東井朝仁 随想録
「良い週末を」

夏がゆく(4)

私は、1966年(昭和41年)の8月中旬、北海道のオホーツク海沿岸のほぼ中央に位
置する、僻地と呼ぶに相応しい、母の故郷「北海道紋別郡上湧別町(注・現在の湧別町)」
に向かった。
厚生省に7月1日付で入省したばかりにもかかわらず、1週間の夏休み旅行を思い立った
のだ。

親に負担はいっさいかけず(かけられず)、色々なアルバイトをしながら大学の夜学に通
おうという方針で、4月に早稲田大学第二文学部に入学した。しかし昼はまだ何もせず、
2週間ほどのんびりと過ごしていた。
「そろそろアルバイトを始めないと・・」と考えていた矢先、かって私の住む家(教会)
に間借りしながら、東京駅前の中郵(東京中央郵便局)の外国郵便課に勤務していたM氏
に「いま、中郵でアルバイト生を募集しているけど、トモちゃんやってみない?」と言わ
れ、すぐにOKして2日後からアルバイトを始めた。
中郵の古い大きなビルは、東京駅丸の内側の前にあった。幸い、私の家の近くに、東急の
バスが行き交う停留所があり、そこから「東京駅丸の内口」行きのバスに乗れば、1本で
行けた。終点で降りれば目と鼻の先に中郵のビルはあった。所要時間は30~40分ほど
だった。

作業内容は「保留室」というところで、外国から国内に届いた多くの郵便荷物の保管・引
き渡し業務を行うこと。単純な肉体労働だった。
この郵便物は片手で持てる小型の箱や堅紙のパックが殆ど。
これらはドア一つで結ばれた隣室の東京税関・外郵出張所で審査を受けた郵便物が税関か
ら引き渡され、幾つものスチールの棚に整然と保管されていく。そして郵便物の引き取り
に訪れた受取人に、カウンターで住所氏名を記入し、身分証明書と必要書類を確認して手
渡していた。だいたいが時計や精密機器などのサンプル等が梱包されているようで、受取
人は○○商事などという会社の女性社員が殆どだった。

保留室の職員は私を入れて4人。どこか学者の様な顔をした、中郵の現場では異風なイン
テリ年長者、太った体躯で色白の温厚な中年者、私より2歳年上の郵政労働組合の組合員
である、若い頃の俳優・地井武男似の青年、そして私。
青年とは、彼から中郵内の労組青年部主催のソフトボール大会に誘われ、日曜日一日を楽
しく過ごしたり、太めの中年者には、受付業務が終了した後、一日の受付伝票の整理を頼
まれて一緒にソロバンを弾いたり。そしてこれが妙な話なのだが。
5月の最初の土曜日の午後、年長者に「お願いがあるのだが」と、八重洲口の地下街の静
かな和食店に誘われた。
あまり酒には強そうではない年長者が、ビールをグラス1杯空けた頃、おもむろにこう語
り始めた。
「私の養子に、なっていただけないだろうか」と。
「私の家は夫婦二人。子供がいないし誰も跡取りがいない。家が途絶えるのは無念。私の
財産全て、家も土地も預金もすべて差し上げるので、是非養子になって貰えないだろうか。
貴方がその家や財産をどうしようが、将来誰と結婚しようが、一切何も言わない。全て貴
方の自由にしてほしい」云々。
私は照れ臭そうに微笑みながら、やんわりと固辞した。
「そうですか・・」年長者は寂しく笑った。
そして10分後、お互いに店を出て別れた。
肩を落として去っていく彼の後ろ姿は、寂し気だった。わけもなく忸怩(じくじ)たる思
いが心をよぎったが、当然、それは仕方がないことだった。

翌週、お互いに職場で顔を会わせても、別段今までとは変わらずに挨拶を交わしていた。
そして私は毎日、ハンコを押したように、朝から広い保留室内を荷物を選別して動き回り、
昼食は下の職員食堂に素早く行って1日50食限定の特別(安い)定食を食べ、その後は、
隣の「差立て係」という国内荷物を地域別に分別する大部屋の、長い作業台に寝転び「オ
ール読物」などの小説月刊誌を読みながら、昼休みを過ごしていた。そして午後4時半に
なると、汗臭いロッカーでねずみ色の汚れた作業着を脱ぎ、半袖のポロシャツに着替えて
初夏の丸の内の街に飛び出していたのだ。
そこの景色は目が眩むほどに明るい、まさに別世界に映った。
行き交う背広姿や華やかなスーツ姿の群れ。若い溌溂とした彼ら彼女らは、私とは住む世
界が違っている気がして、気持ちがたじろくこともあった。職業に貴賤はないし、そんな
ことも考えたことが無かったが、ふっと
「これからも、こういう生活を4年間続けるのか?・・」と想像すると、私の心は沈んだ。
しかし「ままよ。これからの4年後が勝負だ。それまでの間に勉強し、色々と経験を積む
んだ!」と自分に言い聞かせ、教科書の入ったカバンをぶら下げ、さらに世界が異なる早
稲田の街に向かって行ったのだ。そんな毎日だった。

すると5月の下旬に。
私の両親と親しいKさん(注・前述のM氏と後年に結婚)が、「トモちゃん、いま人事院
が国家公務員初級職の特別募集をしているけど、試験を受けたらどう?確か願書受付が今
週中で終わるけど、まだ間に合うわよ」と教えてくれた。私は高校時代から国家公務員試
験など全く考えていなかったが、高卒程度で受験が出来ると知り、すぐに人事院関東事務
局に問い合わせ、願書を提出した。締め切りの寸前だった。
試験は6月に入り実施され、合格した。と安心している矢先に、各省庁からの採用面接の
案内が郵送で届いた(注・20か所近くの各省庁、付属機関からあった)
私はその中から、採用面接試験日の早かった厚生省と通産省をすぐに受け、両方合格した
が厚生省に決めた(本音は、他省を含めて就職先はどこでも良かった。夜学に通学する者
は、午後4時半に退庁できることを強調したのが厚生省だったのが、決め手だった)
そして7月1日、大臣官房統計調査部採用の辞令を交付された。

それから1か月半後。
前述したように、北海道へ旅立った。
19歳と言えど、もう大人だ。
まず何かをしよう。今まで出来なかったことをやろう。
そう決心して思い立ったのが、北海道への一人旅だった。
母の故郷を生まれて初めて訪れ、祖父・祖母に会うことが旅の目的だった。それは母から
も「おじいちゃん、おばあちゃんも年を取ってきたからね。私も行きたいけど無理だから、
トモヒト、一度様子を見に行ってくれないかね。おじいちゃんがすごく喜ぶよ」と、かね
てから言われていたことでもあったのだ。
母は5人妹弟の一番上。90を過ぎて亡くなるまで、常に3人の妹と弟(年は一番下。数
年前に死去)を気にかけていた。

私は、半ドン(午前中勤務)の土曜日の夕方、上野駅から18時30分発の寝台特急「は
くつる」に乗車した。まず目指す先は青森駅だった。
「もはや高校生ではなく、社会人の端くれであり大学生でもあるのだ。成人を迎えるまで
に、今までしたことがなかった長旅ぐらい、今のうちに一人でしておこう」という気持が
背中を押していた。心は勇んだ。
でも、旅の服装は高校時代の学生服上下(ボタンだけは大学用に替えていたが)
まだ背広などは着たことが無く、持ってもいなかった(入省した時も背広ではなく、夏の
半袖シャツにネクタイだった)
持ち物はボストンバック一つ。洗面道具と下着と靴下とワイシャツの着替えと、セーター
を入れていた。それだけだった。

土曜日の夕方の上野駅の構内は、仕事から解放されてネオン街に繰り出そうとするサラリ
ーマンや、リュックを背負った登山帽の若者や、これから旅行に出かけるのか、腕を組み
ながら列車の発着案内の掲示板に目を凝らしているカップル等々、活気に満ちていた。
私は、一直線に寝台特急「はくつる」が入線している東北本線の下りホームを駆け上った。
いよいよ旅の始まりだった。

まず、この上野駅から青森駅まで「はくつる」で行く。
そして青森から函館までは青函連絡船で津軽海峡を渡って行く。函館から旭川まで「特急
北斗」で行く。そして旭川で1泊し、早朝に旭川から遠軽まで石北本線で行くのだ。
当時の時刻表では、上野発18時30分→青森着6時10分。
青森港発6時30分→函館港着10時20分。
それから、函館本線・室蘭本線で函館→室蘭→札幌→旭川と行く。
夕方に旭川に着き、駅前の安宿で1泊し、翌朝、石北本線で旭川→上川→遠軽に到着。
普通列車だと上川乗り換えで2時間30分だった(注・現在でこそ特急や急行があるが、
当時乗ったのは普通列車だった)
遠軽駅で下車し、叔母の家に寄り、それから車で上湧別の祖父母の住む母の生家に送って
もらった。

「寝台特急はくつる」の乗車時間は11時間40分。「青函連絡船」の乗船時間は3時間
50分。「特急北斗」の乗車時間は6時間40分。
乗車時間約21時間、乗船時間3時間50分。車中1泊を含んだ2泊3日の紋別郡上湧別
町(注・現在は湧別町)までの旅程だった。

後で考えてみたら、ラッキーだった。「はくつる」が運行を開始したのは1964年
(昭和39年)10月1日。東京オリンピックの年で、同日には東海道新幹線も開業して
いた。「北斗」が運行開始したのは、翌1965年(昭和40年)11月1日。
私が旅行をする前年そして2年前に、これらが新たに運行されていたので、列車や連絡船
の乗り継ぎが極めて便利になっていたのだ。
しかし、現在はその比ではない。新空港・新空路の開設や東北新幹線や青函トンネルの開
通で、北海道への旅は飛躍的に便利で早くなった。

だが、あの当時の北海道の壮大な大地の迫力と、神秘を帯びた自然の荒い息づき、そして
一人の人間の無力さと儚さを考えさせられたのは、列車の長旅を基礎に北海道を旅行した
からこそだった。
そのことを心底痛感させられたのは、オホーツク海を渡る冷たい風と、延々と続くトウモ
ロコシ畑の上に、無限に広がる薄青の大空を仰ぎ見た時だった。
北の果ての夏が早くも行き過ぎて行く。私の人生も、これからオホーツク海の荒波に浮か
ぶ小舟のように、様々に揺られながらどこかへ流されてゆくのだろうか。
そんなことを、センチメンタルな気分は微塵もなく、自然に冷徹な心となって考えていた。
北海道の北の果て、母の生まれた故郷の地で、19歳の夏が静かに過ぎていくのを実感し
ていた(2023/8/9HP表紙写真(19歳の夏に・北海道一人旅(紋別の母方の叔父・叔母と撮影))を参照ください

この続きは次回にでも。
それでは良い週末を。