夏がゆく(3) |
今年も「立秋」(8月8日)が過ぎた。 立秋。古代中国でつくられた、1年間を24節気(1が月に2節気)に区分し た季節の一 つ。各節気の一期間は約15日。 だが、暦(こよみ)の上の「秋が立つ(来る)」は、昔から死語に近い。 すでに私の高校時代(昭和38年~40年)から、「暦の上では立秋といえど、まだまだ 暑い日が続くこの頃」などという時候の挨拶が交わされていた。 それでも当時は、まだ季節の気象ははっきりと感じられた。 夏の季節は梅雨が明けてから本格的に始まり、学校が夏休みに入った頃から 日ごとに気温 が上がっていく。8月に入って夏の盛りとなり、月遅れ盆の日で終戦記念日でもある8月 15日を迎えた頃からは、日中の気温も徐々に和らぎ、深緑の街路樹からは枯葉がチラチ ラと舗道に舞い落ちる晩夏になっていった。 高校野球の熱闘が続いている夏の甲子園球場も、アルプス・スタンドの影が少しずつ長く なり、最後の試合の終了のサイレンが響き渡ると、誰もいなくなったグラウンドのピッチ ャーズ・マウンドの砂を、夕風が吹き上げて行く。 そうした風景をテレビを観ていると、そこに秋の気配が感じられた。 このように、かっては「夏がゆく」という気候の移ろいを、気温や風のそよぎや、空の色 や木々の揺らめきや陽光のきらめきなどから、目と耳と肌で直接感じられたものだった。 少なくとも、24節気の一つである「処暑」(注・今年は8月23日)の頃には、それら の気象が実感できていたと思うのだが、最近はどうだったろうか。 処暑は「暑さもようやくおさまり、朝夕は初秋の気配がただよい始める候」だが、近年は 9月になっても真夏日が多くなっており、秋のお彼岸までは夏季という気がしている。 これからはどうだろうか。10月まで真夏日や熱帯夜などが発生するのかも知れない。地 球温暖化による気候変動は年々エスカレートし、気候の変動が常態化している。5月の気 温も上昇し、「立夏」(注・24節気の一つ。今年は5月6日)を過ぎた頃から、これは 文字通り「夏の気が立ち始める候」に入っている。立秋は暦の上の名前だけだが、立夏は 実態を伴ってきた。 真夏日や豪雨や台風などが発生し、5月はもはや夏の季節と呼んでもおかしくはない。4 月は「晩春」で、5月は初夏だろう。 今や、春(3~5月)夏(6~8月)秋(9~11月)冬(12~2月)という気象庁が 定めた日本の四季の月別区分も、見直しを余儀なくされる時が来ているのかも知れない。 そもそも日本の四季そのものが、近年の気候変動で歪んできた。果たしてこれからも季節 区分として、足り得ていけるのだろうか。 近い将来、暑いか寒いかの気温を基準として、季節は夏季と冬季の2極に分かれ、それに 春と秋が収れんされてしまうのかも知れない。 ともあれ、私は昔から夏は好きだった(今年から嫌いになったが) 夏と言っても、5月の初夏(と呼んでいいと思う)と8月のお盆が過ぎてからの晩夏の時 季が、特に好きだった。 でも、それは精神的な分野でのこと。肉体的には心身のエネルギーが沸き立ってくるので、 夏の時季に「旅に出る」ことが好きだったと言ったほうが良い。忌避したい猛暑の真夏が 好きなのではない。 夏は、生徒・学生も勤労者も「夏休み」があり「夏季休暇」があり、1年中で一番、長期 休暇が取りやすいという時季だから。 そこで、私の一番印象に残っている、夏の旅について少し。 私は1966年(昭和41年)の8月に、一人で北海道に旅行した。 生まれて初めて訪れる北海道への旅行。そしてそれまで経験したことのない、さらには今 後も絶対にあり得ない、鉄路による長旅だった。 私は、春に高校を卒業し、4月に大学に入学し、7月に厚生省に就職していた。 カネを得るために昼は就職して働き、夜は大学に通学していた。 それからほどなくしての一人旅。大学は夏季休講。職場は月曜日から土曜日(半日出勤) の年次有給休暇を使用した。 当時の年令は、厳密にいうと18歳10か月。1か月半後には19歳。 それまでは奈良県にある天理高校の生徒として、東京の家から単身、天理市内の寄宿舎に 入居して生活をし、夏休みには帰京していた。 この帰省旅行は、奈良駅から深夜急行の「大和」に乗車し、普通座席に座って仮眠しなが ら翌朝東京駅に着くという、単なる移動が目的の旅行。 しかし、北海道旅行は生まれて初めて経験する遠路の一人旅で、目的もはっきりしていた。 目的は、母の故郷である北海道紋別郡上湧別に行き、私の祖父母と叔父(母の弟)一家が 住む家や、叔母のいる遠軽と興部(おこっぺ)を訪ねること。母の実家に数日宿泊しなが ら周辺の地域を見学し、帰路の途中に札幌の親類の家に一泊して市内を観光してくること にあった。 日本地図で北海道の頁を開けると、北海道の大地の北側、オホーツク海沿岸にサロマ湖が ある。 その左側に紋別郡の湧別の地域が載っている。 祖父母・叔父は上湧別、叔母の一人は遠軽、もう一人の叔母はオホーツク海沿岸を稚内方 向に向かったところにある、興部(おこっぺ)という地域に住んでいた。 当時の紋別は、まさに日本の北端の辺境の地の感があった。 そこが、一度も行ったことのない母の故郷。 それまで写真でしか見たことのない母の両親や弟妹。そして明治生まれの祖父母(注・祖 父は明治27年生まれ)と、曾祖父・母が入植して開拓した寒冷の大地。 私はそこを訪れたかった。彼らに会いたかった。 何となくそうすることが、20歳の大人に近くなった自分の使命であるとも思っていた。 そこで、夏が往きつつある8月中旬に、日本の北の果てに向かって旅に発ったのだ。 だが、これが予想以上の遠路だった。 この続きは、次回にでも。 それでは、良い週末を。 |