宰相の妻(4) |
G7(主要7か国の首脳会議)が広島で開催されたのが、5月19日から21日。 その前後の期間に、日本の岸田首相(又は夫妻)と各国の首脳(又は宰相夫妻)との交流 が幾つか行われ、また予定されていたので、この機会に「宰相の妻」と題してエッセイを 書き始めた。元総理大臣の橋本龍太郎氏と海部俊樹氏の奥様のことを、ほんの少しだけ述 べてみようと思ったからだ。 だが、まだ書き終えていない。 数日前に「広島サミットなどは1か月以上も前に終わっているのに」と、少し焦った。 しかし、よくカレンダーを見ると、今日は6月1日(木)。 「まだ10日しか経っていない!」と驚いた。 この時間の錯覚は、どうして生まれたのだろうか?加齢によるもの?G7の印象が薄かっ たせい?ゼレンスキー・ウクライナ大統領の電撃参加と、G7のウクライナへの軍事支援 と核抑止力の必要性の確認が全て、という印象だけが残っているが。 その後の10日間で頻発した殺人事件などの異常な出来事から、事実(衝撃的な事件の連 発)と観念(事実認識)に大きな隔たりが生じていたのだろう。 激動する現実の経過に、観念が追いついて行かないから、錯誤が生じるのだろう。 端的に言えば、今の私の生理機能は「現在の1日が、20~30年前の頃の数日分」に感 じられる。 私見では、現在の国内外の状況は、日本の為政者の好きな言葉で例えたら、第2次大戦後 で最大の「異次元」状況にあると感じる。 そう感じる生理現象を是正するのに、一番手っ取り早い方法は「現実を直視しないで、嫌 なニュースは全てスルーすること」だろう。 まさに「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿になればいいのだ。さらに「考えざる」に なれば完璧。 すでにこうした「3ざる」か「4ざる」になっているコロナ疲れの国民は、多いと思う。 だが、そうした国民が増えてくると、当然、無能な独裁者の専横(せんおう)を許してし まう。政権のほうが野党などの抵抗勢力の意見などは、簡単にスルー、無視。 以前にもこの欄で述べたが、現在の日本社会がそれだ。国家権力の中枢の者と、受け身の 多くの国民が双方でスルー。 政権側は「暗黒の民主党時代のように決められない政治から、スピード感を持った決めら れる政治に」と常に叫んでいるが、それは「スピード感とは、余計な国会審議をはしょっ て飛ばすこと。党内調整も無用ということ。首相・官邸でどんどん独断することが、決め られる政治」という感じ。 2027年度までに総額43兆円の防衛費をかけて、軍事力の拡大を図る。 そのための防衛力強化資金を捻出するために、国会の会期末までに「財源確保法案」が成 立する見込み。そうなると日本は、世界第3位の軍事大国になる。 一方、在日の米国戦闘艦を日本の民間造船所で補修する計画や、今年度に米国から長距離 巡航ミサイル・トマホークを新たに400発購入する計画(昨年度の4倍の購入額)、ウ クライナへの自衛隊車両支援等々が進行している。 ロシアによるウクライナの惨状と、中国の台湾への武力侵攻=日本との武力紛争の恐れを 強調しながら、日本は「集団的自衛権の行使」を建て前に米国の世界戦略の先兵となり、 米国軍需産業を潤しながら、このまま雪崩をうって軍国主義に突き進んで行く恐れがある。 もはや現在の日本は、いつ戦争・紛争に至ってもおかしくはない「戦前」の状況にあると、 私は偏見しているのだが。 私も自衛権の行使で「4ざる」になるしかないのか。「戦争も日本の自衛権行使で当然」 とスピード感を持って解釈していれば、簡単に済むことだろうか。 という話は、いずれ又ということで本題に。 1992年(平成4年)4月。私は厚生省(注・厚生労働省に名称変更したのは、平成 13年1月)保健医療局疾病対策課の課長補佐に異動した。44歳になっていた。 私の業務は「骨髄移植・がん対策」だった。 私は異動するまで、この骨髄移植のことは全く知らなかった。 骨髄とは、骨の内部にあるゼリー状の組織で、血液を造るところ。血液に似た骨髄液(注 ・赤血球・白血球・血小板等の血液成分の元となる骨髄幹細胞が含まれている)に満たさ れている。 骨髄移植(注・現在は造血幹細胞移植と言う)とは「白血病などの血液の難病などにかか った患者の骨髄液を、健康なドナー(骨髄提供者)の骨髄液に置き換える治療法」のこと。 化学療法などより生存率が高い、究極の治療法と当時から言われていた。 骨や脊髄の移植ではない。麻酔下でドナーの腸骨(骨盤の骨)から注射器で骨髄液を採取。 それを、化学療法等の事前処置を済ませている患者の身体に、点滴で移植する。 だが、この骨髄移植を推進するためには、大きな課題がある。 それは、ドナーと患者の白血球の型(HLA型という)が一致しないと、拒絶反応などの 副作用により、成功が得られ難くなるということ。 赤血球にABO式の型があるように、白血球にもHLA型という血液型がある。A座、B 座、C、D、DR、DQ、DP座とあり、例えばA座でも、A1・A2・・・・と30ほ どの型がある。 これらの組み合わせだと数万通りになる。 したがって、患者のHLA型とドナーのHLA型が一致するのは、兄弟姉妹間では4分の 1、非血縁者間では数百~数万分の1の確率になる。 私が白血病になったとしたら、6人兄弟だから確率が良いが、不一致だったら知ってる限 りの人々にお願いをし、誰かドナーになってくれる人を自力で探さなくてはならないのだ。 私がこうしたことや、次に述べることを知ったのは、骨髄バンク推進事業の担当補佐とな った時だった。 当時は、御家族が大変な努力をし、見かねた支援団体の人達が協力して世間に訴えてもド ナーが見つからず、無念の死に至った患者や悲嘆にくれた御家族が、あちこちにおられて マスコミでもたびたび報道されていた。 私が担当補佐につく数年前から、多くのドナー(骨髄提供者)を募り、その骨髄提供希望 者と血液型の登録をプールしておく、公的な「骨髄バンク」の早期設立を求める声が、各 地のボランテイア団体から湧き起こっていた。そして各地のボランテイア団体が集結して 「全国骨髄バンク推進連絡協議会(全国協議会)」(注・この団体名のHPをご覧くださ い)が結成され、50万人分の請願署名が国会に提出されたり、また、厚生省に「骨髄移 植対策専門委員会」が設置されたりしていた。 そして1991年12月に、財団法人「骨髄移植推進財団」が設置され、公的骨髄バンク がスタートしたのだ。 その4か月後に、私は骨髄移植推進事業の担当補佐になった。 (ちなみに、現時点のドナー登録者数は累計で約54万人。詳しくは「日本骨髄バンク」 のHPをご覧下さい) その後の2年間の在籍中のことは、書きつくせないほど様々なことがあったが、今までも 何回か述べてきたことなので省略します。 1点だけ思い出の話を。 私が骨髄バンク事業の担当となった2か月後の1992年5月末に、元首相・海部俊樹氏 の夫人である海部幸世さんが、全国協議会の会長に就任した。 前年の11月に海部氏が首相を辞任しており、それから約半年後の就任だった。 私は全国協議会から話を聞いた時「首相夫人の役目が済んだので、行動しやすくなったの だろう。ボランテイア団体の会長になられるとは、気持ちの良い人だろう」と思った。 「それにしても全国協議会はいい人を選んだものだ」と感心した。 その理由がわかった。 海部・元首相は名古屋市の生まれ。早稲田大学第二法学部を卒業後、愛知県選出の河野衆 議院議員の秘書をし、その後、愛知県第3区から衆議院議員選挙に立候補。全国最年少で 当選。海部夫人は名古屋市にある金城学院短期大学を卒業し、日本社会党の柳原代議士の 事務所を手伝っていた時、海部氏と出会って結婚している。 二人とも愛知が地元。その海部夫人に会長を依頼したのは、全国協議会の大谷貴子氏との こと。 大谷氏は、名古屋大学付属病院で、母親からの骨髄移植を受けて病気を完治させた経験が あり、その後、民間の東海骨髄バンクを立ち上げた。以降、今日まで様々な骨髄バンク推 進のための活動を行っている。聡明で行動的な人だ。そうしたこともあり、海部氏と同じ 地元民としての交流があったのだろう。 発案は全国協議会の初代運営委員長(現在の理事長)だった宮戸征美氏だ。 氏は全国協議会発行の「10周年記念誌」(2000年6月)で、こう語っている。 「ボランテイア団体として活動して行く上で、社会的な知名度や信頼性がどうしても必要。 実は骨髄バンクサミットをブッシュ大統領夫人やゴルバチョフ大統領夫人、サッチャー首 相などを日本に呼んで、開きたいと思っていた。それには海部さんしかいないと考えた。 サミットは実現しなかったが、大谷貴子さんの仲介の努力もあって、海部会長は実現しま した」 また、余録だがこう語ってもくれていた。 「厚生省の東井朝仁さんには、よく頑張ってもらいました。感謝しております」と。 その言葉で、私は十分だ。 一方の海部夫人は同誌で「ちょうど10年前、ヒューストンサミットで、ブッシュ大統領 夫人と骨髄バンクの活動をなさっていることなどを、お話しました(略) 私達の目的は、一人でも多くの患者さんの救命です。この大きなテーマに向かって、「い ま新たな一歩」を、ここから踏み出そうと決意している次第です」と述べている。 他の宰相の妻とは位相が異なる。 それは海部俊樹氏もそうだった。 歴代の首相を見てもわかるように、首相になるのは「世襲議員」が多い。 最近の例では、福田氏も、麻生氏も、小泉氏も、安倍氏も、そして岸田氏も。 みな地盤(ジバン・地元の支援組織)と看板(カンバン・知名度)と鞄(カバン・資金) を持っているが、父親や祖父などから既得権益を引き継いだ世襲議員ではない海部氏は、 それらが乏しい。それでも小派閥の河本派に属していながら、人柄がよくて早大雄弁部の 先輩だった、竹下派の竹下登に可愛がられた。 結局、リクルート事件で次期首相候補の大物が次々に出馬できず、自民党の総裁選は竹下 派が応援して勝利し、海部氏は首相に就任した。 竹下派内で総裁(次期首相)候補を調整している時、小沢一郎氏が「担ぐ神輿(みこし) は、軽くてパーがいい」と、海部氏の推薦が決まった時に述べたそうだが、海部氏はそう したことを自覚しながらも気にせず、党内で決まったことは粛々と、そして堂々と実行し ていた感があった。 海部夫人も特に家柄のステータスや学歴・職歴などがどうのこうのはなく、普通の女性が ファーストレデイとなった感じだ。その後もボランテイアに励むのだから、私は海部夫妻 には好感を持っていた。 その海部夫人に呼ばれて、ご自宅に挨拶に行ったことがあった。 それがいつの時だったかはっきりしないが、海部氏の私邸がある千代田区三番町にある立 派なマンションを訪ねたのだ。 中に入ると、胡蝶蘭の鉢植えが幾つも置かれた応接間に通された。 居心地のよさそうな、品の良いシンプルな部屋だった。 そこで幸世夫人と挨拶を交わし、色々な話をした。 夫人は途中で席を立ち、自ら紅茶とケーキを持ってきてくれた。 「ケーキはお好きですか?」と聞くので、「大好きです」と答えると、「まだありますか ら遠慮なく頂いてください」と言い、私もケーキをほう張りながら頷いた。 夫人は全体的に可愛らしい、話し方も普通の奥さん風だが、しっかりしてテキパキした、 頭の回転が良さそうな印象を受けた。さすがファーストレデイだった人だけあるな、と感 じた。 幸世(さちよ)夫人は、当時のマスコミから、中国の毛沢東夫人である猛女・江青(コウ セイ)にかけて、「コウセイ夫人」と揶揄(やゆ)されていたので、とても気の強い女性 を想像していたが、お会いしたら「全く違うではないか!」と、マスコミの表現に内心で 憤ってみた。 ただし、幸世夫人は政治活動にも積極的で、名古屋の地元に1万人以上の婦人後援会を立 ち上げ、海部氏の貴重な組織票としていたとのことなので、なかなかの政治手腕の持ち主 だったらしいが。 思い出すと、夫人が私に聞きたかったのは「骨髄バンクの課題」と「全国協議会の会長と しての役目」だったような気がするが、すでに中身は忘れてしまった。 それより、元首相夫人と美味しい紅茶(夫人は紅茶が好きだと言っておられた)とケーキ を食しながらの小一時間のお喋りは、心が温まるひとときだったことは鮮明に覚えている。 その年の年末に、幸世夫人からグリーテイングカードが届いた。 家族全員の集合写真と直筆の手紙だった(注・HPの表紙写真集をご覧ください) そういえば、何かでこう書かれていたことを思い出した。 自民党総裁選前に竹下登氏に呼ばれた海部氏は「次期総裁選で竹下派が支援する」と暗に 言われ、悩みながら帰宅した。そこで三番町のマンションから、夫婦と長男・長女を連れ て、車で八ヶ岳のホテルへ泊まりで行った。ホテルで家族に相談したところ、全員が反対。 だが、東京へ帰る車の中で、ようやく夫人が折れ、出馬することとなったとのこと。 この逸話を聞いていたから、グリーテイングカードの家族の全員写真を見ただけで、名誉 欲や権力欲や金銭欲より、海部夫妻は家族の愛情を第一に重んじる夫婦だと思った。 今まで何人かの宰相の妻のことに触れてきました。 これは広島サミットがあったから、浮かんだこと。 国内外で「宰相の妻(ファーストレデイ)」と呼ばれる人は、ごく少数。 今度、日本でG7が開催されるのはいつの日か。 その時は、どんな「宰相の妻」が出てくることか。 そもそも、それまで生きているかどうか。 わかることは、私にとって来年は、77歳の喜寿の年。そして結婚50年目の金婚式の年 ということ。 振り返って考えてみると、私の妻は「宰相の妻」とか「大企業社長の妻」とかの「〇〇の 妻」などとは無縁だが、名もなき「糟糠(そうこう)の妻」であったことは、間違いない。 ファーストレデイとは無縁だが、この先、せめてレデイファーストでいくことにしよう。 今どき、「レデイファースト」などというと、「それは性差別だ。ジェンダーフリーに反 する」などと言われかねないが。 それでは良い週末を。 |