花屋の前で(3) |
それは、今から約3週間ほど前になる、5月30日(火)の夕方だった。 場所は、私の自宅から徒歩で10分ほど、自転車で5分弱のところにある、花屋の前。 なぜ日時を限定出来るかと言うと、私は毎週火曜日か水曜日に、必ずその花屋に顔を出し ているから。その花屋は毎週火曜日が花の入荷日だから、新たな花を買うには火曜日が一 番いいのだ。 また5月30日(火)は、私の「月1度の篠笛の個人レッスン日」だったから。 お稽古場は半蔵門駅を出てすぐの大型マンションの1室にあり、前回述べたように、私は 個人レッスンの帰りに、近くの花屋の店先を眺めてから駅に入るのが、癖(くせ)となっ ている。 その日もその店先の花を眺めてから、半蔵門線の電車に乗ったのだが「帰宅したら、夏の 花を買いに行こう」と考え、その通りにしたからだ。 地元の花屋は、前述したように、自転車で自宅からすぐのところに。 玉川通り(国道246 号線)に面した世田谷郵便局前の「世田谷警察著前」と表示された交差点(注・警察署は 郵便局の奥隣。そのまた隣側には世田谷消防署がある)を始点として、南側に伸びる通称 「明薬通り」を、徒歩では5分ほど先にある。 この「明薬通り」の通称は、かってこの通り沿いにあった明治薬科大学からきている。現 在、その跡地には世田谷テイーズヒルという10階建てほどのマンションが東西南北に向 いて数棟軒を連ねており、花屋はそれらの玄関口にあたる3階ほどの建物の1階にある。 ちなみに、そのヒルズの先には、日本大学三軒茶屋キャンパス(危機管理学部・スポーツ 科学部)がある。 この明薬通りは、都内でも私が好きな道の一つで「自宅→玉川通り→明薬通り→世田谷観 音参拝→野沢竜雲寺参拝→音楽喫茶の「LBJ」(注・茶色の小瓶)で珈琲→環状7号線 →玉川通り→自宅」が、駒沢公園ルートと共に、もう一つの定番の散歩コースとなってい る。 好きである散歩道の最たる理由は、「舗道が広い」「街路樹が続いている」ということ。 例えば玉川通りはイチョウ並木、改装なって年月が浅い明薬通りの舗道は2車線分の広さ と若いケヤキの街路樹。そして環7も舗道が広く、クスノキとケヤキの巨樹が交互に続い ている。 そんなことで目についた前述の花屋。 ここは店内や舗道沿いの敷地内に、四季折々の様々な花や植木が、大量に置かれており、 値段も安い。 例えば現在、「日日草」の花の鉢植えを買うとしたら、他では250円ほどの値付けが、 ここでは100円。 だから5月30日も、一度帰宅してから自転車で花を買いに行ったのだ。 この日は、ベゴニア・インパチェンス・サルビア・マリーゴールドの小さな鉢植えを、2 個づつ買った。そして店内のレジのおばちゃんと少し世間話をして外に出ると、東南にL 字型に伸びる広い店先には誰もいなかった。 時間は夕方の4時過ぎごろで、陽が陰っていた。 私は自転車の前の籠に鉢植えの花を丁寧に積み、サドルに腰かけてハンドルを握った。空 を仰ぐと小雨の心配はなかったが、灰色の薄い雲が漂い、わずかに西日が滲んで見えた。 心が落ち着くが、何となく寂しさを感じる黄昏時だった。 「さて、帰るか」とペダルに足をかけた時、一人の小さな男の子が店先の花々に顔を寄せ、 名札を読んだり、花びらを触ったりしている姿が目に入った。 見た感じでは、日本の小学校では3年生ぐらいだった。 しかし、風貌では日本人ではないと思った。 どこかのインターナショナルスクールにでも通っているのか。それとも近くの日本の小学 校に通っているのか。 この花屋の向こうのヒルズにある自宅に帰る途中なのだろうが、それにしても、いつまで もブラブラと花を眺めている姿は、帰る先も用事もやりたいこともない、まさに所在なさ そうに見えた。 私は「もしかしたら、店の人は店内のおばちゃん一人だったから、誰にも分らないように、 それぞれの花を順番に摘んでいるのだろうか。花にいたずらをしているのだろうか?」と も疑った。 そこで自転車のハンドルを握りながら、見て見ぬふりをしていた。 しかし、名札に書かれた花の名前を確認しては次に進んでいるので、悪戯をする様子では ないと思った。花に興味がある子なのか、それとも退屈しのぎで花の前をブラブラしてい るのか。 その小さな細い身体とフランス人のような顔つきの子供の雰囲気は、とても寂しそうに見 えた。 なぜか大袈裟だが、テレビで頻繁に放映される中東の難民キャンプの子や、空爆を受けて 地下室に避難している不安に震えているウクライナの子供たちの表情が、微かに脳裏でダ ブっていた。 「日本人で、あんな寂しそうな表情をする子は、そういないが・・」 そして、かってのスペイン映画の名作「汚れなき悪戯」の孤児(みなしご)・マルセリー ノの姿さえ、浮かんだ。 私は、「もしかしたら日本で『(ひとり)ボッチ!』」と言われるような日々を送ってい るのではないだろうか・・」とも想像しながら、そっと眺めていた。 でも、男の子は、次々と花びらを摘むような悪戯をするのではなく、ただ何となく花びら をそっと撫でながら眺め回しているだけだった。 私は内心ほっとしながら、男の子の後ろ姿に最後に一瞥して、ペダルの足に力を入れて帰 ろうとした。 その時だった。 偶然、彼と目が合った。 誰もいない閑散とした店先や舗道。その静寂の状況で、彼は私の存在はとうに承知してい たはずだ。 だからきっと、彼のほうが未だ居る私のことが気になって、振り返ったのだろう。 私は慌てながら、咄嗟に「バイバイ」と彼に向かって叫ぶと、男の子からも「バイバイ」 と小さな声が返ってきた。 私は帰り道の方向に自転車を切り返して去ろうとした。 すると、男の子が走ってきた。 そして私に右手を差し出した。 見ると、手のひらに小さな白い粒が一つ乗っていた。 私はその白い粒をつまみながら、「何?」と怪訝な顔を男の子に向けた。 すると「ミント」と答えた。 「ミントか・・どれどれ」と言いながら、ちょっと躊躇しながら口に含んだ。 舐めると口いっぱいに清涼感が漂った。 思わず「これはうまい!」と言って右手の親指を立てて喜んだら、男の子はホッとした表 情を見せた。 私は「サンキュウ」と一言残して、自転車で去った。 私は自転車で明薬通りを走り切ってから、何かやり残した感じがしていた。男の子は私と 話でもしたかったのではないか。少しでも相手になってやれば良かった。 「あの子の名前だけでも聞いておくんだったかな・・・」と。 翌日、私は近くのコンビニを数件廻り、ミントを幾つか買ってきて舐めた。 あの子のくれたミントの味がわかった。 それは「FRISK」という小さな白いケースに入ったペパーミントだった。 それからは、夕方、花屋にいく時はこのケースをポケットに入れて行くことにしているの です。 昨日(20日)の火曜日も、花屋に。 男の子の姿は無かったけど、アサガオとヒマワリとジニアという花の鉢植えを買って帰っ たのです。 アサガオの花言葉は「愛情」「結束」 花屋の前に行くと、色々な花が、忘れかけていた何か大切なことを、さりげなく思い出さ せてくれるようです。 それでは良い週末を。 |