレゼントがあります!」と言い、代表者が前
に出て来て、赤いリボンが結ばれた小さな箱を手渡してくれた。
「これは全員からのプレゼントです。長い期間、ご指導下さり、本当にありがとうござい
ました。酒器ですが、あまり飲みすぎませんように!」と言って手渡してくれた。室内に
明るい拍手の音が鳴り響いた。
私は今度は苦笑しながら「みなさんありがとう!」と元気に答え、それを大事に受け取っ
た。
この研修会を2回(2年)やって、私は老人保健課を去った。

一方、この任期中に「予防は治療にまさる」というスローガンを、日本でもいち早く実践
していた、若月俊一院長が率いる佐久総合病院(長野県佐久市)に赴き、地域保健医療の
現場の状況を、つぶさに知ることができた。
さらに、我が野球部「ブルーバッカス」を本省の有志で結成し、1983年(昭和58年)
7月3日(土)に佐久病院まで1泊2日で遠征し、初の練習試合と夜の大交流会を行った
(注・後年は毎年8月末に実施)
ここ3年は新型コロナで途切れているが、それまで毎年欠かさずに遠征試合を行ってきて、
今年は早や40年にあたる。
苦労も多かったが、こうした良き想い出と御縁が生まれた老人保健課での2年間だった。

そして、今度は環境衛生局の書記室へ管理係長として人事異動。
書記室は、環境衛生局と水道環境部の全体の総務的業務と経理の取りまとめを行う部署。
管理係(男性2名、女性2名)の所掌は、局長・部長のスケジュール管理等の秘書業務、
国会業務、各課との連絡調整業務、局・部職員の人事管理(記録)業務、他局との連絡・
調整業務(特に官房人事課・総務課・国会の連絡室)だった。
私はここで、毎週水曜日を「一斉定時退庁の日」と定め、ビラを作って局・部内の各課室
に配付したりして徹底を図ったり、局・部長にも参加して貰い、各課対抗のソフトボール
大会とその後の親睦会を行ったりした。これは結構好評だった。結局、私が本省の労働組
合の役員として活動していたときに「週に一日は、残業をしないで定時退庁を!」「働き
やすい、風通しの良い職場づくりを!」というスローガンを、今度は「管理職等指定」
(注・厚生省内規で定めた、労働組合への加入が禁止されたポスト)の管理係長として、
管理業務の一環として実践を試みただけの話であった。

ここで、折角の機会だから、さらに話を続けるが。
国会開会中は翌日の国会質問があるかどうかが、各課(霞が関の殆どの省庁も同様だろう
が)の一番気になる点。
だから夕方になると、局・部の各課主任(総務係長)は、こぞって国会待機(待機・連絡
員待機・連絡先登録・待機解除の4段階)の状況を聞きに押し寄せる。だから管理係も昼
過ぎから翌日の国会質問の状況を把握するために、官房総務課の国会係に何度も足を運び、
各質疑予定議員の質問要旨がコピーされた紙や、担当の口頭説明をメモしたりして、夕方
には各課ごとに4段階の判断をする。
従来は各課主任が管理係に来て、個別に口頭で「まだ情報が入っていないので、もうしば
らく待機」とか「明日は他の委員会(注・厚生委員会以外)だから、まず関係ないと思う
けど、一応、何かあった場合に備えて、連絡員を待機させておいて下さい」などと、それ
ぞれに毎度毎度、個別に説明していた。
だから「国会待機時間」がバカらしいほど長かった。
「霞が関では、毎日、国会用務で遅くまで残る」というのが風評になっていたが、少し違
う。
質問通告があって、質疑予定議員の会館まで行って聞き取りをする(難しいが)とか、官
房総務課から正式の質問通告を受けてから、該当する課で想定問答の作成作業(課内・局
内・官房協議や大蔵協議などもある)を行う。それらのことが本来の国会用務なのだ。
ただ「質問があるかどうかわからないから、残業でもしながら待機している」というのは、
国会用務の真水ではない。
私は、そういう認識だった。

だから国会待機残業の責任の一端は、管理係段階での判断の遅さにもある、と私は痛感し
た。
夕方5時前から、各課とも頻繁に書記室に尋ねてくる。そして見通しが確定するまで全員
残っているのだ(こちらが逐次「連絡員が一人残っていれば良いです」といっても、「い
やあ、課に戻って連絡員待機と言っても、解除じゃないと課長以下は帰らないんだよ」と
主任はぼやく。
そこで、書記室の入り口に、全課名の表を書いたホワイトボードを設置することにした。
「そこに午後5時から20分置きに、各課別の状況を表示するので、それを適宜見ること」
という対応にした。「状況によるが、早ければ定時の退庁時間に初回を。その後、情報に
より順次絞り込み、最終的には定時以降1時間以内に確定させることを原則として行う」
旨を各課に周知した。
「官房総務課の国会係が待機解除というまで、万が一を考えると帰れない」という課長や
主任がいるが、国会係が全局全課の所掌を完全に把握しているわけではない。大体の判断
で振り分けするしかない。
「日本の軍事費予算の財源について」という要旨だったら、「厚生省内で関係するところ
はどこか。予算財源になる恐れがある社会保障費関係部署か」と官房総務課は判断し、当
該部局に待機をかけるだろう。環境衛生局はしばらく連絡員待機だろう。そこで管理係は
全課に「連絡員待機」とかけることになるが、局部内の10課・室あった全てには該当し
ない。多額の施設整備費を計上していた水道施設整備費や廃棄物処理施設整備費を抱える
水道整備課とか環境整備課?・・と判断して、ここだけ「連絡員待機」、あとは「連絡先
登録」にしただろう。
要は、それを第一義的に振り分けるのが管理係で、それを企画課の国会担当・法令補佐と
確認して決断する。その作業を合理的に出来れば「無駄な待機時間」は短縮されるはず。
勿論、質問が出たら該当課や法令担当補佐は徹夜に近い作業に。そしてさらに一番最後に
なるのは管理係だったが。
話が長くなったが、当時こうしたことに携わることも、ある種の面白味があった。

次の異動は、1986年(昭和61年)4月に保健医療局企画課の指導係長に。この係は
設置されて1年だった。
所管する45法人の指導監督業務(法人設立の認可、事業計画書・予算書及び事業報告書
・決算書の審査指導、定款・寄付行為の一部変更認可、厚生省後援名義の許可)公衆衛生
関係施設・設備整備補助金の交付等。
2年間在籍したが、その間に「(財)日本リューマチ財団」「(財)日本股関節研究振興
財団」「(財)老齢健康科学推進財団」の設立申請の指導及び認可をした。
特に財団法人は基本財産の多寡がポイント。全国を事業活動範囲にする財団法人は、当時、
最低3億円以上の基本財産が必須だった(都道府県単位の法人は1億円だったはず)
そして、適正な寄付行為と基本財産の運用(特に預貯金の果実)を基本とした、設立後3
年間の事業計画と収支計画が適切であれば、OK。

リューマチ財団の設立は、申請後、数か月で認可できた。
その代わり、設立準備委員会代表の塩川優一氏(元順天堂大学病院・院長。厚生省のエイ
ズ・サーベイランス委員会の座長)をはじめ、事務局の人に、こちらがあれこれ指示・修
正を与えて形式用件を一気に整えた。一つ一つの細かいテニオハのやり直しを指示しての
キャッチボールを繰り返していたら、膨大な手間暇がかかる。それは無用。
お陰で塩川氏から「法人が設立されるまでに20年間ほどかかりました。そもそも医務局
も公衆衛生局も、お互いに所管外だと受理してくれなかったのです。それが今回は迅速に
処理していただき、本当に感謝しています」と、お礼を言われた。
後日、第1回理事会(顔見世の夕食会)が紀尾井町の料亭「福田屋」で開催された際、ど
ういうわけか厚生省からは幸田事務次官と私が招待されて出席した。
大広間にコの字型に10数名ほどの配膳がされ、床の間を背に塩川理事長、七川副理事長、
それに理事の橋本龍太郎氏・社会党の党首の土井たか子氏・参議院議長になった斉藤十郎
氏が着座し、左側右側には、幸田次官や医学界の大物などが座っていた。私の両隣には、
女子医大の学長と、認可申請の際も時々私を訪れては話をしていた西岡久寿樹氏(後に聖
マリアンナ医科大学の難病治療研究センター長)がおられた。
私は、申請段階でだいたいの理事を承知していたが、実際にこれほどの「大物」が実際に
出席されているとは、部屋に入るまでわからなかった。
(実は、私が決裁を持ち回りする数日前に、西岡先生に「橋本先生に電話をして、橋本先
生から次官と保健医療局長に「お願い」をされておくとよいですよ」とアドバイスしてお
いた。決裁は一人で持ち回り、直接、大臣までスピーデイに取り終えることができた(当
時は官房長以上は本人のサインだった)

厚生省組織では末端の、単なる一係長の私を呼んだわけが、すぐに分かった。塩川理事長
の挨拶の後、乾杯から会席料理になってほどなくして、塩川理事長がやおら立ち上がり
「ええ、ここで今回の設立に多大なご尽力を頂いた、厚生省の東井係長をご紹介します」
と言われ、こちらを見ながら右手のひらを上にあげられたので、私は立席して軽く頭を下
げた。
みな、ほうっという表情で、珍しそうな視線を向けていた。
私は何とも言えない充実感に心が満たされ、そして恐縮した。
単に自分の業務を滞りなく行っただけ。なのに、その時の廻りあわせと、ちょっとした努
力で、仕事と言うものは評価が異なり、黒ずんだ鉄にもなり、輝く金にも変化するものだ
と痛感した。
そんな晴れがましいこともあったが、この時期に、所管関係法人の有志(専務理事や事務
局長等)10名によって、「とわ会」と名をつけた親睦会を立ち上げたことも忘れられな
い。この会のメンバーは徐々に増え、一時は60名ほどになった。毎年、会合やゴルフや
視察などを行ってきて横のつながりを楽しんできた。その「とわ会」も10年前に設立し
た「(一社)東井悠友林」に合併したが、去年で実質35年を迎えたことになる。

私はその後、総務係長として、再び生活衛生局指導課へ。
すると年度途中の秋に、今度は水道整備課への異動があった。
「水道法制定百周年記念行事の式典が来年2月に控えている。厚生省としてはホテル・ニ
ューオータニに総理大臣、衆参両院の議長、全国知事会長などを招待し、水道事業功労者
の厚生大臣賞授与を行う。しかし、前任者が長期に休んでいるので準備が進んでいない。
あと実質4か月しかないが、君が行ってその業務をやってくれ」と上司に言われたのだ。
これも日本水道協会の協力もあり、無事盛大に終わった。
水道整備課には2年弱ほど在籍し、全国の水道企業団の現地視察や様々な大会に出席し、
厚生大臣の祝辞代読などを行っていた。ここも楽しい部署だった。
当時は、地方公共団体から出向中の、若い研修職員が7人も席を並べており、彼らとはよ
く飲み、良く騒いだ。殆どの人が出向元に戻った後、県庁や市役所や企業団の要職に就い
て活躍したが、彼らとの付き合いは、水道整備課があってこその得難い縁となった。
次は、生活衛生局企画課総務係長に異動した。
ここは課長が固く、局の総括課長の手前、各課の総務係長や時には課長補佐が呼ばれ、ソ
ファの前で決裁文章のやり直しや𠮟責を浴びせていた。
課内も暗く淀んでいた。幸いそこは1年で終了。

1992年(平成4年)4月。今度は、保健医療局疾病対策課の課長補佐に異動した。
ここでの職務も、長い厚生労働省勤務の中では、やり甲斐のあるものだった。
そして、前述した元首相の海部俊樹氏夫人にお目にかかることになったのだ。

話の続きは次回にでも。
それでは良い週末を。