続・美術の秋に |
先週の平日、家内と上野公園の東京都美術館で開催中の美術展「第84回一水会展」に行 ってきた。 前日までの猛暑は薄らぎ、薄曇りの空の下、久し振りに目にする上野公園の森は懐かしく 穏やかで、人影のまばらな園内の広い道を、悠然と歩く気分は爽快だった。 一水会展は、都美術館のエントランス階にある、第一展示室から第4展示室をすべて使用 して開催されており、その規模の大きさに驚いた。一つの展示室だけでも立派な展示会が できる広さ。 今回展示(出展)されている絵画数は756作品とのこと。審査前の一般の応募作品数は、 この倍ぐらいあったのだろう。 さらに驚いたのは、作品のどのサイズも(私の見立てでは)大きかったこと。 そもそも私は「絵のサイズの号数」などには無知だった。 小学校や中学校の図画工作(注・当時はこの科目名)の中で「絵」を描く際に使った画用 紙の大きさが「普通」で育った。 だが、世田谷の上馬の自宅から程ない距離にある洋画家の「向井潤吉アトリエ館」を散歩 がてらに見学した時、その何点も展示された絵画のサイズの大きさを見慣れてくると「こ れが展示に耐えうるプロの絵画のサイズ」と認識するようになったのだが。 油絵のカンバスのサイズには、0号の長辺(長いほうの辺・だいたい横幅)は18㎝、 10号が53㎝、20号が73㎝、50号が117㎝、100号が162㎝、150号が 227㎝、200号が260㎝等とあるようだ。 これで推測すると、前回に述べた私の家の絵画は20号ほどだろう。 購入した際は「少し大きくて値が張るが、一生に一度の買い物」と粋がっていたが、なん のなんの。展示場での20号などは小さいほう(と感じた) 一水会展では、多くの作品が50号以上、いや100号以上だったのではなかろうか。畳 一枚の長辺が180㎝。 そうした私にとっては初めてである、大きな作品がずらりと整然と展示されている会場を、 家内とくまなく鑑賞して回った。 会場を出た時は、すでに2時間弱の時間がたっていた。 それぞれの絵画の技量の巧拙はわからないが、その作品が発する情感のエネルギーに魅さ れ、長く立ち止まってしまうことがしばしばあったからだ。 会場に入ると第1号展示室の最初に、会の最高顧問・小川游氏(91)の 「汝は斜里岳」 と題した、原野の遥か向こうに聳える冠雪の斜里岳を描いた、清冽な絵画が異彩を放って いた。 やはり長年、大きな美術団体をリードしてきた人だけあって、北の大地の、震えるような 寂寥感が漂う風景の中に、作者の寛大な愛情を忍ばせているようで、会場内の全作品を見 終えてから、改めて氏の画才と人間性の奥深さを知った気がした。 私は音楽(歌)も文学(読書)も好きだ。 だがこれらは、言葉から成り立っている。 音楽のメロデイー(旋律)も、誰が作曲しても「ド」は「ド」の音であり、誰が聴いても そのメロデイーは変わらず、言葉のように相手に伝わるはず。 しかし、絵画などの美術には言葉がない。それを要しない。 観る者が自分で心の中で、絵画から作者の心情を言葉として感じるのだ。 だから1枚の風景画を見ても「さあ、心を開いて空を見上げよう。空は君をやさしく見つ めているよ」と語りかけられているように思う人もいれば、「何も言ってくれない。聞こ えない。つまらない」と感じる人もいるだろう。 音楽や文学やお芝居や映画と違い、美術は、作品の持つ魅力と、それを鑑賞する人の心と の「相関関係」がうまくいってこそ、暗黙の会話が生じるのだろう。 それはもしかしたら、言葉以上に人の心に響ことなのかもしれない。 今夕は、自宅の食堂の白壁にピン止めした、月替わりのカレンダー「モネ・名画と暮らす 12か月」を、10月の「アルジャントゥイユの秋の効果」に替え、白い雲が浮かんだ青 い空と、それを映すセーヌ川の水面を描いた、淡い白と青色が美しい4号(約33㎝)の 絵を眺めながら、1号、いや1合の酒を静かに飲むことにします。 美術の秋・芸術の秋は、いよいよ本番です。 それでは良い週末を。 |