夏がゆく(5) |
北海道紋別郡上湧別町の母の生家に着いた。 上野駅を午後6時半に出発してから、約40時間後の到着だった。 遠軽から叔父の車で上湧別に向かう途中、ずっと外の風景を眺めていた。時折まばらに家 が建っているところもあったが、ほとんどは草木の緑に覆われた平原が、ただ延々と続い ているだけだった。 だが、母の実家に近づくと、周囲は田園的な風景に変わっていった。人が生活を営んでい る雰囲気が、様々な野菜畑や整然と植えられているトウモロコシ畑の出現で感じられてき た。 そして着いた。 車を降りると、冷気が肌に心地よかった。そして無垢ともいえる空気が清冽に身体に沁み 入るようだった。 後年、軽井沢や蓼科や、あるいは北海道では室蘭や帯広や奥尻島に初めて旅行したが、そ の時に感じた爽快な空気とは違っていた。 それらの土地は深い森や山や海に囲まれた自然豊かなところであるが、避暑で訪れた人や、 すぐに通過していく観光客などがどこかで呼吸をしており、豊かな自然といえども、細い 遊歩道や登山道の一本も、それらの人達の利便に配慮されて開発されている。 だから、誰もいないと言っても、どこかに人の気配と香りが漂っている気がする。 テレビで「ポツンと一軒家」という、辺鄙な場所の一軒家に住む人の紹介番組があるが、 これと一緒。人里離れた山奥の家に住むといえども、軽自動車で細道を下れば小さなスー パーも雑貨屋もある。年金と生産した農作物の少しでも売れれば、静かな自然と共にのど かな生活ができる。いざとなったら山を下りれば何とかなるのだ。 ひと言でいえば「ああ、自然はいいな」と思いながら吸う空気の美味さは、どこかに「安 心感・解放感」があるからだと思う。 特に自分の生活も社会も「安穏」だと、なおさらだろう。 上湧別の地に降りて吸った空気は清涼だったが、刺激的だった。そして、この僻地の自然 の厳しさを直感した。オホーツク海沿いの辺境の大気には、他の地とは違った大自然の凄 さが潜んでいるような感じがした。 ここに明治の中期に入植し、凍土の大地を開墾して農業や牧畜を成功させていこうとした 人たちには、この厳しい自然に耐え続ける不屈の精神がなければ、生活を維持することは 無理だっただろう。 祖父が10歳の頃、両親に連れられて上湧別に入植した当時(明治37年以降?)は、先 住の「屯田兵」家族たちがことごとく辞めて土地を去って行ったそうだ。祖父は「このあ たりの屯田兵は、みな農業がうまくいかず、生活が出来なくなっていた」と述懐していた。 屯田兵とは、明治政府が創設した「北海道の警備と開拓にあたる兵士とその部隊」のこと で、平時は農業に従事し、非常のときは警備(戦争)にあたっていた。 これは徴兵制度ではなく一般国民(当初は士族優先だった)からの応募制で兵が採用され ていた。だが、日露戦争が始まった明治37年(翌38年に日本が勝利して終結)に、屯 田兵制度は廃止された。 入植後、成長した祖父は祖母と結婚して家を継ぎ、6人の子供(後に一人病死)を産んで 育てながら、まさに不毛地帯の開拓と農業の改革に全力を傾注してきた。そして祖父の背 中を見て育った叔父が結婚し、叔父夫妻も祖父母と共に家を守り開墾に励み、壮大な田畑 を作り上げ、当地では優れた開墾農業者としての地歩を固めていたのだ。 今までに「ああ、空気がうまいね」などと言える余裕が、果たして彼らにどれほどあった ことだろうか。 「撤退はしない。生きるか死ぬかだ。俺はやる!」 細心大胆で先見力に優れていた祖父は、きっとそう自分に言い聞かせてきたのではなかろ うか(2023/8/23HP表紙写真(上京中の祖父(母の父)と(隣は母。私が20歳の頃)))を参照ください) ここで、上湧別という地域について少し説明を。 平成21年に上湧別町(約5500人)と湧別町(約4800人)が合併し、現在は湧別 町(約8000人)となっている。 これが日本の多くの町の人口と比較すると、まあまあとなるが、町の総面積は12.5万平 方メートルあり、人口密度(1K㎡当たり)は64人。 極端な比較かも知れないが、私の住んでいる世田谷区の場合は、人口密度は16200人。 湧別町の気温は。 15年前の2008年1月の平均気温はマイナス8度。8月は18.4度。 2020年1月の平均気温はマイナス5.4度。8月は20.1度。 この12年間で、1月は2.6度、8月は1.7度、気温が上昇している。 私が訪れた1966年(昭和41年)は2008年の42年前だから、気温は現在よりも っと低かったと推定される。 当時、叔父は「冬はマイナス20度を超える日も多くて、しばれるよ」と言っていたが。 ちなみに、日本の最北端の街・稚内市の2008年1月の平均気温はマイナス6度。8月 は18.8度だったので、湧別の寒さも半端ではなかったのだ。 話は戻り。 車を降りると、木造平屋の家の玄関に、写真でしか見たことが無かった祖父と祖母が出迎 えに立っていた。その後方の土間の奥から、叔父の妻が子供の手を取って慌てて出てきた。 私は叔父に促され、薄暗い土間に入った。 すると、すぐ右側に厩(うまや)があり、大きな農耕馬が「かいば」(注・馬の餌の枯草) を食べていた。 私は「馬小屋は別ではなく、一緒に住んでいるんだね」と驚くと、叔父が「このほうが暖 かくなるからサ」と笑った。 土間の左側は上がり框(かまち)で、畳敷きの居間が奥に2つ並んでいた。 また、土間の右側に、炉(いろり)がある4畳半ほどの板の間があった。 台所と便所と風呂場は土間の奥にあった。 現在思い出せるのは、その程度だが、もう一部屋あったかどうかが、わからない。 時間は午前10時半を過ぎていた。私は家の人達と御茶を飲みながら、東京の家族の話な どをしていた。 そして昼食には早いので、叔父がビールを持ってこさせ、祖父と3人で飲み始めた。祖父 はすぐに畑に出たが、叔父は私の相手をして飲み続け、私もそれにこたえていた。すると 近くに1軒だけある親類のおじさん(注・徒歩で15分ぐらいのところに家があるが、こ こからは全く見えない)が駆けつけて、さらに酒席が続いた。 酒はビールからウイスキーに代わっていた(注・確か2年前の昭和39年に発売されて評 判だったサントリー・レッドか、サッポロのハイ・ニッカの500円瓶だった)もはや、 ビールの備えは1本も無くなっていたからだ。 そのうち、叔父もおじさんも「もう飲めない」と言って、フラフラしながら畑に出て行っ た。ウイスキー瓶が空になっていた。 私はまだ気分が良かったが、便所に行こうと立ち上がった際、腰が抜けて立てなかった。 そこで四つん這いの恰好で這っていって、何とか用を足した。 居間に戻ると酒瓶やコップや皿が綺麗に片づけられていた。 私はそこに大の字になって寝転んだ。眩暈がして天井がグルグル回転して見えた。目をつ ぶるとすぐに眠りに入り、目を開けた時は夕方だった。 祖母が心配そうに「トモヒト、あまり飲み過ぎると身体に良くないよ」と、ポツリと言っ た。まるで母と瓜二つだった。 夕食では大きなタラバカニが何匹も盆に盛られ、遠来の私を歓待してくれたのだが、私は 殆ど口に運べなかった。まさに生まれて初めて経験する泥酔であり、不作法だった。 それでも何とか陽気に喋り、和気あいあいとした団らんとなった。 居間には「だるまストーブ」がたかれていた。 すでに朝夕はストーブに火をつけており、寝布団は敷布団と掛け布団2枚が用意されてい た。 風呂は気持よかった。これも初めて経験する「五右衛門風呂」で、分厚い鉄の風呂釜がそ のまま浴槽になっており、丸い風呂蓋に両足を乗せて沈めて入るのだ。だから足は釜底の 鉄に触れない。だが、縁に触ると火傷しそうで恐る恐る浸かった。 北側に木枠のガラス窓がついた板張りの小さな風呂場で、天井から裸電球がぶら下がって いた。風呂に浸かると、いつの間にかヤモリが、ガラス窓に2匹はりついていた。窓の外 は光一つ見えない漆黒の闇で、深閑な夜気が大地を包んでいた。 私はこの時、祖父母が開墾し、母が生まれ育った大地に来た、という感慨に深く満たされ ていた。 翌朝は朝食後に、囲炉裏のある板場の部屋で祖父とお茶を飲んだ。 祖父は囲炉裏の炭火でタバコに火をつけて、うまそうに吸っていた。 そして「トモヒトも吸うかな?」と1本勧めてくれた。 タバコは当時発売されたばかりの「若葉」だった。 確か値段はタバコの種類の中で「しんせい」と同様に安かった。 一般的には「まずい」「軽すぎる」という評判だったが、父も吸っていた。 私も父の不在の時に、父の書斎で盗み吸いをしたことがあったので「喫(の)みやすい」 と承知していた。 私がフッとうまそうに煙を吐く顔を、祖父は黙って柔和な表情で見つめていた。 この朝食後の囲炉裏を囲んでのお茶は、私が家を発(た)つ日の朝まで祖父と続けた。こ の小一時間の雑談では、東京の家族のこともさることながら、祖父は時事問題や政治につ いての自論を好んで、実に的確に話していた。 母から「おじいちゃんは社会の事や政治の話が好きだから、トモヒトが相手をしてやると 喜ぶよ」と聞いていたが、確かに、内容は卓見に溢れていて驚いた。 祖父は私に「トモヒトは将来何になりたいのだ?」と尋ねた。 私は「まだ全然わからないよ。そうだな、漠然としているけど何かの指導者になりたいか な」と答えたら、嬉しそうに頷いてくれていた。 私は「それより、おじいちゃんは政治家になったほうが似合ったかも知れないな」と言お うとして、やめておいた。 政治家より北の大地を開墾して、大規模農業を成功させた人間のほうが、遥かに魅力的に 思えたからだ。 その点では、福島県の伊達で生まれた祖父を例えれば、高知県の言葉である「いごっそう」 (注・名利にとらわれず、信念を貫く者)があてはまるのだった。 この日は、叔父に乗馬を教えて貰った。 初めは「裸馬」に乗馬を試みたが、なかなか乗れない。うまく乗ったら馬が少し首を揺す っただけで、滑り落ちる始末。そこで鞍を付けて貰い乗馬した。 座り心地は安定しているが、余りの高さに驚いた。「馬の背に乗ると、こんなに見晴らし がよくなるのか」と。確かに下手に落馬すると怪我をする高さだ。 視線を四方に向けると、遥か彼方まで見晴らせた。 叔父に「どこまでが家の畑なの」と前方を指さして尋ねると、「ずーと向こうまでサ」 「他の方向は?」「東西南北全部サ」と平然と答えてくれた。 馬の左右の手綱を上下に揺すると歩き始め、強く引くと止まる。 左手綱を引くと左に曲がり、右を引くと右に曲がる。手綱を上下に強く揺すると足を速め て駆け出す。しかし、手綱の扱いが下手だと、馬はプイと動作を止めてしまう。そこでヨ シヨシと首を撫でてなだめると、機嫌を直してくれる。そんなことを繰り替えすと自由に 歩かせることが出来るようになった。 そこで、私は馬上の人となって、ビート(てんさい。砂糖大根)や小豆や金時豆やアスパ ラガスやジャガイモやトウモコシやリンゴの木が耕作されている広大な田畑のあぜ道を進 んだ。 馬を引き返すと、今度は叔父に「オートバイに乗ったことがあるかい」と聞かれ、ないと 言うと教えてくれた。 当時人気が出ていた、ホンダの「スーパー・カブ」という50ccの小型オートバイだっ た。これはすぐに運転ができ、叔父に「自由に使っていい」と言われて車を走らせた。家 が一軒もないどころか、草地や田畑以外に何もなく、山影一つ遠望できない壮大な平原。 その中に祖父たちが残してきた一直線の細道を、どこまでも疾走した。 オホーツク海を渡って来たであろう涼風が心地よかった。 私は脳裏にある何もかもを吹き飛ばしながら、灰白色の大空と緑の大地の間を駆け抜けて 行った。 その時、心の奥底から何か熱いものが身体中に流れていた。 北国の夏の夕暮れは早かった。 この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |